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第138話


 放課後を迎えた校舎は、閑散としていた。窓の外からは、運動部の掛け声も吹奏楽部の練習の音も聞こえてこない。

 それは今日が、部活動が原則として休みとなっている月曜日だからだろう。生徒も多くが帰宅し、水を打ったかのような静けささえある。

 そのなかで守口秀人もりぐちしゅうとは、東校舎三階のトイレにいた。

 とはいえ、この時間に用を足しに来たのではない。今、守口はすりガラスを後ろにするように立っており、その前には入り口を塞ぐようにして、神山英俊かみやまひでとしが立っていた。腕を組んで立っている姿は守口よりも頭一つ分背が高く、またサッカー部に所属していることもあって、身体つきもがっしりとしていた。

「ほら、早くちんこ出せよ。何もったいぶってんだよ」

 数十秒前と同じことを神山が言う。だけれど、守口の手は動かなかった。

 今トイレには、自分たち二人しかいない。だけれど、いくらそうだとしても神山の言う通りにすることは、恥ずかしくてとてもできなかった。

 神山の表情は半笑いで、どうしても守口の局部が見たいわけではないだろう。ただ単に自分を辱めて、笑いたいだけだ。

 それは中学に入学してからの一年間で、守口にも身に染みて分かっていた。

「で、でも……」

「何が、でもなんだよ。いいからちんこ出せよ。言う通りにしねぇと殴るぞ」

 神山の表情は相変わらずにやついていたけれど、でも神山なら本当にやりかねないと守口は感じる。実際、誰も見ていないところで暴力を振るわれたことも、守口には一度や二度のみならずある。いつイライラして、自分を殴ってこないとも限らない。

 やはり神山の言う通りにしなければならないのか。だけれど、もしそうしたら自分は何かかけがえのないものを失ってしまいそうな気がする。それは守口には切迫感を持って感じられた。

 こんなことがいつまで続くのか。感情のダムが決壊したように、守口の身体は衝動的に動く。

 何か得体の知れないものに突き動かされるかのように、守口は神山の身体めがけて突進していた。とっさのことで、サッカーで培った反射神経も出番がなかったのだろう。神山は、守口の突進を真正面から受ける形となる。

 何十キログラムもある物体が勢いを持ってぶつかってきたことに、神山の身体はあっけなく倒れた。守口もそのままの勢いで、タイル張りの床に倒れこむ。

 倒れた際に、神山は強く後頭部を打ったらしい。頭を押さえて「痛ってぇ」と言っており、すぐには起き上がれていなかった。

 その瞬間、守口の頭は目まぐるしく回る。このままだったら、すぐに起き上がった神山に殴られてしまうだろう。それも一回ではなく何回も。

 あまりに均衡を欠いた報復が容易に予想できて、怖れが守口の身体を瞬発的に動かしていた。

 守口はまず、神山の身体に馬乗りになるように跨がる。

 そして、神山の首に両手を当てて、一気に締め上げた。喉の感触が指に食い込む。

 神山は一瞬驚いたように目を見開いてから、守口の両手に手を回して、自分の首から引き離そうとする。

 だけれど、守口の手は簡単には離れなかった。当然普段なら、力は守口よりも神山の方がずっと強い。

 だけれど、身の危険を強く感じたことで、守口の手には常時なら考えられないほどの力が宿っていた。生存本能や火事場の馬鹿力などという言葉も頭をよぎらないくらいに、守口は神山の首を締め上げることに全精力を注ぐ。

 神山は引き続き守口の手を引き離そうとしたり、足をじたばたさせて姿勢の回復を図っていたが、守口はその全てを必死に抑え込んだ。

 ここで手を離してしまったら、自分は神山に何をされるか分からない。それこそ殺されるかもしれない。その危機意識が、守口の身体に力を与えていた。

 そのまま守口が神山の首を絞め続けて、どれくらいの時間が経っただろうか。ずっと首を絞められていて息が苦しくなってきたのか、神山の動きや引き離そうとする手の力は、徐々に弱くなってきていた。

 それでも、守口は力を緩めない。ここまで来たらもう行くところまで行かなければならないと、全身の細胞が感じていた。ありったけの力を振り絞って、神山の首を絞め続ける。

 すると、神山の手の力はある瞬間を境に急激に弱くなり、全身の動きも止まった。あれだけ見開かれていた目も、閉じてしまっている。

 それでも、守口はしばらく神山の首を絞めることをやめなかった。これで神山が息を吹き返したら、報復で自分が殺されかねない。そういった意識が、神山の首から手を離すことを拒んでいた。

 そして、神山の身体が完全に動かなくなったことを確認してから、守口はゆっくりと手を離した。

 それでも、神山の身体はすぐにはまた動かず、そのことが守口を正気に返らせる。おそるおそる顔に耳を近づけてみても、神山の口や鼻から息は漏れてはいなかった。

 意識を失っているふりでもなさそうで、守口は戦慄する。跳ねるように立ち上がっても、神山は再び起き上がることはなかった。

 もしかしたら、自分は取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。

 守口は急激に怖くなって、思わずトイレから飛び出していた。廊下を全力で走って、校舎の外に向かう。

 その間も誰ともすれ違うことはなくて、守口は今起こったことが現実ではないのではないか、これは全部悪い夢なのではないかとさえ感じていた。





「万里さん、窃盗の容疑で逮捕された少年への事情聴取が終わりました」

 取調室から戻ってすぐに上辻は、万里のもとへと向かっていた。時刻は夕方で、生活安全第二課の職場にも西日が差しこんでいる。

「そうか。それでどうだった?」

「はい。その少年は食料品を万引きしたのですが、どうしてそうしたのか訊いたところ、『実際に万引きをしたらどうなるのか』という、興味本位での行動のようでした」

「そうか。まあ動機としては珍しくないな」

「はい。本人も万引きをしたことに深く反省しているようでしたし、万引きをした商品の総額から言っても、今回の場合は簡易送致にすることが適当だと思うのですが、いかがでしょうか?」

「ああ、そうしてくれ。俺たちも家裁も、全ての事案を詳しく調査するわけにはいかないからな」

「分かりました。それでは調書の作成に移ります」

「ああ」と万里が頷いたのを確認してから、上辻は自分の机に戻る。そして、パソコンに向かって調書の作成を始めた。氏名や生年月日などの基本的な情報や、犯行の内容、事情聴取での様子などを専用のソフトにまとめていく。

 ふと机上の時計を見ると、時刻はもう午後の四時半を回っている。このまま何事もなければ、この調書の作成を終えれば、自分は退勤して宿舎に戻ることができるだろう。

 帰ったら何をしようか。夕食には何を食べようか。仕事をしながら、上辻は軽くそう意識してしまう。

 だけれど、そんな上辻を注意するように、万里の机の上に置かれた警察無線が鳴らされた。「県警本部より生安二課、どうぞ」という音声が、上辻のもとにまで聴こえてくる。

「はい。こちら生安二課、どうぞ」と万里が答える。すると、続いた警察無線の音声に上辻の手は止まった。

「大豆島交番より入電有り。長野龍崎中学校で少年が倒れているとの通報有り。至急現場に向かわれたい。どうぞ」

「了解」そう言うと、万里はおもむろに立ち上がった。そして、上辻に「行くぞ」と声をかけてくる。

 その声に、上辻は頷かざるを得ない。帰るのが遅くなると思っている場合ではまったくなく、それどころか上辻にはかつてないほどの緊張感が走った。

 それは、上辻が長野中央警察署の生活安全第二課に配属されてから、初めての事態だった。

 コートを羽織り、上辻は万里とともに警察署の外に出る。吹く風は肌寒くて、春の到来はまだ遠いと上辻に感じさせた。


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