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第152話


 雫がそう切り出した瞬間に、別所の表情はほんのわずかでも曇った。それは微々たるものでも、那須川や本人からは教えてもらえなかった湯原の事情を、別所が知っていると思わせるには十分なほどだった。

「湯原君がどうかしたの?」

「はい。湯原さんがどうしてこのタイミングで急に休職したのか、別所さんは何かご存知ですか……?」

 回りくどい訊き方をしても意味がないと感じ、雫は単刀直入に尋ねた。

 別所は何ともないように振る舞っていたけれど、それでも瞳の奥がかすかに揺れているのを、雫ははっきりと目にする。

「うーん、私も詳しくは知らないかな。いきなりのことで、私だって驚いたくらいだから」

「あの、『詳しくは』ってことは、大まかには知ってるってことですよね? それでもいいので、少しその理由について教えてもらえませんか?」

「いやいや、山谷さんが心配するようなことじゃないよ。心配しなくても、湯原君はいずれ復職すると思うし」

「それはいつのことですか?」

「そこまでは私は知らないけど……」

「別所さん。那須川さんや湯原さん本人も、いつ復職できるかは分からないと言っていました。急に休職して戻ってくる日が決まっていないということは、それだけの事情があるんですよね……?」

「だから、山谷さんが心配するようなことは何も起こってないよ。湯原君は大丈夫だから」

 別所は雫の目を見て言っていたけれど、その目はどこか後ろめたく思っているようだった。やはり湯原には相応の事情があるのだ。

 何としてもそれを訊き出したくて、雫も別所の目を見つめ続けた。

「別所さん、私は何回だって同じ質問をしますよ。もしそうなったらキリがないじゃないですか」

 雫は、別所から目を逸らさない。そのまま何秒間見つめ合っただろうか。

 別所が小さく息を吐いた。その反応は「仕方がないな」と感じているようにも、雫には見える。

「……山谷さんは湯原君のことはどこまで知ってるの?」

「そうですね……。少なくとも今回の休職が家族の介護をしたりだとか、親しい人が危険な状態に陥っているという理由ではないことは知っています」

「なるほどね。じゃあ、その先は?」

 雫は首を横に振った。湯原の今回の休職について、自分が知っていることはほとんどないと改めて思い至る。

 別所は自分たち以外は誰もいないのに、軽く身を乗り出す。少し声を潜めてさえいて、それだけ重要なことを言おうとしているようだ。

「あのね、これは山谷さんを信じて言うんだけど……」

「は、はい」

「湯原君ね、実は昔、警察のお世話になったことがあるんだ」

 別所が口にした事実は、少しも予想できなかった分、雫の脳を強くぶった。突拍子もないことのようにさえ思われて、「どういうことですか?」と訊き返してしまう。

 別所の顔には、いつの間にか緊張感が滲んでいた。

「ごめん。私からはそれ以上は言えないよ。だってここで私が言ったら、山谷さん『本当ですか?』って湯原君に電話するでしょ?」

「そ、それは……」

「別にそれが悪いことだとは言わないけど、でも私は、今は湯原君はそっとしておいた方がいいと思う。きっと今の湯原君に必要なのは、一人で心を落ち着ける時間なんだよ」

 そう言う別所に、雫は一理あると思う。確かに休職する前の湯原は、沈んだ表情をしていた。それを思うと、自分がどうこう言える問題ではないのではないかという気がしてくる。

 それでも、雫には湯原を放っておくことは難しかった。きっと今も、湯原は浮かない顔をしているのだろう。本当は今すぐにだって、ラインで「大丈夫ですか?」と尋ねたい思いだ。それは別所の話を聞いても変わらないどころか、余計に深まっている。

 どうすればいいのか。雫は短い間に頭を回す。「そうですね……」と相槌を打ってから、別所と乾杯し、ビールを口に運んだ後も、雫は別所と話をしながら考え続けた。

 湯原のために自分には何ができるだろうか。ひとまずは湯原のことをもっと知ることだろう。そう雫は感じていた。



「万里さん、ちょっといいですか?」

 上辻は正午を過ぎて、万里が昼休みに入ったタイミングで声をかけていた。万里は弁当を広げて食べようとしていたところだったけれど、気兼ねなく「ああ、どうした?」と応えている。

 その様子に、あまり時間は取れそうにないなと上辻は感じた。

「あの、一つお訊きしたいことがあるんですけど、いいですか?」

「ああ、いいぞ。どうしたんだよ」

 万里は快く応じていたけれど、そのことを訊くのは、上辻には少し思い切りが必要だった。

 生活安全第二課には他にも何人かの署員が勤務している。他の署員にあまり聞かれないためにも、上辻は気持ち声を潜めた。

「万里さんは、湯原賢哉という元少年について、何かご存知ですか?」

 そう訊いた瞬間、万里の表情がほんの一瞬だけ強張ったことを、上辻は確かに見る。万里はすぐになんてことのないような表情に戻っていたけれど、それは心当たりがあると言っているに等しかった。

「お前、どうしてそれを俺に訊くんだよ。そんなのデータベースを調べれば一発じゃねぇか」

「確かにそれはそうなんですけど、でもそう言うってことは万里さん、やはり何かご存知なんですね……?」

 そう重ねて問う上辻に、万里は軽くため息さえついていた。その反応が、やはり何か心当たりがあることを上辻に察させる。

「なあ、上辻。お前、どうして急にそんなことを気にするようになったんだよ。誰かに何か言われたのか?」

「それは……」

「その通りです」とは、上辻には言えなかった。

 実際、上辻が湯原のことを訊いたのは、何回か一緒にカラオケをしたことがある鑑別所職員の山谷から、「何か知りませんか?」とラインを受けたことがきっかけだ。何でもその湯原は、数日前から休職しているらしい。

 同僚である山谷が心配に思うことも頷けるし、「湯原が警察の世話になったことがある」と知らされたときには、上辻も驚いた。

 ラインの文面からでも山谷が気を揉んでいるのは分かったし、だからこそ上辻はこうして訊いているのだが、それでも万里の反応は芳しくない。万里は山谷のことは知らないはずだが、それでも上辻の後ろに誰かがいることは感づいているのだろう。

 ため息さえついている様子に、上辻はやはりそんな簡単にはいかないかと、思わざるを得ない。

「まあ、いいか。どうせある程度の捜査情報は、公になってることだしな」

 万里のその返事は上辻が思いもしなかったものだったから、思わず「えっ、いいんですか?」といった声が漏れてしまう。間の抜けたような声を出した上辻にも、万里は表情一つ変えない。

「ああ。でも、分かってると思うけど、捜査資料はたとえ公になってるものでも、外部に持ち出すのは禁止だからな。それが未公開の情報だったらなおさらだ。違反したら懲戒免職を喰らう可能性だってあるんだから、そこは重々心得とけよ」

「はい。分かってます。絶対に外部には持ち出しません。そんなことをしたら、警察の信用に関わりますから」

「ああ、絶対だぞ」

 万里にそう今一度念を押されてから、上辻は自分の席に戻った。さっそく昼食休憩を取る前に、データベースを開く。「湯原賢哉」と打ち込むと、いくつもの捜査情報がヒットした。

 上辻は一番上に表示された項目をクリックする。すると、そこには湯原のかつての事案の概要が記載されていた。

「これは……」

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