「失礼いたします」
カードキーで扉のロックを開いて、とても1船内の客室とは思えない広さ・豪華さを誇る部屋の中へ進んでいく鷲津。杏樹と夏怜が滞在したホテルの部屋と同等どころか、それよりも高級感がある部屋であった。
本来ならば姉妹は、母国へと到着するまでの時間は暇だし、仮眠をとっていてもおかしくないのだが……。いくら防音加工がされている部屋とはいえ、周囲で戦闘が始まったりすれば、なんとなく異常に気づくもの。昼間のドレス姿から一転して可愛らしい部屋着に着替えていた2人は、同じソファに座って何か話し込んでいるようだった。
「……シュリィ! この騒ぎはいったい……?」
「……手短にね」
現れた人影が鷲津だと判明すると、何が起こっているのだと言わんばかりの表情で鷲津に声をかけるヴェルデ姉妹。大きな財閥の子孫なのだから、これくらいのアクシデントは珍しくないだろう、と思う者もいるかもしれないが……。
人種のせいか大人びて見えるこの姉妹は、両方まだ15歳。大人しいロシェルもわんぱくなルシェルも、日本の年代で換算したならば、今年で高校1年生になった年代。そう、まだまだ子供なのである。体験したことのないアクシデントが起こってしまえば、焦ってしまうのも無理はないだろう。
「侵入者が現れたので、その対応をしているところです。大丈夫ですよ、今すぐにでも終わらせてきますから」
「そう? それならいいけど……」
ソファから立ち上がりつつ確認を取ろうとする姉妹に、安心させようと鷲津は笑顔で言葉を返す。妹のルシェルは、馬鹿正直にその言葉を信じてホッと胸を撫で下ろすが……。姉のロシェルは、知っていた。鷲津があからさまな笑顔を見せる時は、自分達を安心させるための言葉を優先的に放つ、ということを。まぁ、気づいたとはいえ、それを指摘するわけではないのだが。
この場にはルシェルが居るし、もしそれを指摘してしまえば、彼女がまた怖がってしまうかもしれない。ここは、鷲津の面子を立てるためにも、黙っておいた方がいいだろう。ロシェルはそう判断する。
「……いいですか? 私が再度この部屋を訪れるまでは、絶対に部屋の外に出たりしてはいけません。危険ですから」
他人に安心する言葉や優しめの口調の言葉をかけた後は、願いが通りやすいという人間の心理を利用し、2人にお願いをする鷲津。お願いの内容は単純で、「この部屋から出ない」、ただそれだけのこと。
好奇心旺盛なルシェルなら、お願いを聞き入れずに部屋の外へ出てしまう……ということも考えられるが、そこはきっとロシェルがカバーしてくれるだろう。もしもルシェルが2人でロシェルが居なかったらと思うと……。きっと、鷲津は過労で倒れてしまうに違いない。
「ええ、わかったわ!」
「気をつけてね」
姉妹が願いを引き受けたのを確認すれば、もう一度笑顔を返して、また部屋の出入口の方へと戻っていく鷲津。護衛という仕事をしている以上、命が伴うのは当然のこと。彼女らに会えるのは、今日が最後かもしれない。そんな感情を薄ら思い浮かべて、鷲津はずっと仕事をしてきた。
今日は、その感情がいつもよりも色濃く脳内へと侵食してきていた。優秀な護衛が近くに居るとはいえ、自分1人が10人の殺し屋に襲われたりしてしまえば一溜りもない。刻一刻と迫り来る、まだ誰にも見せていない、自ら死地へと向かっていく時の感情。心の臓の鼓動がいつもより速くなるのを感じつつ、鷲津はドアノブに手をかける。
「勇飛」
部屋を出ていこうとした、その瞬間。ロシェルはルシェルから少しだけ離れ、鷲津の後ろ姿に向かって、彼の下の名前を呼んでやった。
鷲津は、長らく外国に滞在している内に、ふと自分の名前を忘れてしまうことがあった。呼ばれる名は、大抵が「ワシヅ」か「シュレイダー」だったから。本人でさえ忘れてしまうような名前を、ちゃんと覚えていたロシェル。
「これはお願いじゃなくて、将来ヴェルデ財閥を背負う人間からの命令。必ず、私達の元へ生きて帰りなさい」
名前を呼ばれたことにポカンと口を開いて驚いている鷲津に、追い討ちをかけるかの如く、ロシェルは命令をする。……彼女は、財閥を背負うに相応しい人間だ。鷲津は、ふとそう思う。意図して人の心を読んでいる……のかは分からないが、その時かけてほしい言葉を、稀にかけてくれることがある。
そんな彼女と、彼女達と、明日という日をを生きるために。今日が最後の日になるということは、余程のことがない限りは無い。それは、自分の力で変えられるのかもしれないのだから。どんな敵が来たとて、自分の力で、絶対にその運命を変えてみせる────。鷲津は、そう決意をした。
「かしこまりました」
鷲津がヴェルデ姉妹の居る部屋を出た頃。場面は、操縦室前へと戻る。
たった、数分間の出来事。ナイフを抜いた屈強な警備員が、拳銃を抜いた精密機器のような射撃をする警備員が────。全員、アナスタシアによって完璧にねじ伏せられた。傷1つすら、彼女は付けられていない。ここまで、彼女の完勝である。
「…………」
夏怜も、その戦闘に入れるものなら入って、アナスタシアを倒して、警備員の命を1つでも多く救いたかった。だが、それはできなかった。……否、させてもらえなかった、という方が正しいだろうか。
アナスタシアの視界に入った警備員は皆、気づいたらいつの間にか殺されていた。攻撃をしたその瞬間、体を守ろうとしたその瞬間。何かすら分からぬ武器で瞬時に攻撃され、血を吐いて倒れてしまっているのだ。操縦室の前には、魔術のように警備員を次々と殺害していったアナスタシアと、壁側に寄りながら敵の情報を探ろうとする夏怜のたった2人だけ。
「……あっという間に2人きりね、お嬢さん? 武器を床に捨てて投降すれば、命は見逃してあげるわ」
感情に身を任せて攻撃してこなかった夏怜を、アナスタシアは評価していた。人間は、感情に振り回されている状態が一番弱い。他の警備員のように、安い挑発に乗ってはくれなかった夏怜を見つめながら、彼女に英語で話しかけるアナスタシア。
「…………、?」
その、世界で最も使われている言語である英語で話している、という点。それがミソだった。夏怜は、簡単な英単語等ならば理解できるが、難しい英文になったりすると、からっきし意味を理解することができなくなってしまう。アナスタシアの挑発に乗らなかったのも、夏怜が英語を話せないのが裏目に出た結果なのである。
だが勿論、英語を理解できないのは外国に居る人間にとって致命的。彼女が話している降伏の条件を指す言葉を理解できず、夏怜は敵意がないアナスタシアを見張ることしかできなかった。
「……ァ〜、……あ」
いつでも動ける体勢をとってはいるが、まるで言葉の意味を理解していなさそうな夏怜の顔。彼女の顔を見ると、アナスタシアは英語が聞き取れないのだということを察して、かなり面倒くさそうな表情を浮かべて夏怜を凝視し始めた。
ジッと夏怜を見つめていると、あることに気づくアナスタシア。最初は、少しスーツの色や形が似ているなとか、その程度の疑いだったが……。こちらが動いた瞬間に、すぐにでも動き出せる立ち姿。武器を構えないという、何をしてくるのか全く分からないスタイル。それらを見たアナスタシアは、昔の記憶を呼び起こされる。
「…………ふふ、何か見覚えがあると思ったのよ」
自身の記憶と彼女の姿が完全にリンクしているのを確認すれば、話す言語を日本語に変更して、アナスタシアは夏怜に話しかける。外国人が日本語で話しかけてくる時の、ハラハラドキドキとした感情が1日で2回も襲ってくるなんて思ってもいなかった夏怜は、瞳孔と口を同時に開いてしまいつつアナスタシアを無言で見つめた。
なぜ、日本人であるということがバレた? アジア人ということは分かっても、中国や韓国、東南アジア系等、色々な人種の顔つきがある中で、日本人とピンポイントで当てられるのは凄いことだし……。見覚えがあるとアナスタシアは言っているが、夏怜は彼女に会った記憶なんて一切ない。
「……ふ、ぅ〜〜っ……」
でも、待て。1発で当てたのは偶然なだけかもしれないし、奴の口八丁に乗せられてはいけない。警備員も、彼女の口車に乗せられて死んでいったのだから。夏怜は、一度深く深呼吸をして、自身の中にあった焦りを取り除いていく。
脳内をリセットしようとしている夏怜を、更に混乱させようと。粗方予想がついたアナスタシアは、再び口を開いた。
「それは、あの怪盗の真似事かしら?」
……なぜ、その事実を知って────?
怪盗という、一部の人間以外は知らない、夏怜の隠し事。その言葉を、彼女にとってピンポイントな使われ方で使われた夏怜は、頭の中が一気に思考でいっぱいに埋め尽くされてしまう。
「ッっ、……!!!」
衝撃的なことを告げられた、という表情をしたまま立ち尽くす夏怜に、殺した警備員からこっそりと奪い取っていたナイフを投げるアナスタシア。伝説級の傭兵であるということで、ナイフ投げの精度はその道のプロと同等かそれ以上のレベルに達していた。
集中の糸がプツリと切れかけた所に、顔面のど真ん中に放り込まれるナイフ。夏怜は、持ち前の反射神経だけでそのナイフを命からがら回避する。
「あら。反射神経すら同じレベルなのね。面白いわ。……少し話をしましょうよ」
────しかし、それは完璧な回避ではなかった。かつて紅月と戦った際、ギャリアの銃弾を何度も何度も回避できたほどの反射神経を夏怜は持っているが……。彼女の頬から、血の橋が流れ落ち始める。アナスタシアが投げたナイフが、夏怜の頬に傷をつけたのだ。少しでも遅ければ、大量出血は間違いなかっただろう。
反射神経と同時に、集中力も人並みに発達している夏怜。そんな彼女が、いとも簡単に集中力を乱してしまう程の話術────。アナスタシアは、不敵な笑みを浮かべ、自分に敵意は無いと両手を挙げてアピールしながら夏怜に言葉を放つ。
「…………わ、悪いけど。話してたらすぐに殺されそうな気がするから、遠慮しておくかな」
敵意は無い、話をしようとも言っている。……だけれども、信用できないということは確か。さっきだって、予想ができないことを言われ、予想ができないタイミングで攻撃をされた。一瞬でも思考を別のことにやればまた攻撃されそうだからと、夏怜はアナスタシアを見つめ、対話を拒否した。
対話を拒否することはつまり、戦いを始めることを受け入れるということ。アナスタシアを見つめながら、夏怜は考える。やはり初手は、あれで奇襲するか……。否、それは弱者にしか効かない攻撃。杏樹の時に気づきかけ、名も知らない眼鏡の彼女と戦った時に完全に気づかされた。それなら、カウンター中心で行くか、それとも……。
「こういうのは断らないモノよ。……参ったわね、アタシが喋りたいだけなんだけど」
目の前の敵が会話を拒否すると、アナスタシアは不満気な顔をして自分の腰に両手を当てた。
杏樹に似た雰囲気すら覚える彼女を見つめていると、夏怜はあることに気づく。先程アナスタシアと戦っていた警備員の1人が、深手を負いながらも勝負を続けようとしていることに。
場所は、彼女の斜め後ろ。視界には絶対に入らないはず。うつ伏せに倒れている警備員は、手に持っていた拳銃をゆっくりと彼女に向けて、物音を立てずに発砲しようとした。どうか今だけは、気づかないでくれ────。夏怜は、強くそれを念じていた。
「ま、いいわ」
両手を挙げていたアナスタシア。警備員が照準を定めて、今まさに撃つぞ、というタイミングで。彼女は言葉を発しながら、両手を下げて夏怜に近寄り始めた。いきなり動き出したアナスタシアのせいで、倒れている警備員は照準が定まらなくなって、急いで合わせようとする。
夏怜はというと、アナスタシアの情報を知ろうと壁側に寄っていたせいで、逃げ場が無い状況に陥ってしまう。急いで横に動いて、スペースを確保しようとする夏怜。しかしアナスタシアは、夏怜を追うのが目的ではないようで。少し歩けば、アナスタシアは夏怜を見ながら立ち止まる。
「ッ、────」
立ち止まると同時に。アナスタシアが左手の手首をクイッと返したかと思えば、乾いた音が操縦室前に響き渡る。間違いなく、それは銃声だった。
自分は攻撃されてなんかいないし、いったい何が起きたのかと思って、夏怜は釘付けにしていたアナスタシアへの視線を警備員へと移す。警備員は、ドクドクと頭から血を流して既に息絶えていた。アナスタシアが、今この状況で殺したのである。
「さて、問題。何故アタシは完全に死角の彼を撃ち抜けたでしょう? TicTac、TicTac」
人差し指を立てて、チクタクと時計の規則的な音を口で真似しながら、撃ち殺した警備員の彼の方へと歩いていくアナスタシア。彼女は今背を向けているとはいえ、同じように背を向けられているのに撃ち殺された彼を見てしまえば、夏怜は全く油断ができなくなってしまう。
アナスタシアから目線を外すことができない中、彼女の質問について考える夏怜。パッと思いついたのは、2つ。1つは、草食動物並の視野を持っているということ。もう1つは、後ろから微かな物音が聞こえていた……とか。前者はともかく、後者なら現実的に有り得そうな回答だ。
「よい、しょっと。答えは?」
警備員と同じように夏怜を撃つことはなく、ぐったりとうつ伏せに寝る遺体の上に座って、アナスタシアは夏怜に答えを求める。
……先程は対話をしないと言ったが、極限まで集中力を高めれば攻撃は見えるはずだし。アナスタシアだけを見ていれば、きっと大丈夫なはず。夏怜はそう信じて、口を開いて彼女に自身の答えを告げる。
「……単純に、後ろから物音が聞こえたとか」
夏怜の答えを聞けば、黙って冷ややかな笑みを浮かべたまま、彼女のことを見つめ続けるアナスタシア。答えを聞いてすぐに何か言ったりしないし、それどころか黙って笑みを浮かべるだけ。その独特の間が、ひたすら不気味で、雰囲気に飲み込まれてしまいそうで。夏怜は、ゴクリと音を鳴らしながら息を飲み込んで、アナスタシアの言葉を待とうとする。
「不正解」
夏怜が息を飲み込んだ、その瞬間。アナスタシアは、彼女の答えが間違いであることを指摘した。
……やはり、そうだ。彼女は、タイミングを外す……というか、リズムを乱すのに長けている。さっきは思考の波に飲まれてしまった時に攻撃してきたし、今だって、息を飲むという動作と同時に喋りかけてきた。息を飲む瞬間、集中力がほんの少しだけ途切れた瞬間、もし攻撃してきていたら────。先程のナイフ投げの攻撃と同じように、体に傷がついていたかもしれない。
「さっきの警備員はね……アナタが殺したの」
既に骸となった警備員の上に座りつつ、自身の膝に肘をつき、頬杖をついて夏怜に正解を話す彼女。……自分が、手にもかけていない警備員を殺した? 想像もできない言葉を言われて、夏怜は思わず困惑してしまう。
「後ろを見なくても、彼が動いてるのが分かった理由。それは、アナタが私から視線を外して、後ろの何かに目をやっていたから」
しかし。その言葉が本当だったのだと、夏怜はアナスタシアによってどんどん気付かされていくことになる。
「表情が強ばっていて、何かを強く願うような表情で、チラチラとアタシからバレないように視線を外し始めた時。アタシは確信したわ。仕留め損ねた負け犬が、牙を剥こうとしてるってことにね」
冷たかったはずの、アナスタシアの笑みが────。夏怜に言葉を告げていくと共に、どんどんと、変わっていく。意地悪で、奇怪で、妖怪のような、不気味な笑みに。
耳を傾けてはいけない、心に取り入れてはいけない、アナスタシアの魔の言葉。「お前が殺したんだ」と、責任感を押し付けてくる言葉。勿論、無理矢理すぎる理論なのは理解できる。それなのにも関わらず、あの言葉が頭から離れない。「さっきの警備員は、アナタが殺したの」という言葉が。
「…………簡単ね。人の脳を支配するのは」
頭の中で、ぼんやりそう考えるアナスタシア。夏怜の脳は、アナスタシアによって蝕まれ、そして、既に囚われてしまった。彼女達が戦闘に至るのかはまだわからないが、もしそうなった場合、夏怜はアナスタシアに勝利することができるのだろうか?