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第146話

 その日、前日休んだ雫は二日ぶりに鑑別所に出勤していた。職員室に入り、座っていた湯原たちに「おはようございます」と挨拶をする。

 それでも、湯原の表情はかつてないほど強張っていて、雫はそこに少しの違和感を見る。その雰囲気は人を遠ざけるようで、雫もそれ以上は話しかけられない。

 自席について仕事に取りかかる準備をしている間も、雫は湯原から剣呑とも言っていい空気を感じ続けていた。

 全体朝礼で、湯原は「今日は守口の母親が面会に来る」と連絡事項を告げていた。その声は平常を装っていても、どこか震えていて、雫はどうしたのかと思う。入所する少年の親が面会しに来ることなんて、湯原にとってはとっくに慣れているはずなのに。

 やはり守口が起こした事案が事案だから、湯原にも緊張する部分はあるのだろうか。雫はそう解釈していた。

 職員室に来客を知らせるチャイムが鳴ったのは、午前一一時になろうかというときだった。湯原が全体朝礼で言っていた通りの時間だったから、雫にも守口の母親がやってきたことが、玄関に行かずとも察せられる。平賀は他の少年の行動観察に出ていたから、面会に立ち会うのは自ずと湯原の役目になる。

 湯原は何も言わず立ち上がっていて、雫はそこにどこか物々しい雰囲気を感じてしまう。その横顔には普段の自然さは感じられなかった。

 湯原の立ち会いのもと、守口と母親が面会をしている間も、雫は自分の仕事をしながらも、頭の片隅ではその様子が気になり続けていた。

 母親はどんな言葉をかけているのだろうか。それは考えても分かるはずはないけれど、それでも雫は面接室の様子を、簡単にだが想像していた。

 だけれど、湯原はなかなか職員室には戻ってこなかった。時刻はもう一一時半になろうとしている。面会時間は一五分と決まっているから、湯原もむやみやたらに延ばしたりはしていないはずだ。

 いったいどうしたのだろうと、雫は気になってしまう。湯原の表情が朝から固かったことも、そのことに拍車をかけていた。

 湯原が職員室に戻ってきたのは、一一時も四〇分を過ぎた頃だった。ようやく戻ってきた湯原に、雫は気になっていた分、「どうしたんですか?」という声をかけたくなる。

 だけれど、その言葉は湯原の顔を見た瞬間に、ぐっと抑え込まれる。湯原はかつてないほど、暗く沈んだ表情をしていた。発せられる雰囲気もどんよりと曇っていて、それは雫でなくても声をかけられるような雰囲気ではなかった。

 雫は余計、今しがたの面会で何があったのかを訊きたくなる。もしかしたら、人が亡くなっていることを湯原は改めて認識しているのかもしれない。

 その姿からは今回の事案の重大性がより露わになっていて、雫もどこか部外者的に気になっていた自分を恥じるようだった。

 自席に着いてからも湯原の重苦しい雰囲気は一向に解消されていなくて、それは隣の席の雫でさえも声をかけようか、難儀してしまうほどだった。

 それでも、時間は着実に経過し正午を迎える。雫たちの昼食休憩の時間だ。雫は仕事に一段落をつけてから、コンビニエンスストアで買った昼食を取り出して、口をつけようとする。

 でも、その間も湯原は机の表面に目を落としたまま、動いていなかった。石膏で塗り固められたかのような姿は、雫にとっては心配するなという方が難しい。

 自分がこんな言葉をかけていいのだろうか。雫は少し迷ったけれど、沈んだ表情をしている湯原を心配する気持ちは、抑えられなかった。

「あの、湯原さん。大丈夫ですか?」

 声をかけられて、湯原の顔がわずかに雫に向く。その目に、雫は一瞬胸が詰まる。

 湯原の瞳からは生気が抜け落ちていて、幽霊みたいだという思いさえ雫は抱いてしまっていた。

「……ああ、大丈夫だよ。何がそんなに心配なんだ?」

「いえ、今日の湯原さんには、どこか元気がないように見えたので。どうかされたんですか?」

「……いや、なんでもないよ。本当になんでもない。そんなに俺、元気がないように見えたか?」

 それを認めるのは湯原に対して申し訳ない気もしたけれど、それでも雫はわずかに首を縦に振っていた。「大丈夫だよ」も「なんでもないよ」も言葉通りの意味に受け取るのは、今の湯原の様子からして難しかったからだ。それが反対の意味であることが分からないほど、雫も人の感情に対して疎くはない。

 湯原は一つ小さく息を吐いてみせる。その表情には無理してはにかもうとしている様子が見えたけれど、雫の目にはそれがうまくいっているようには見えなかった。

「そっか。まあ、本当のことを言うとさ、俺昨日あまり眠れなかったんだ。俺ももういい年だから、一晩寝ないだけで大分辛くてさ。悪いな。心配かけちまって」

 湯原の言葉に、たとえそれが本当だったとしても、雫にはどうして眠れなかったのかの理由が気になってしまう。やはり今回の事案の重大性を身に染みて感じているのだろうか。

 それでも、「それって本当ですか?」や「どうして眠れなかったんですか?」といった疑問は、雫には訊けるはずもない。湯原の表情は沈痛なと言ってよくて、そこにさらに負荷をかけるような真似は、雫にはどうしてもためらわれた。

「そうですか。それは大変ですね」と、ひとまず形だけでも理解を示す。「ああ、帰ったらすぐに寝ることにするよ」とだけ湯原は答えると、雫から顔を背けて自分の昼食を取り出していた。

 昼食を食べている間でさえも、湯原の横顔は澱んでいる。雫も自らの昼食を食べ進める。

 それから、昼食休憩の間二人が言葉を交わすことはなかった。



「お先に失礼します」

 そう言って職員室を後にしていった山谷を、湯原は帰りの支度をしながら見送っていた。時刻はもう午後の六時を回り、湯原も一日の仕事を終えて退勤する時間だ。

 だけれど、湯原はすぐに席を立てなかった。本当は今すぐにでも鑑別所を後にしたいのだが、身体がなかなか言うことを聞いてくれない。

 それは紛れもなく、今日の午前中に守口の母親が面会に来たことが大きかった。

 調書に目を通した瞬間から、もしかしたらと湯原は思っていた。でも、決して珍しい名前ではないし、きっと別人だろうと。

 だけれど、鑑別所にやってきたのは、まさしく湯原が想像していた通りの人だった。もちろん、二〇年以上の時を経ているから、大人になってはいたものの、でも姿はそのときの面影をはっきりと残していた。

 相手も息子を担当している法務技官が湯原であることにはすぐに気づいたようで、二人の間には名状しがたい空気が漂う。

 面会が行われる第一面接室に案内したときも、守口とその相手の面会に立ち会っているときも、湯原はいくつもの感情に押しつぶされそうになっていた。その全てが良いものではなく、早く面会時間が終わってほしいと思わずにはいられなかったほどだ。

 相手も湯原が同じ場所にいるからか、話しづらそうにしていた。その姿を見ると、湯原には申し訳ないという思いが募っていく。そんな言葉では、決して言い表せないことも分かっていた。

 そして守口の面会が終わって、その相手が帰っていってから、湯原はその後の時間をどう過ごしたか、あまり記憶にない。

 もちろん、仕事はしていたはずなのだが、頭はその相手のことで占められていた。心がズキズキと痛む。

 だけれど、自分よりもずっとその相手の方が心を痛めているはずで、そう思うと湯原はさらに苦しい思いに駆られた。

 自分はこのまま守口の担当技官を務めていていいのだろうか。いや、そもそも法務技官という職に就いていていいのだろうかと、何度も考えた。今まで「いいはずだ」と自分に言い聞かせていたその思いが、揺らいでしまっていた。

 そして、それはこの日の退勤時間を迎えてもなお続いていた。逡巡の中で、湯原の身体は固められたように動かない。

 それでも、数分ほどそうしているうちに湯原はある結論に至っていた。立ち上がって那須川のもとへと向かう。湯原は内心思い詰めていたが、それでも那須川は穏やかな表情で、「湯原さん。今日もお疲れ様でした」と声をかけてくれる。

 それを言うことは、湯原には小さくない踏ん切りが必要だったが、それでも自分はどうすべきなのかを考え、口を動かす。

「あの、那須川さん。少しいいですか」



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