「……ふぅ。そろそろ帰るとするか……」
いつもどおり資料や報告書を作成していれば、もうとっくに帰る時間は過ぎていた。周りに居た部下はすっかり帰ってしまって、自分の部署は静かになって。眼鏡越しのブルーライトに目が疲れてきた頃、岬はようやく帰ることを決心する。
休憩の二文字すら知らなそうな、真面目な性格の彼女だが。実を言うと、そんなことはなく。疲労が蓄積しているなと感じれば、仕事が溜まってない限りは大人しく帰れるような人間。要するに岬は、自分の状況を考えて行動できる優秀な人間ということだ。
「…………お? なんだこれ」
今日は自分の机以外の場所で作業をすることが多かった岬が帰ろうと一旦机に戻ると、机の上に何かが置かれているのが確認できた。いったい何かと思った筒状のそれは……自身が自動販売機でよく買っている、缶コーヒーだった。
もしや、買ったものを放置していたのか……と岬は自分を疑ったが、やはりそんな覚えはない。そうして自分を疑っているうちに、岬は気づく。缶コーヒーに、小さなメモ書きのようなものが貼り付けられているということに。
岬は、貼り付けられたそれを剥がして手に取り、書いている内容を読み上げた。
「なになに。『清水先輩、お疲れ様です〜! ほんとは言葉で挨拶したかったですけど、忙しそうだったので紙面で……。今日は用事があるのでお先に失礼します! よければ飲んでください!』……、咲沢か」
読み上げていく途中で、字体や文体から岬は半ば察していた。そのメモが、部下である咲沢黒音によるものであると。文を全て読み終わると、嬉しそうに笑みを浮かべて、それでいて少しだけ呆れたような、そんな表情を浮かべて口を開く岬。
「……ったく。上司が部下に奢られるとは……」
彼女は、嬉しかった。自分の部下が、気遣いという優しさの感情を持っていることが。警察官ならば優しさなんて持っていて当然と思う人は居るかもしれないが、多分その優しさは、ベクトルが違う方の優しさである。
一般市民に向ける優しさは、たしかにあって当然。けれども、同じ立場である警察官に対しても優しさ……言わば、善意の優しさを向けられる警察官は、中々居ないのではないか。岬は、そう考えていた。
自分からしてみれば、ミスした部下を叱ることも、疲れている部下を励ましたり癒したりすることも、同じ優しさ。人を支え、互いに人間として育てあっていくこと。これこそが優しさであるという理念で動いている自身の部下がその善意の優しさをくれたのだから、岬が嬉しくなってしまうのも当然だろう。
「……今飲んだら夜寝れなくなるし、明日以降に飲むとするか……」
ここで飲まないという選択をするのも、なんだか岬らしい選択。缶コーヒーは鞄に、メモ書きは自分のパソコンに貼り付けて、岬は職場である警視庁から家へ帰ろうとする。
夜勤の人間とも多く出会う中、1階へと降りた岬。岬はそこで、遊馬でも黒音でもない、珍しい人物と出会うことになる。一言でその人物を表すのなら……、警視庁で最も偉い人。
「す、皇さんっ! お疲れ様ですっ……!」
赤茶色の長い髪が特徴的な彼女は、警視庁の階級の中で最も高い階級である警視総監。皇千弦だった。
岬と同じタイミングで違うエレベーターから降りてきた千弦は、岬の存在には気づいていなかったようだが。気づかれていなくても、目上の人に挨拶をするのは当たり前。警視総監となればなおさら。出入口の方へ向かおうとする千弦に、岬は苗字を呼んだ上で挨拶をした。
「……お疲れ様。清水」
言葉をかけられたのに気づいた千弦は、ゆっくりと岬が居る方に振り向くと、目線を合わせて労いの言葉を呟く。警視と警視総監という立場の2人は、普通ならばあまり関わることが無さそうだが。この2人に限っては、どうやら関わりを持っているようであった。
それもそのはず。正義執行人に関する業務を岬に託しているのは、警視総監である彼女なのだから。そんな大事な業務を、なぜ警視という中間管理職程度の立場の人間に任せているのか。これには明確な理由があるのだが……それについてはまたいつかの機会に。
「パトロール……じゃ、なさそうね。日勤なのにこんな遅くに帰るの?」
自分と同様に出入口の方向へ進もうとする岬を見た千弦は、一瞬で岬の姿等から状況を推察して質問をする。こういった瞬時に出てくる洞察力・考察力こそが、彼女が警視総監である理由なのかもしれない。
一瞬で自身のことを見抜かれると、思わずゴクリと息を飲んでしまいながら返答をする。
「……そう、ですね。つい先日の、ヴェルデ財閥の件の報告書を作成したりしていて……」
「立て込んだりしたら、私に回したり相談してもいいのよ。正義執行人についてで話をできる人間なんて、限られてるでしょう」
「いえ、そんな……! 恐れ多い……」
一緒に警視庁から出ていきながら、話をする両者。千弦も同様に、気遣いができる、善意の優しさを持っていた。その優しさが素の性格から出たものか、それとも人心掌握のために作られたものなのか。それは、言葉をかけた千弦本人のみぞ知る。
警視庁を出ると、地下の駐車場の方には行かず、突っ切ってそのままどこかへ行こうとする千弦。車まで送ろうとしていた岬は、いったいどこに駐車しているんだ、専用の駐車場でもあるのだろうか……なんて思いながらついて行っていたが。明らかに駐車場には寄らないルートで外に出ようとする千弦に気づくと、そこでようやく岬は彼女に声をかける。
「あの、……車はどこに?」
「車なんて無いわ。毎日徒歩で通勤してるから」
「えっ」
さりげない千弦の返答に、思わず声を出して驚いてしまう岬。警視庁への通勤方法は、自家用車、もしくは公共交通機関がほとんどだと記憶していたが……。警視庁の長である千弦に関しては、そこからは外れた徒歩という通勤方法をとっているようだった。
「……恐縮ですが、車やバスを使わない理由とかって……?」
効率型の岬は、気になった。同様に効率を重視していそうな千弦が、なぜ徒歩で通勤するのか。
「…………そうね。清水。貴女、サウナは好きかしら」
「サウナ……? まぁ、温泉に行った時とかは割と入ったりしますけど……」
「サウナに入った後の水風呂は?」
「それもまぁ……」
質問を質問で返され、しかもその質問の内容は、割と不可解なものと来た。頭の中で疑問符を浮かべつつも、とりあえず千弦に聞かれたことに答え続ける岬。
「警視庁という、常に仕事仕事の、サウナのような暑苦しい空間。そこを出た後の車もバスも電車も、誰かに気を遣わなければいけないなんてことはザラにあるし、私からしてみれば全てまだ暑苦しい。警視庁を出た後の水風呂を求めて、行き着いた先の結論は────、誰にも気を遣うことなく歩いて帰る、ただそれだけのこと。ずっと効率を求めて、ずっと誰かに優しくしていたら、すぐ倒れてしまうわよ」
警視庁を出て、立ち止まって、岬と目を合わせた彼女は。滅多に見せない……というか、岬は見たことがない、自然な笑みを浮かべてそう呟いた。満面の笑みではないが、緩んだ頬を見ればわかる。その笑みが、作られたものではないということくらいは。
千弦の笑みにか、千弦の言葉にか。どちらかはわからないし、もしくは両方に驚いたのかもしれないが。とにかく岬は、呆気にとられたような表情を浮かべる。
フリーズした岬を見た千弦は、岬に背を向けて、再度歩き出し始めた。
「……ぁ、…………お気をつけて!」
岬は、歩き出した千弦に気づくと、喉元まで「送りますよ」という言葉が出かかったが。それが千弦のためになるのかと考えてみれば、そうではないだろうと判断して。優しさから出てきた言葉を飲み込み、深くお辞儀をしながら見送りの言葉をかけた。
岬の言葉を背に受けても、千弦は振り向いたりすることがなく。手のひらを岬の方に向けて、ヒラヒラと少しだけ振って。そのまま、彼女にとって心地よい水が張られた道を歩いていった。