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第139話


 そのニュースを雫が目にしたのは、判定会議も終わって宿舎に戻ってきてゆっくりしていた、夜の一〇時のことだった。本を読んだり音楽を聴く合間に、雫はスマートフォンでSNSをチェックする。箸にも棒にもかからないフォロワーの取り留めのない投稿が並ぶ中、雫は一件の投稿に目を留めた。

 それは長野の新聞社のアカウントがした投稿だった。


〝【速報】長野市で一三歳の少年が死亡〟


 その投稿は、漫然とタイムラインをスクロールしていた雫の手を止めるには十分だった。一瞬息が止まるかのような衝撃的なニュースに、雫は思わず記事のリンクをタップしてしまう。

 今日午後六時頃、長野龍崎中学校で一三歳の少年が意識不明の状態で発見され、搬送された病院で死亡が確認された。長野県警は同じ中学校に通う少年(13)を、重要参考人として連行。事件との関連性を調査する方針だ。

 数行しかない記事の概要は、そんなところだった。そのニュースに、雫は頭を殴られたかのような思いを受けてしまう。ただでさえ少年の死は痛ましいが、それが少年非行に直接的に関わっている自分ならなおさらだ。雫が法務技官として長野少年鑑別所に配属されてから、少年が殺されるような事態は初めてだった。

 もちろん連行された少年が事件を犯したと決まったわけではないが、それでも雫は自分事として捉えていた。もしその少年が事件を犯したのなら、警察から児童相談所、家庭裁判所を経て、少年審判を受けるために身柄が鑑別所に移される可能性もある。そうなれば自分が担当技官として、その少年と接することも十分に考えられるだろう。

 そのときに他の少年と同じように接すればいいとは、今の雫には思えなかった。人を殺したかもしれない少年を目の当たりにして、自分がどう感じるか。心許ない気分にもなった。

 それからも意図せずして知ってしまった事件に、雫の気持ちはなかなか落ち着かなかった。脳を揺らすかのような衝撃に、寝ようとしてもさほど寝つけず、夜中に何度も目を覚ましてしまう。

 そうして、少し寝不足の状態で迎えた明け方。雫は宿舎から出て、最寄りのコンビニエンスストアに向かっていた。雫の部屋にはテレビがなく、詳細を正確に知りたいのなら、地元紙がうってつけだと考えたからだ。

 店内に入るとすぐ左手に新聞のコーナーはあって、陳列されている地元紙の一面の見出しには、昨日SNSで見たものと同じ、「長野市で一三歳の少年が死亡」という文字列が並んでいた。雫は少しためらいながらもそれを手に取り、購入してから宿舎に戻る。

 自分の部屋に戻って、さっそく雫が新聞を手に取ると、そこには昨日起こった事件の詳細が記されていた。

 そのなかでも「神山には首を絞められた跡が見られ、警察は他殺の可能性が高いとみて捜査を進めている」という一文に、雫の目は留まる。重要参考人として連行された少年が関与している可能性があると、すぐに思い至る。

 その少年が神山を殺害した。それはあまり考えたくはなかったが、それでも可能性としては排除できないだろうと、記事を読み終わって雫は感じる。

 そう思うと、また寝ることはできそうにないほど、雫の目は覚めた。背中に冷たい汗さえ流れてきそうだった。

 そのまま何をするでもなく雫は時間を過ごし、鑑別所に出勤する時間を迎える。制服に身を包んで職員室に入ると、そこには別所が一人で座っていた。

 湯原たちはまだ出勤してないのだろうか。そう思いながら、雫は自分の席に着く。

 パソコンを立ち上げて、まずメールの確認から仕事を始めようとしたけれど、雫の頭は未だに昨日受けた衝撃を引きずっていた。いてもたってもいられない気分になり、思わず別所に声をかけてしまう。

「別所さん、昨日起きた事件って知ってますか?」

 その雫の問いかけにも、別所は「うん、知ってるよ」と答えていた。雫が何の事件か、言っていないにも関わらず。それくらい昨日起きた事件のインパクトは大きかった。

「本当に痛ましい事件ですよね……。私、まだ完全には信じられないくらいです」

「そうだね。私もこんなことが起こってしまって本当に言葉がないよ。もちろん人が亡くなるのは、それだけで悲しいことではあるんだけど、それでもそれが少年だったらまた別のやりきれなさはあるよね」

「あの、ニュースでは同じ一三歳の少年が重要参考人として連行されたって、言ってたじゃないですか。もしかしたら、その少年が何か関係してるんでしょうか……?」

「山谷さん。確かにその可能性は否定できないけど、でもそれは山谷さんが決めつけちゃいけないことだよ。それを捜査するのは警察の役割なんだから。私たちがどうこう言う問題じゃないよ」

「そうですね。確かに気にはなりますけど、それでも私たちは引き続き、私たちの仕事をするしかないですもんね」

 雫がそう言って別所が頷くと、二人の会話は終わりを迎えた。雫もパソコンに目線を戻して、メールの確認からこの日の仕事を始める。

 それでも、その間も雫の中から事件を知ったときの衝撃は、まだ抜けきってはいなかった。ふとした瞬間に亡くなった少年のことや、重要参考人として連行された少年のことを考えてしまう。

 雫が始まったばかりの仕事に完全に集中できないでいると、職員室には湯原が出勤してきた。いつものように隣の席に座った湯原にも、この日の雫は気になる思いを抑えられない。

 ふと気づけば、仕事をする手も止めて、湯原に話しかけていた。

「湯原さん、昨日起きた事件って知ってますか?」

「龍崎中学校で一三歳の少年が亡くなった事件のことか?」

 湯原は普段と同じような、何食わぬ顔で答えていた。その表情は、この事件にも大きなショックを受けていないように、雫には見える。鑑別所に勤務するうちに、こういった悲惨な出来事にも慣れてしまったのだろうか。

「はい、そうです。本当に痛ましい事件ですよね。私まだ信じられないくらいで」

「なあ、山谷。今、その話してる場合かよ。今日だってお前には、少年相談の予定が入ってるんだろ。だったら、今はそっちの方を考えるべきだろ」

 たしなめる湯原の口調は、どこか厳とした冷たさを含んでいた。人が亡くなったのだ。やはり湯原としても感じるものがあったのだと、雫は察する。

 それに、湯原が言っていることは全面的に正しかったから、雫は「そうですね」と答えるほかない。再び自分の仕事に戻る。

 やがて平賀と那須川も職員室に戻ってきて、全体朝礼が始まったけれど、それでも事件のことを完全に気にしないことは、雫には少し難しかった。


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