翌日。雫は定刻通りに鑑別所に出勤していた。しかし、職員室に入るとそこに湯原の姿はなかった。
普段だったら自分よりも早く来ていることが多いのに、どうしたのだろうか。雫は自席に着いて思う。昨日の暗く沈んだ表情が思い返される。
でも、今はまだ出勤時間の二〇分ほど前だ。きっと湯原も全体朝礼までにはやってくるだろう。そう思いながら雫はパソコンを立ち上げた。この後のことなんて、まったく思いもよらなかった。
雫が普段通りメールの確認から仕事を始めていると、別所や平賀も全体朝礼のために職員室に戻ってくる。
だけれど、その間も湯原は鑑別所に出勤してこなかった。もうすぐ全体朝礼が始まる時間ともあって、雫は気を揉んでしまう。雫の知る限りでは、湯原が出勤時間に遅刻したことはない。
それでも、湯原は全体朝礼に間に合うようにやってきていた。
でも、雫は安堵できない。湯原の表情にはまだ思い詰めているような色が見られて、何事もなかったかのように振る舞おうとしている姿は不完全だった。何があったかは知らないが、昨日のことを引きずっている様子は、まだ感じ取れる。
雫は「大丈夫ですか?」と声をかけようかとも思ったが、それも昨日の繰り返しにしかならないような気がしてやめていた。湯原はまた、「寝不足で」くらいしか言ってくれないだろう。
雫は「おはようございます」と挨拶をするだけに留める。「ああ、おはよう」と返す湯原の口調は、やはりまだ完全に晴れてはいなかった。
湯原が出勤してから数分して、全体朝礼は始まった。この日は取手もいて、鑑別所の職員は全員揃っている。「おはようございます」と朝礼を始めた那須川に、雫たちも続く。
いつもだったら各人が今日の予定等を話して、最後に那須川が全体の連絡事項を述べるのだが、この日は少し様相が違った。那須川が「今日はまず皆さんに一つお知らせがあります」と言っていたのだ。
今までにもあまりなかった展開に、雫たちの視線は一気に那須川に集中する。そして、那須川は普段と変わらないような落ち着いた口調で告げた。
「湯原さんですが、明日から一身上の都合により、休職することになりました」
その言葉に、雫は耳を疑いそうになってしまう。いくら何でも急すぎではないかと。少なくとも雫にはそんな前兆は、一昨日までには少しも見られていなかったから、その分驚きも大きい。
別所たちも今初めて知ったようで、目を瞬かせている。それくらい湯原の休職は、誰にとってもインパクトがあることとして受け止められていた。
那須川の目が湯原に向く。湯原は一呼吸置いてから口を開いていた。
「ただ今那須川さんが言ったように、僕は明日からしばらくお休みを取らせていただきます。急なことで申し訳ありませんが、何卒よろしくお願いします」
湯原の挨拶は、ひどく簡潔だった。その理由を言っていないところに、雫は不安を覚える。良い事態はあまり想像できなかった。
「今、湯原さんが受け持っている少年への鑑別や、少年相談は山谷さんに引き続き担当していただきたいと思っているのですが、山谷さん、大丈夫ですか?」
那須川にそう訊かれて、雫は息が詰まるような心地がした。ここで首を横に振ることは、自分には許されていないように思えた。
「は、はい。大丈夫です」
「ありがとうございます。では、この後湯原さんから引き継ぎを受けてください。では、ひとまず私からの連絡事項は以上となります。では、続いては今日の業務予定について。今まで通り湯原さんから、お願いできますか?」
「はい」と返事をした湯原は顔を上げて、今日の予定を口にしていた。でもその内容は、雫にはほとんど入ってこなかった。それは湯原の口調が歯切れが悪く、顔を上げているのがやっとという様子もそうだったが、それ以上に湯原が明日から休職することに理解が追いついていなかったからだった。
どうして、こんなに急に湯原は休職してしまうのだろう。頭はそのことばかりを考えて、湯原の次に自分が発表する番になったことも、那須川に言われないと気づかなかったくらいだ。
「山谷さん?」と声をかけられ、雫は慌てて今日の予定を発表する。でも、その間も脳内に生まれた混乱は収まってはいなかった。
全体朝礼が終わってすぐに、雫は湯原に声をかけられていた。業務の引き継ぎを行いたいらしい。
雫も湯原が明日から休職することをまだ完全には受け入れられてはいなかったものの、それでもまだしばらくはデスクワークをする予定だったので、「今、大丈夫か?」という呼びかけに「はい、大丈夫です」と答えていた。
すると、湯原はいつの間に用意したのか、数枚のプリントをクリアファイルに入れて、雫に渡してきた。そこには守口をはじめとした、今湯原が担当している少年や少年相談の概要がまとめられていた。それらのプリントを参照しながら、補足説明も含めた引き継ぎを雫は受ける。
それでも、湯原の口調はどこか澱んでいて、それは守口の件について話しているときにより顕著だった。やはり守口の件に関連して湯原に何かあったのではないかと、雫は思わずにはいられない。「大丈夫ですか?」と、改めて訊きたくもなる。
それでも湯原から引き継ぎを受けている間は、雫は話の腰を折るわけにはいかなかった。メモも取りながら、雫は湯原の話をどうにか頭に入れようとする。
でも、それは湯原のことを心配するあまり、あまりうまくはいかなかった。
「以上で、今俺が受け持ってる仕事についての説明は終わりなんだけど、どうだ? 山谷の方からここは何か訊いておきたいというようなことはあるか?」
プリントも参照しながら、一通り話し終えた湯原が訊いてくる。それでも、雫はすぐには訊きたいことを挙げられなかった。それは湯原の説明に不足がなかったこともあったが、それ以上に雫の中でまだ混乱が収まっていないことも大きかった。
「いえ、今のところは特には」
「そうか。まあ分からないことがあったら、また俺に聞いてきてくれよ。俺も今日いっぱいはいるから」
そう言った湯原に「はい」と返事をしながら、雫は不安を色濃く感じてしまう。今日はよくても明日以降のことを考えると、途端に心細く感じられてしまう。
自分一人で、湯原が担当していた分の業務まで担えるのか。雫には正直、自信がなかった。
「それと、山谷。改めて悪いな。こんな急に休むことになっちまって」
重ねて謝ってきた湯原に、雫は「いえいえ、そんなことないですよ」と首を横に振っていた。理由は分からないが、こんなに急に休職するからには、それ相応の事情があるのだろう。
だから、雫には湯原を悪く言うなんてあり得なかった。
「いや、俺だってこんないきなり休職するなんて、社会人としてどうかと思うよ。だって、その分の皺寄せは全てお前に行っちゃうわけだし。もし俺がお前の立場だったら、大変だなって思うから」
「いやいや、それを言ったら湯原さんの方が大変じゃないんですか? 何か差し迫った事情があるんでしょう?」
そう言った雫に、湯原は目に見えた反応を返さなかった。「まあな」と頷くことすらしていないことに、雫は事態の重大性を察する。
良い想像は少しも浮かばず、例えば湯原の親ないし大切な人が危篤なのかもしれない、あるいはもう亡くなっているのかもしれないといった、悪い想像ばかりが頭をよぎってしまう。
口に出して確かめることはしなかったが、それでも雫は心の中で湯原のことを最大限慮った。
「まあ、一人で大変だとは思うけど、それも少しの間の辛抱だから。那須川さんには他の鑑別所から代わりの人員を送ってもらえないか、ちゃんと頼んでるから。たぶん、そう遠くないうちに人員補充があるはずだ。だから、本当に申し訳ないけど、それまでは一人で頑張ってくれ」
その言葉に、雫はすぐに「はい」と返事をすることはできなかった。
新たに人員の補充が必要だということは、おそらく湯原が休職するのは、一週間や二週間ではないのだろう。それだけの事情が湯原にはあるということで、雫が抱く不安もより増してくるようだ。
「あの、湯原さん。ちゃんと復職してくれますよね……?」
このままでは湯原が遠くに行ってしまうかもしれない。いや、もしかしたら今日を最後に二度と会えなくなってしまうかもしれない。そういった不安が、雫の口を動かした。
それでも、湯原はすぐに答えなかった。視線もわずかに下がって、言い淀んでいるような様子は、雫に昨日の暗く沈んだ雰囲気を思い起こさせる。
「すまん。それはまだ何とも言えねぇよ。どれくらいの期間休職するのかも、また仕事に戻って来られるのかも、全部まだ何も決まってない状態だから」
「そんな……」
小さくない間を置いてからそう答えた湯原に、雫は絶句しそうになってしまう。不安はますます増大して、気を張っていないと少しおかしくさえなってしまいそうだった。
「まあさ、いきなり休んで迷惑をかける俺が言えた義理じゃねぇけど、でも俺はお前なら大丈夫だって思ってるから。お前も配属されてから結構経って、それなりに経験は積んできてるからな。まあ、困ったことがあったら別所さんや平賀にも相談してさ、どうにかやっていってくれよ」
「って、どの口が言ってんだって感じだけどな」最後にそう付け加えていた湯原にも、雫は目に見えてかぶりを振りたくなる。
自分はまだ鑑別所に配属されて一年も経っておらず、経験もまだまだ足りていない。「大丈夫」だなんて確証はどこにもないと、湯原に泣きつきたい気分にすらなる。
それでも、ここで自分が何を言ったところで、湯原が休職するという現実は変わらないだろう。決まってしまった以上、たとえ一人でも自分は法務技官の仕事を、湯原の分まで全うするしかないのだ。
それに大変な状況にも関わらず、自分を励ましてくれた湯原に応えたいという思いは、雫にもある。だから、努めて「はい」と平気な声を出す。湯原も一つ頷く。
だけれど、その目は安堵とは程遠く、湯原が何かしらの事情に強く囚われていることは、雫にもひしひしと伝わってきていた。