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第148話


 その夜、雫は不安でなかなか寝付けなかった。自分一人で湯原も含めた二人分の仕事を担えるのだろうか、と。

 それでも、雫に選択肢は一つしかない。朝になって起き上がると寝不足の頭を覚ますためにも、雫は何度も顔を洗った。

 たとえ一人でもやるしかない。雫はそう心に決めて、鑑別所に出勤した。それでも職員室に入った瞬間、その決心は容易く揺らいでしまう。

 湯原の机の上には、昨日整理がなされたからか、ほとんど物がなく、それが湯原の不在を雫により印象づけた。湯原がいた痕跡が跡形もなく消されてしまったかのようでもあって、自席についても雫は寄る辺ない思いを抱かずにはいられなかった。

 そして、その思いは始業時間が近づくにつれて膨らんでいき、全体朝礼の時間を迎えた瞬間に決定的なものになってしまう。しばらくは湯原は鑑別所には来ないことを改めて突きつけられて、雫は胸が痛むようだ。

 全体朝礼も湯原一人がいないだけで、漂う雰囲気は寂しいなんて言葉では言い表せない。那須川の口調もどこか歯切れが悪くて、別所たちの表情もイマイチ冴えておらず、湯原が休職した影響は自分が想像していたよりも大きいと、雫には感じられた。

 全体朝礼を終えると、雫は自分の業務に入る。デスクワークの一部分は那須川が担ってくれていたから、雫の業務量は単純に二倍にはなったわけではなかったけれど、それでもやらなければいけない仕事は確実に増えていた。一日のうちに少年相談も二件あって、業務量もそれに付随する。

 その忙しさは目が回りそうで、湯原が休職して寂しいという思いを、雫に簡単には抱かせなかった。

「山谷さん、今日も一日お疲れ様でした」

 雫がそう那須川に声をかけられたのは、この日の仕事もようやく終わった頃だった。一時間ほど残業をしたこともあって、頭は少し疲れてきている。

 それでも、雫はせっかく声をかけてくれた那須川を無視したり、冷たくあしらうわけにはいかなかった。

「はい、お疲れ様です」

「どうでしたか? 今日の仕事の方は。湯原さんが休み始めて、大変ではなかったですか?」

「それは正直否めないですけど、でもこうなってしまった以上、私がやるしかないですから。大変だなんて言っていられないですよ」

「そうですか。でも、本当に大変だったら、いつでも僕たちを頼ってくださいね。僕たちもできる限り山谷さんに力を貸しますから」

「はい。実際に私の仕事を手伝ってくださって、ありがとうございます。那須川さんもお忙しいのに」

「いえ、大したことではないですよ。今の状況では協力するのは当たり前のことですから。それで、山谷さん。明日からもこのペースで仕事をお願いできますか?」

「はい、もちろんです」

「そうですか。明日には守口さんへの鑑別面接も控えていますからね。引き続きよろしくお願いします」

「はい」と返事をしながら、雫は少し身構えてしまっていた。湯原から引き継ぎを受けたことで、初回の面接の内容や心理検査の結果は雫も正確に把握している。

 だけれど、守口が起こした事案が事案だから、雫はたとえ少しでも警戒してしまう。それは本来不適切なことで、他の少年と同じように接すればいいとは雫も分かっていたけれど、それが簡単にできたら苦労はしなかった。

「では、私は仕事に戻りますから。山谷さん、改めてですけど帰ったら今日はゆっくり休んで、また明日からよろしくお願いします」

 自席に戻ろうとする那須川を、雫は思わず呼び止めていた。「何でしょう?」という目が向けられる。

 自分から呼び止めた手前、雫は続ける。昨日から気になっていた疑問は、まだ解消されていなかった。

「湯原さんがいつ頃戻ってくるのかって、那須川さんには分かりますか?」

 そう訊いた雫に、那須川は一瞬表情を曇らせていた。それだけで、那須川の答えが雫には手に取るように分かった。

「山谷さんは、湯原さんに戻ってきてほしいですか?」

「はい。正直なところを言えば、一日でも早く戻ってきてほしいです。やっぱり那須川さんも協力してくれるとはいえ、一人で二人分の業務をこなすのは大変ですから。それは那須川さんだってそうですよね?」

 那須川が少し、答えを言い淀む。内心で抱いている葛藤を表に出さないようにするかのように。

「それは私もそうです。私だって、湯原さんにはまた戻ってきてほしいです。ですが、それがいつになるのか、そもそも戻ってこられるのかは、私にも分からないんですよ」

 那須川の答えは、雫が湯原から聞いたことと同じだった。やはり那須川もこれから湯原がどうなるのかは分かっていないのかと、雫は軽く絶望的な気分にもなる。

「そうですか……。でも、そもそもどうして湯原さんは休職したんですか? それだけ時間がかかるということは、ご両親の介護とかですか? あるいはこんなこと言いたくないんですけど、こんなに急にってことは、もしかしたらそれだけ急を要する事態なんじゃ……」

「山谷さん、それは違いますよ。今回の件はそういうことではないですから、安心してください」

「じゃあ、なおさらどうして湯原さんは休職したんですか……? こんな急に休まれて、私は安心できないんですけど……」

「山谷さん。山谷さんの気持ちも分かりますが、それでも私からは、湯原さんが休職した理由を言う訳にはいかないんです。これは湯原さんのプライバシーにも関わってくる問題ですから。どうかご理解いただけないでしょうか」

 丁寧に伝えられた那須川の言葉は、雫にも適当だと感じられるものだった。「プライバシー」という言葉を出されたら、雫も「分かりました」と頷くほかない。

 湯原が休職した理由は分からないままで、まだ不安は解消されてはいなかったが、それでもこれ以上詮索をしてはならないと、那須川の目が静かに訴えていた。

「ありがとうございます。もちろんまだ不安に感じていることと思いますが、それでも明日からも頑張っていってください。僕たちもできる限り協力しますから」

「はい、こちらこそありがとうございます」そう答えながら雫は、那須川の表情がまだ冴えていないことを感じてしまう。この状況では当然だが、それでも雫はもっと別の要因も感じてしまう。

 でも、果たしてこれは自分が訊いてもいいことなのだろうか。雫は束の間迷ったのちに、それでも口を開いていた。これは余計な詮索には当たらないと、自分に言い聞かせながら。

「あの、那須川さん。どうかされたんですか?」

「どうかしたとは、どういうことですか?」

「いえ、何か表情が優れないように見えましたから。何か気に病むようなことでもあったんですか?」

 そう訊きつつ、それは湯原のことが原因だろうと、雫は半ば確信していた。もとより今の状況では、それ以外の要因は考えづらい。

 那須川の表情に見える迷いが、より深くなる。

 そして、少しすると那須川は再び口を開いていた。

「いえ、もしかしたら僕は判断を間違ったのかもしれないと思いまして」

「……どういうことですか?」

「今回の守口さんに、湯原さんを法務技官としてつけたことです。もしかしたら、それで湯原さんは気を病んでしまったのかもしれません。初めから山谷さんに法務技官を頼んでいたら、こんな事態にはなっていなかったかもしれないのに……」

 懺悔するかのように言う那須川の言葉が、雫にはすぐには把握できなかった。思わず訊き返してしまう。

「えっ、どういうことですか? 湯原さんが気を病んだって? 湯原さんには、気を病むだけの理由や事情があったんですか?」

 そう訊かれて、那須川はあからさまに困ったような表情をする。それは言葉にせずとも、何よりの返事になっていた。

「……すいません。山谷さん、今僕が言ったことは聞かなかったことにしてください。そんなことを言ったところで、湯原さんが休職した現実は変わらないというのに。少しどうかしていました。所長ともあろう人間が。申し訳ありません」

 短い言葉の中で重ねて謝ってくる那須川に、雫は「分かりました」としか言えなかった。那須川の少し動転したような瞳に、理解を示すほかないと思われた。

 でも、その言葉や表情が詳細は不明でも、雫にそれとなく真実を伝える。

 湯原に何かあったことは確実だ。それがいつのことまでかは雫には分からなかったけれど、それでも雫は湯原に何があったのかを知りたいと明確に思う。

 だけれど、今ここでそれを訊いたところで、那須川は答えてはくれないだろう。

 どうすれば自分は、湯原のことを知られるだろうか。那須川と別れて宿舎に戻った後も、雫の頭はそればかりを考えていた。


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