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第153話


 別所と一緒に食事をした翌日。上辻が万里に湯原のことについて尋ねていたのと同じ頃、雫は公用車で長野市内を走らせていた。一人でその場所に赴くとなると、もう何回も同じことをしているのに、雫は未だに緊張を感じずにはいられない。

 鑑別所から公用車を運転すること二〇分。雫は龍崎中学校に到着した。守口と神山が通っていた、事案が起きたまさにその学校だ。

 本当はもっと早い段階で湯原が尋ねる予定だったのだが、それでも学校側は事案の対応等で忙しかったようで、守口が鑑別所に送致されてから一週間が経った、このタイミングとなったのだ。

 学校側が未曾有の事態に混乱していたことは、雫にも想像できる。実際、職員用の駐車場に車を停めて見た龍崎中学校の校舎は、今まで訪れた学校と比べても、どこか物々しい空気を帯びてしまっていた。

 龍崎中学校の応接室は、一階にあった。事務員に案内されて中に入ると、開放感をイメージしたのか室内は明るい茶色でまとめられていたけれど、それでも今の状況では、かえって気まずくも雫には感じられてしまう。

 今は春休みの最中なのだろう。静かな校内が、雫の緊張感を膨らませる。喉も渇いて、出されたお茶もすぐに飲み干してしまいそうなほどだ。

 雫がそのままソファに座って待っていると、少ししてから、二人の男性が応接室に入ってきた。その風貌から一人は五〇代から六〇代で、もう一人は二〇代から三〇代くらいに雫には見える。

 雫もソファから立ち上がって、三人は軽く挨拶をして、まずは名刺交換から面談を始めた。年配の方の男性は一年生の学年主任で、名前を勅使河原てしがわらと言い、若い方の男性は守口と神山が所属していた一年二組の副担任で、綿貫わたぬきと名乗っていた。

 雫も名刺を差し出してから、三人はソファに腰を下ろす。緊張感が漂う中で、口火を切ったのは勅使河原だった。

「すいません、山谷さん。本当はこの場には、二人の担任である新城が出席するのがふさわしいんでしょうが、あいにく今は休職していまして。ご要望に添えず申し訳ありません」

「いえいえ、勅使河原先生、謝らないでください。状況が状況ですし、新城先生が休職する気持ちも、私には理解できます。悪く思う必要なんてないですよ」

 口を開くやいなや謝罪してきた勅使河原にも、雫はすぐにフォローを入れて、気にしている素振りを前面には出すことは控えた。

 雫だって担任である新城から話を聞きたかったし、新城が今どうしているのか心配に思う部分はある。でも、今回のことが起こったからには新城が自らを責めたり、気に病んでしまうのも当然だろう。

 だから、雫は新城が休職していることを受け入れる。もとよりそこまで深く、自分が踏みこんでいいとも思えなかった。

「それでは、ここからは守口さんのことについていくつか質問をさせていただきますが、よろしいですか?」

 応接室に未だに張り詰めたような空気が流れるなかで、雫は本題に入ろうとする。二人が返事をしたのを確認してから、雫は思いきって切り出した。

「では、まずは守口さんの学業面について訊かせていただきます。守口さんは、勉強の方はどうだったのでしょうか? 成績や、何か得意科目や苦手科目はありましたか?」

「そうですね……。本当に正直に言ってしまうと、成績はあまり良いとは言えませんでした。どの科目も平均点を下回っていて、こんなことは言いたくないんですが、勉強の方は苦手にしていたと思います」

「そうですか。綿貫先生はいかがですか?」

「はい。僕は現代文を受け持っていて、守口さんは授業は真面目に聞いてくれるのですが、それでもテストの点数は芳しくはなかったですね。頭が悪いわけではないんでしょうが、おそらく要領があまり良くないんだと思います。もちろん僕も副担任として何度か声をかけたり、アドバイスをしたのですが、それでも成績は目に見えては良くなっていませんでした」

「なるほど、そうですか。ですが、その中でも守口さんに何か得意科目はなかったのでしょうか? 五教科以外の科目でも、何でも」

「そうですね……。家庭科が他の科目に比べれば、少し成績が良いくらいでしたでしょうか。体育も音楽も美術も、各担当の先生から聞くところでは、守口さんはあまり得意にしている様子はなかったようですし」

「そうですか……。となると、守口さんが思うように勉強ができない自分に、負い目や劣等感を抱いていた可能性はあるかもしれないですね」

「はい。そう決めつけるのは少し早計ですが、僕もその可能性は否定できないと思います。実際、テストの点数を目にしたときの守口さんは悲しそうな顔をしていましたし、現実に引け目を感じていたとしても不思議ではないと思います」

 勅使河原や綿貫が口にした話に、雫も守口のことを慮らずにはいられない。

 もちろん学校は勉強だけが全てではないが、それでも授業や勉強が占めるウェイトは決して低くはない。そこがうまくいかなければ、負い目や劣等感を抱くことは想像に難くない。

 だけれど、いくら学校は勉強をする場所だといっても、それが全てではないはずだ。他の面でカバーが利くこともある。

 だから雫は、次はそのことについて訊くことにした。

「そうですか。学業面については分かりました。では、次に守口さんが学校や教室で、どんな生徒だったのかをお訊きしたいのですが、まず守口さんは何か部活には入られていましたか?」

「はい。入学当初はサッカー部に入っていました。でも、それも一学期のうちに辞めてしまって、それからはずっと帰宅部でした」

「なるほど。あの差し支えなければ、どうして守口さんがサッカー部を辞めたのか、お二人は何かご存知ですか?」

「そうですね。僕が顧問の先生から聞いた限りでは、練習についていけなかったと。守口さんは本校に入学するまでは、特にスポーツの経験などはなかったようですし、実際持久走ではいつも最後で、基礎練習もなかなか身につかなかったそうです。本人も自主練習をするなど、どうにか頑張っていた様子でしたが、それでも最後には辛くなって辞めてしまったそうです」

「そうですか……。だとすると、その挫折経験が守口さんに与えた影響は、少なからずありそうですね」

「はい。実際、サッカー部を辞めてからの守口さんは塞ぎこんでしまっていて、誰かと喋っている様子も、僕からはあまり見受けられませんでした」

「それは、やはりサッカー部を辞めたからなのでしょうか?」

「いえ、確かにその影響はあったとは思いますが、それでも入学してきたころから、他の生徒とはそこまで喋ってはいませんでした。クラスで浮いた存在とまではいかなかったんですが、それでも休み時間は誰とも話さず、本を読んだり机に突っ伏して過ごしていて。もしかしたらクラスに話せる相手がいないのではないかと、新城先生も心配していました」

 綿貫の返事が、雫には少し意外に感じられた。先の鑑別面接で守口本人が言っていたこととは、やや食い違っていたからだ。

「そうなんですか。守口さんは私との面接で、何人か友達はいると話していましたが」

「それは誰なのか、守口さんは言っていましたか?」

「そうですね……。久保田くぼたさんやいぬいさんといった名前を挙げてました」

「そうですか。でも、僕が見た限りでは、その二人とも守口さんが話している様子はなかったように思います。もちろん僕は副担任という立場上、クラスのことを見られる機会は限られていて、僕の見ていないところでは仲良く話していたのかもしれませんが」

 たとえ留保がついていても、守口と綿貫の言うことは、またしても食い違ってしまっていた。そのことが雫にどちらの言うことを信じればいいのかを、束の間迷わせる。

「綿貫先生、確認ですが、本当に守口さんは一人で過ごしていることが多かったんですね?」

「はい。あくまで僕の見る限りでは、ですけれど。それでも、守口さんが元々コミュニケーションがあまり得意なタイプではないことは、僕にだって分かります。他の生徒に声をかけるような積極性もそれほど持っているとは、僕には言えませんでした」

 綿貫の態度は嘘を言っているとは、雫には見えなかった。だから、雫の中の天秤は守口を疑う方に傾いてしまう。

 思えば、守口は先の鑑別面接のときも始終俯いていた。それは今回の事案の重大性を思い知っているからだと雫は感じていたのだが、もしかしたら元々守口は、人の顔を見て話すことが得意なタイプではなかったのかもしれない。

「そうですか」と相槌を打ちながら、それでも雫は守口のことを慮らずにはいられない。勉強も部活もうまくいかず、友達にも乏しかったとすれば、守口の自己肯定感は低下していてもおかしくない。学校に行くこと自体が苦痛だったのではないかと、雫には思えてしまうほどだ。

 だけれど、勅使河原たちの前でそんなことを言えるはずもなく、雫は生じた思いを喉の奥まで引っ込めた。守口が自分をどんな風に感じていようと、起こったことは紛れもない現実だった。

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