死を決心してアナスタシアに攻撃することにした夏怜は、手袋の先から糸のような特殊ワイヤーを放出して、部屋のそこらに張り巡らせる。ギャリアと戦った際にも使った、主に人を気絶させる用途の特殊ワイヤーだ。それぞれの指先に配置されており、手袋を装着すれば合計10本の特殊ワイヤーを活用することができる。
アナスタシアは、隙を見ての攻撃こそしないものの、夏怜の思いどおりに特殊ワイヤーを活用させない絶妙な立ち位置をキープし続ける。張り巡らせている特殊ワイヤーは、人間の目じゃ到底判別できないような、極細なワイヤーであるが……。明らかに認識をしているとしか思えない動きを、アナスタシアは見せた。
「…………っ、と」
口にこそ出さないが、実はこの攻撃方法は既に体験済みのアナスタシア。実は、先代の怪盗ヴァイパーと戦った時、この特殊ワイヤーを上手く活用されたという過去がある。その記憶だけを頼りに、アナスタシアは夏怜の動きから推測して立ち位置を決めていた。
既に重症とも言える身体状況の夏怜の動きは、アナスタシアからしてみればもはや素人同然の動き。なのにも関わらず攻撃しないのは、師を越えようとしている彼女の煌めきを見たかったから。もしこのまま何分も同じ動きを繰り返すというなら、退屈だし殺害をしてしまおうと考えるアナスタシア。
「……ッ、ふ…………、ぅ」
腹の傷が開いていく痛覚に、苦悶の表情を浮かべながらも、夏怜は必死にアナスタシアを倒す隙を見出そうとする。一瞬でもアナスタシアに隙ができれば、どうにか体勢を崩させたりして気絶させることができそうだが。夏怜の心情を理解しているアナスタシアは、常に先を読み、攻撃を回避し続けるという作戦をとっていた。
このままでは、いつまでもアナスタシアを倒すことはおろか、指1本、ワイヤー1本すら触れさせることができない。────というのが、夏怜によって演じられている状況。仮にも伝説の怪盗を師に持つ人間が、易々と敗れてしまう。そんなわけがなかった。
「────そろそろ、終わりに……」
特殊ワイヤーを張り続けるだけで、それ以外の攻撃の意思は見せてこない夏怜。彼女に痺れを切らしたアナスタシアは、タイムリミットであることを告げんとばかりに、ゆっくりと左手首を夏怜に向けてから呟いた。どういう理屈なのかは夏怜もわからないが、手首を向けた先へ銃弾を発することができるというのはわかっている。左手首を向けられる、それ即ち、死への警鐘。
死を目前とした夏怜は、アナスタシアが言葉を告げ終わる前に、ぽかんと口を開いた。それは、迫り来る死を理解したからとか、そんなみっともない理由ではない。この状況を覆すには、今このタイミングしかないと瞬間的に感じ取ったからだ。
「はぁッ…………!」
脳で判断を下し、口を開き、言葉を呟くという、人間である以上は避けられない隙。その、集中力が乱れた隙を狙うという自分が彼女にされた攻撃方法を、夏怜は素早く吸収して実践してみせる。
手袋から放たれているワイヤーは、アナスタシアの意識がそっちに向き続けるように仕向けた罠。本命は……革靴の先端から放たれている、11本目、12本目の特殊ワイヤーだ。ステップは最大限変えず、バレないように足先から放出していたワイヤーで、夏怜はアナスタシアの体勢を崩そうとした。
「…………ん、……!」
夏怜の空気が変わったのを感じると同時に、自分の想像の範疇にはない特殊ワイヤーが脚に引っかかり、思わず体勢を崩してしまうアナスタシア。これ、これだ。未知の攻撃方法に手を焼かされるのは、こんな感覚だった。
なんてアナスタシアが思ってるのも束の間、一気にラストスパートをかけようとする夏怜。残りの特殊ワイヤー11本をフルに活用すれば、気絶させることは容易でなくとも、捕縛くらいはきっとできるだろう。
「…………────ッ…………、!」
生まれ持った才能というのは、ときに残酷だ。努力している人間を、嘲笑うかの如く簡単に捻り潰せるのだから。一気に攻撃を仕掛ける最中、夏怜は見る。杏樹やアナスタシア等にしかない、絶望によく似た才能を。
体勢を崩しているとはいえ、アナスタシアはイレギュラーに発生している以外の特殊ワイヤーの位置をなんとなく把握できている。次々と襲いかかってくる特殊ワイヤーに対して────、右の手の甲でそれぞれのワイヤーに触れるアナスタシア。その様はまるで、舞踏であった。
「期待どおり。面白かったわ」
……ぷつり。ぷつ、ぷつっ。それは、操縦室前に響く音ではなく、夏怜が感じている感覚。
間違いない。アナスタシアの右の手の甲に触れた特殊ワイヤーが、次々と切断されていっている。左の手首に銃弾を埋めてるのかと思えば、次は右の手の甲に刃物でも隠していたというのだろうか?
ほとんどの特殊ワイヤーを切断すれば、一言だけ感想を告げながら夏怜に急接近するアナスタシア。もはや、ここまでか────。そう思う頃には、既にアナスタシアの左手首が夏怜の右のこめかみに押し当てられていた。
「天の上で師匠に会えたのなら、伝えておきなさい。私が『また戦おう』と言ってたってね」
両のこめかみを抑えられて、顔を強制的にアナスタシアの方へと向けさせられる夏怜。近接しているのだから、今のうちに攻撃すればいいのでは……とはならない。夏怜は、血を流しすぎた。行動不能な状態にまで陥ってしまうほどに流してしまっていたのだ。
もし抵抗されたとしても、夏怜が動いた瞬間に銃弾を放てば、確実に殺すことができる。夏怜の生死を握ったアナスタシアは────。彼女に伝言を残してから、無慈悲に火薬の音を響かせた。
「ッ、…………、?」
たしかに聞こえた、聞き慣れた銃声。訪れる死の瞬間に、少しでも痛みを感じないために強く目を瞑っていた夏怜は、何かおかしいぞと片目だけを開いてアナスタシアの様子を見る。
自分を殺そうとしていた彼女は、なんとよそ見をしていた。しかも、ただのよそ見なんかではなく、呆然とした表情を浮かべていたのだ。今体が動けば、なんて思ったとしても、動かせないというのが事実。いったい、彼女の視線の先に何があるのだろうかと思い、夏怜は視線だけでもアナスタシアが向いている方向へと移す。
「先に天の上に行くのは、キミになりそうだネ」
そこに居た、拳銃を構えている人影は────。スイートルーム前を守っているはずの、もう1人の護衛。杏樹だった。
「ッ、ぐ…………!!」
時は、アナスタシアが夏怜を圧倒し始めるよりも少し前に遡る。鷲津の背後をとっていた暗殺者が、勢いのままに彼を殺害しようとしていた瞬間のこと。
戦場と化した廊下に、言葉になってない悲鳴と共に、勢いよく血が舞い始める。ヴェルデ財閥の執事である鷲津の人生は、今ここで幕切れを迎えた────。本来ならば、そんな展開になるはずであったが。
「……ふィ〜、……ギリセーフ」
実際に殺害されていたのは、鷲津ではなく、鷲津を殺そうとした殺し屋の方であった。視界に映る敵をいち早く殺害した杏樹が、背後から鷲津に近寄っている影を肉眼で認識し、即座に撃ち殺したのである。
もう1秒確認するのが遅かったら、きっと鷲津は殺されていたことだろう。当人である鷲津ですら気づいていない、背後の殺し屋の頭を正確に撃ち抜いた杏樹は、じんわりと滲み出てきた額の汗を軽く拭いながら「セーフ」と呟いた。
「……あの、朽内さん…………って。……びっくりした、なんですかコイツは……」
目の前の敵を全員対処し終わると、後ろに下がりながら杏樹に話しかける鷲津。下がっていく道中で、つい先程までは無かったであろう死体に足を引っ掛けてしまえば、鷲津は思わず目を見開いて反応した。
「あァ、ソレ? さッきキミのコト殺そうとしてたヤツだヨ。もう少しあたしが撃つの遅かッたら、シュレイダーが死んでたネ」
「……そうなんですか。助けてくださりありがとうございます」
少し状況が違えば、自分は殺されていた。それを知らされれば、血の気を引かせた表情で礼を言う鷲津。礼を言うだけでは済ませられないような事態ではあるが、だからといって礼を言わなくてもいいことにはならない。杏樹は、鷲津の命の恩人であった。
「……い〜よ、そンなのよくあることだシ。それより、言おうとしてたコトは?」
戦場で密かに人の命を救うことなんて、杏樹からしてみればあるあるな事例。戦う場所が狭いからたまたま鷲津は気づけただけで、もっと大きく開けた場所であれば、命を救ったのにすら気づかれずに戦闘が進むこともザラにある。助けるのには慣れてるが、やはり礼を言われるのには慣れていない杏樹は、そっぽを向きながら話題を変えた。
「あぁ、……それがですね。インカムで知らされたのですが、部屋周辺の警備に援護が来たようで。直にここにも援護が来るので、朽内さんには丹波さんの様子を見に行ってもらおうかと……」
ついさっき……背後の殺し屋に命を狙われていた時。鷲津は、インカムで部下からとある連絡を受け取っていた。どうやら部下によると、部屋周辺以外の見回りをしていた警備員が上手く動いてくれたおかげで、部屋周辺の警備が磐石になっている……とのこと。そして、鷲津と杏樹が居る部屋の扉前に援護を向かわせる、ということも知らされた。
数的優位になる上、敵の数もかなり減ってきた今、最初に銃声が聞こえた船の先頭の方を確認しておきたいと考える鷲津。先程のような状況もあるのだと鑑みた場合、杏樹を夏怜の方へ向かわせるのは若干怖いが……。自分の力を信じ、鷲津は杏樹に操縦室前へ行ってほしいとお願いする。
「了解……ッて言ッてあげたいケド。他の警備員が来るとはいえ、大丈夫か心配だネ」
「……もしここで私が死んで、お嬢様方が殺されたとしても、貴女に責任はありません。全責任は、貴女を向かわせた私にあるのですから」
たしかに鷲津の実力は認めているが、どうも信じきれない杏樹は、本当に大丈夫かと確認した。
大丈夫ではないことを、鷲津は知っていた。敵は減っているし起こりえないことだとは思うが、ここから大勢の敵が来たりしたら、いくら大勢の警備員が居てもすぐに殺されてしまうだろう。
……それでも。上に命令されたことを成し遂げるのは、絶対。お嬢様方の元へ生きて帰るためには、どんな姿になったとしても戦い続けるしかない。杏樹が居なくたって、その分自分が頑張れば大丈夫。そんな鋼のメンタルで、鷲津は杏樹を説得する。
「……正義執行人は、与えられた任務を忠実に遂行するマシンと聞きましたよ。さぁ、早く様子を見に行ってください。なんともなさそうでしたら、戻ってきてもらいますが」
「……OK、なるべく早く戻ッてくるワ」
本当は、怖いだろうに。責任を問われるのが、殺されるのが、姉妹を守れないのが。全く怖くないぞと言わんばかりの表情を浮かべて説得してくる鷲津に、杏樹は静かに心の中でそう思う。
ここで鷲津のお願いを蹴り、ここにずっと居座ったなら。ヴェルデ姉妹は確実に守れても、彼の意思は守りきれないままだ。……今だけは彼のメンツを立ててやろうと、鷲津に背中を向けて走り出す杏樹。
走り去っていく杏樹を見ると、鷲津は心の中でもう一度彼女に礼を言う。そして、銃の弾倉を詰め替えつつ、少しだけ静かになった廊下で鷲津はポツリと呟く。
「…………ふぅ。……さて。援護が来るのが先か、敵が来るのが先か。見ものですね」
紆余曲折ありつつも、操縦室前のフロアに到着した杏樹は、衝撃的な光景を見ることになる。それは、いつもはなんだかんだ勝利を収めている夏怜が、謎の敵に両のこめかみを抑えられた状態で捕まっているという光景だった。
姉妹の次は鷲津、鷲津の次は夏怜を守ることになるのか……なんて考えながら、杏樹は即座にアナスタシアの頭に向かって発砲する。易々と意識外からの銃弾を躱したアナスタシアに若干嫌な気を覚えるが、挑発の言葉をかけながら次々と弾丸を放つ杏樹。
「ひュ〜。強いねェ、キミ」
アナスタシアの頭を狙った3、4発の弾丸は、全て完璧に避けられてしまった。杏樹の狙いはとりあえず夏怜から離れてもらうことだったし、これはこれで……と思いつつアナスタシアに近寄る杏樹。
急に現れた杏樹を見て、アナスタシアは感じる。異常なほどに練り上げられた強さ、これまで何人も殺してきた死臭、語るまでもない殺気。夏怜とは比にならないくらいに、黒髪の彼女は強い存在。食物連鎖の最上位のような気配であった。
「…………やはり、最高ね。日本という国は」
10年前に出会った怪盗。そして今出会った、その怪盗の弟子と正体不明の人間。……まったく。日本という国は、どれだけ最高なんだ。アナスタシアは、つくづく思う。
強者が2人相まみえて、今にも戦闘が始まりそうな状況の中で。アナスタシアに離れられた夏怜は、その場にへたりと座り込んで、傷口を抑えながら思考を浮かべる。────ああ、自分はなんて無力なんだ、と。
殺し合いの敗者は、普通ならば明日を生きる権利を無くす……が。その前にまず、生きるか死ぬかの権利すら相手に奪われてしまう。死を覚悟して挑んだのに、結果は? 惨敗した上に、殺されるということすらさせてもらえない? ……そんなの、屈辱的すぎる。夏怜は、恥じていた。自分の弱さに。
「残るはキミだけ……ッぽいケド。随分派手にやッてくれたネ」
生存者は……見たところ、夏怜以外居ない。息がある夏怜も、かなり危険な状態なのが想定できる。アナスタシアが量産した死体の数々を見て、杏樹は呟いた。……のと、同時に。左手の銃口をアナスタシアに向けつつ、ゆっくりとホルスターから高周波ブレードを抜く杏樹。
杏樹の言葉を聞いたアナスタシアは、少しだけ不可解そうな顔を浮かべる。夏怜と戦っている時なんかは浮かべなかった顔だ。
「……アタシ、だけ? あの殺し屋共は?」
杏樹をジッと見つめているアナスタシアは、特に何かをしようとするということはなく、ただ棒立ちで杏樹に質問をするのみ。立ち尽くすアナスタシアに、杏樹は高周波ブレードの刃の先を向けて、ゆっくりと近づきながら口を開いた。
「今はどォか知らないケド、ついさッきまでは完璧に制圧できてたカナ。あたしが居なくても、きッと彼らなら大丈夫だと思うシ」
杏樹の言葉にアナスタシアが引っかかったのには、理由がある。理由がなければ、曇ったような表情で質問をしたりはしない。
アナスタシアが依頼された任務の内容は、「ヴェルデ財閥の子孫の暗殺を成功させる」。どうすれば速やかに暗殺を成功させられるか考えた結果、アナスタシアはまず通信室を襲撃することにした。通信室の襲撃が終わると共に、殺し屋達を姉妹の元へと向かわせる。アナスタシアは、殺し屋が姉妹を殺害している間、目に入った警備員を殺害しながら操縦室を占拠する……という計画だったが。
殺し屋達が姉妹を殺せなかったのなら、計画は失敗となる。やはり、自分がまっすぐ姉妹の元へと行くべきだったか……なんて思いつつ、アナスタシアは大きくため息を吐いた。
「殺し屋だからと少しだけ期待したのが間違いだったかしら。……いいわ、アナタを殺して…………」
近づいてくる杏樹と言葉を交わしながら、戦闘状態へ移行しようとするアナスタシア。……だが、アナスタシアはなぜか戦闘状態に移らなかった。夏怜に引っ掛けられた特殊ワイヤーで、脚が負傷気味なことに気がついたのである。
オマケに、左手首に仕込んでいる銃弾の数も心もとないと来た。……楽に勝てる相手ではないのに、自身が万全な状態でないのは駄目だ。命を落としかねない。
「戦いの最中に考え事はダメだネ〜」
「……っ、と」
体の異常に気づき始めたアナスタシアに対し、杏樹は奇襲を仕掛ける。急激に動きを早めて、高周波ブレードで斬りかかったのだ。
タイミングが掴めない攻撃なのにも関わらず、杏樹の攻撃を易々と避けるアナスタシア。攻撃を避けると、アナスタシアは反撃をするわけでもなく、ただバックステップをして杏樹と距離をとるばかり。戦う気がないのか、怖気付いたのか……。なんにせよ、殺すのなら今がチャンス。再度、杏樹は距離を詰めようとする。……が。何かを取り出したアナスタシアを見て、杏樹は動きを止める。
「勿体ないけれど、アナタとは万全な状態で戦いたいから。またいつか、どこかで」
アナスタシアは、そんな捨て台詞を吐くと共に、取り出した物を強く床に叩きつける。
────その瞬間。白色に少し灰色が混ざったような煙が、モクモクと操縦室前に広がり始める。一瞬で辺りが煙に包まれて周囲が見えなくなり、どこから攻撃されるか予測がつかない杏樹は、懸命に感覚を研ぎ澄ませる。
「…………、……アレ」
しかし。攻撃を身構えていた杏樹の思考とは裏腹に、煙が消えるまでアナスタシアが攻撃をしてくるということはなかった。……それどころか、アナスタシアは完璧に操縦室前から姿を消していた。夏怜以外の生きている人間の気配はしないし、彼女が残した言葉の内容的にも、逃げたと考えるのが普通だろう。
「……ェ〜と、……こうかな。……シュレイダー、聞こえてル?」
アナスタシアが居なくなったのを確認すれば、杏樹は素早く戦闘態勢をとるのを辞めて、座っている夏怜の元へと歩きながらインカムを操作する。こういう場面で、素早く判断をしたり、マルチタスクをこなすことができる杏樹はきっと、仕事ができる人間なのだろう。
「ええ、聞こえてます」
「ォ、便利便利。そッちにバカ強いノが1人行くかもだから、来たらなンとしてでも止めといて。あたしは夏怜ちゃンを医務室に連れてッてから合流するワ」
スイートルーム前で警備をしている鷲津に通信が繋がったのを確認できれば、座る夏怜を姫抱きして、操縦室前を離れようとする杏樹。
相当な出血量だ。大人しく傷口を抑えていればその銃弾が致命傷になることはなかっただろうに、アナスタシアを倒そうと機敏に動きすぎて、完全に傷が広がってしまっている。……この傷じゃあ、生死すら危ういかも…………。夏怜の腹の傷を見て、頭の中ではそう考えながらも、杏樹はひたすら医務室に向かって走る。夏怜の命を救うために。
「…………杏樹。……ごめん、仕事……増やしたね」
霧がかかったように霞む視界の中。いつもの元気な声はどこへやら、力無い声で杏樹に声をかける夏怜。面倒なことはしたくない主義の杏樹の仕事を増やしてしまったのが、気がかりなのだろう。死の間際を彷徨っているというのに、夏怜はどこまでも優しい人間だ。
「喋ンないで、傷が広がる。……そうだなァ、今日の分はこれからで返してけばいいから。今は寝ておきナ」
肉体的にも精神的にも弱りきった夏怜に、いつもの口調で声をかける杏樹。言葉遣いは少しキツいのかもしれないが、内容は夏怜を励ますような優しい発言だ。
杏樹の言葉を聞いた夏怜は、少しだけ安心したような、それでいて曇ったような表情のまま、目を瞑って意識を落としていく。正義執行人になってからは、誰にも負けてこなかった夏怜。そんな彼女にとっては、対杏樹以来の大敗北を喫したのであった────。