鈴佳の見舞いが終わり、昼過ぎの時間帯になった頃。1日中病室に居るのはまぁナシ、岬は警視庁に行って仕事をすると言っているし……。仕事が入らない限りはヒマか、なんて思いつつ、一度自分が暮らしているめるの家に帰っていく杏樹。
病院からめるの家までは、およそ15分程度。あまり面倒ではない、ちょうどいい程度の走行距離だ。特に何も考えず、杏樹はバイクで駆けていく。まさかの出来事が待っているとは知らずに……。
「……ァ、そういえば……ご飯食べ損ねたナ〜。冷蔵庫になンかしらあればいいケド……」
家の前に到着すると、ふと杏樹は、自分が昼食を済ませていないことに気づく。基本朝食は抜くし、昼もガッツリ食べたりはしない杏樹だが……。起きてから5、6時間は経つ今、さすがに腹は減ってきた。
仕事が休みと言っていたとはいえ、そもそもめるが家に居るか居ないかはわからないが。居たとしても、わざわざ昼食を作らせるようなことはしない。作り置きしてくれてる、とかは別として。手軽にできるような物を杏樹はよくセレクトしがち。
「ただいまァ〜」
できれば、今日はもうこの扉を開いて家から出たり入ったり……というのはしたくないが。さすがに、仕事の1つや2つくらいは入りそうだし。それも叶わぬ願いになりそうだ……なんて考えつつ、杏樹はめるの家の扉を開く。
「…………ン」
洞察力に優れている杏樹は────。玄関に足を踏み入れた時点で、2つのことに気づく。
1つは、あまりめるの家ではしないような匂いがしている、ということ。これはまだ、新しいアロマグッズを置いたとか、そういうので説明がつくのだが……。問題は、2つ目のこと。なんと、明らかにめるが履かなさそうなスニーカーが、めるの靴の隣に置かれていたのだ。
まさか、めるに彼氏が……!? なんて直感的に思っていると、玄関からリビングに繋がっていく扉が開く音がした。
「……お、おかえり……」
その扉を開いたのは、当然と言えば当然であるのだが。家の主のめるだった。玄関で靴も脱がずに立ち止まる杏樹に近寄っては、目をしっかりと合わせたりもせず、いかにも気まずそうな雰囲気を帯びて言葉をかけためる。
汗をかいてはいないし、顔が赤くなったりしてはいないし……。決してそういった行為をしていたとか、そういうことではないのか、と思いつつ、杏樹はめるに質問をする。
「ナニ、彼氏でもできた?」
それは、あまりにも直球すぎる質問であった。杏樹らしい、杏樹だからこそできる質問の仕方だ。
ちゃんと物事をハッキリと断れる人物だから、押し切られる形で家に男を入れたりはしないだろうし。もし居るのが男ならば、その人物はめるの承認付きであるということ。
自分も女遊びは激しいし、それこそ恋人でもないのだし、浮気だ!! なんか思ったりもしないが。男を作るのは意外だな……と思っていると。めるが口を開いた。
「ち、違うんだけどね。……ちょっと、何も言わずに連絡あるまで外出てて欲しいかも…………」
余程杏樹に会わせたくない人物が中に居るのか、彼氏の存在は否認しつつも、めるは杏樹に一度外に出ていてほしいと伝える。
「別にイイケド〜……、誰?」
杏樹には一刻も早く外に行ってほしそうなめるだったが……。杏樹も、そこまで空気が読める人間ではない。推測がつかないからと、いったい誰が中に居るのか、杏樹はめるに問う。
「……えーっと。それは〜……」
問われてもすぐに答えたりはせず、逆に、眉間に皺を寄せて答えるのを躊躇し始めためる。……会わせたくないどころか、言うのも躊躇うほどの、そんな人間が中に……? 彼氏じゃないならば……友達? 元彼? 職場の人? ……さすがの杏樹でも、本当に推測がつかなくなってきた。
めるの唸る声だけが響く玄関。────再度、リビングに繋がる扉が開く音がした。その音が聞こえた瞬間、うげっ、なんて顔を浮かべて、めるは扉の方を向く。
「なになに〜、隠し事なんて冷たくなぁい? める」
徐々に近づいてくる足音と共に杏樹の耳へと到達したのは……、なんと、めるを呼ぶ女性の声。
ボーイッシュなスニーカー。女ウケの良さそうな香水の匂い。めるの態度。それらから、中に居るのは男性だと錯覚していたが。まさか、女性だったとは……。なんて杏樹がぼんやりと考えている内に、声の主は早くもめるの背後まで到達してきた。
そこに現れたのは────。めると同じような水色の髪色をしている、着ている服も黒が基調でボーイッシュ風な女性であった。
「……この子は?」
目を惹かれるのは、首から上の全部分。女性の中じゃ短めな髪の割には前髪が相当重く、長さとしては目が半ば隠れてしまうほど。それに加え、あたかもめるに合わせたかのように被っている黒色のベレー帽と、ほんのりレンズ部分が赤みがかっているサングラス。個性が強いとは言えど、かなりオシャレなファッションである。
自身よりも一回り小さいめるの肩に顎を埋めながら、彼女は玄関に立つ杏樹が誰かと質問をする。
「……んっと、……この子は……」
「…………こンにちは。めるちゃンのお友達の、朽内杏樹ッて言いまス」
後ろの彼女をとても嫌がっている……というわけでもなさそうだが、厄介そうにしているというのも事実。今はとりあえずめるに協力してやるか、という感情の中、困った様子のめるに、杏樹は助け舟を出す発言をする。
「ふ〜ん。お友達と一緒に住んでるって珍しいね」
「え、…………言ったっけ……?」
「いや、言われてないけど。1人だけで住んでるっていう部屋の雰囲気じゃなかったし、鎌掛けてみただけ」
いつもは冷静沈着で、焦ったりもしないめるが……。わずか少しの言葉だけで鎌を掛けられ、情報を引き出されてしまう。もちろん、誰だってやろうと思えばやることは可能なこととはいえ。そういった雰囲気を全く見せずに質問をした彼女は、本当にいったい何者……??
「…………」
めるの態度や、めるのことを呼び捨てで呼んでいる点から考えれば、彼女はめるの知人であると考えるのが一般的なのであろうが。めるが平気そうな演技をしているという線も捨てきれないし、彼女がどんな人物かはわからないし。こりゃ警戒しておいて損は無いなと、無言のまま彼女にやんわり殺気を浴びせてみる杏樹。
「……別に〜、めるが友達と一緒に住むことを反対するとか、そんなわけじゃないよ? なんか隠してるなぁって、気になってただけだし」
杏樹から殺気が滲み出てきた、ちょうどその瞬間。超がつくほど至近距離であっためるの背後から離れては、ニッコリと毒のない笑みを浮かべて彼女はそう呟く。
少しでもビビらせようと思ったが……。タイミングが悪かったか、と思って浴びせようとした殺気を杏樹が引っ込めると。めるの前方……杏樹の目の前に出てきて、笑顔から一転、なんだか申し訳なさそうな表情を浮かべる彼女。
「とはいえ……一緒に住んでる朽内さん? には初対面で失礼な態度を取っちゃった、申し訳ない」
「ァ〜……、イエイエ。気にしなくても……」
……なんだか、表情がコロコロと変わって、掴みどころがなくて。まるで、どこに行くか全くわからない、空にぷかぷか浮かんでいる雲のよう。彼女を目の前にした杏樹は、心の中で静かにそう感じる。
感情を馬鹿正直に表現する人間なのか。はたまた、本心を隠すために感情を上手く利用するような人間なのか。適当な返事をしながら、杏樹が心の内で静かに彼女を疑っていると……。
「自己紹介も遅れちゃったけど、ひとまず……。私は琴崎
目の前の彼女改め紫雨は、名前を名乗ると共に、自身がめるの姉であることを明かして。開いた右の手のひらを杏樹に差し出した。よろしくという言葉と同時に差し出されたその手のひらが、何を意味しているのか。杏樹は知っていた。
お前を信用しているぞ、という意味合いを持つ握手。ビジネスの場や外交の場でよく使われるのが握手だが。プライベートの場で求めてくる人間なんか居るのか……なんて不思議に思いはしたが、めるの姉であるのならば断る筋合いもないしと、警戒心を無くして握手に応える杏樹。
「めるちゃンにお姉ちゃンが居るのは知ッてたケド。急に来るとは思ッてなかッた」
「私も。急にお姉ちゃんが来たから連絡するの忘れてたし……」
めるの家族については度々本人から話を聞かされていたし、姉の存在についても、なんとなく知ってはいたが……。着ている服の系統が真逆すぎるからか、杏樹は言われるまで気づくことができなかった。めるは可愛い系で紫雨はボーイッシュ系だからタイプは真逆、オマケに顔もあまり見えないと来ているし、気づけないのも仕方なくはあるが。
よく見れば……、顔はかなり整っている、というか、結構な美形。服がボーイッシュスタイルだから当然なのかもしれないが、一目見て可愛らしさを感じるような顔ではなく、男性であると言われても信じてしまいそうな顔だ。
女性であり顔が整っていれば、正直誰でも抱ける自覚がある杏樹。もちろん紫雨も、その抱ける人間の内の1人。こりゃ狙う価値はあるぞ……なんて思いながら、そろそろ頃合だと思って杏樹は手を離そうとする。
「…………、そんな長く握手する?」
しかし。もうそろそろ手を離してもいいのではないかといったタイミングになっても、杏樹と紫雨の手は繋がったまま。
見かねためるは、2人がふざけていると認識したのか、ツッコミのような言葉をしばらくしてから入れる。
「……いや。……離れなイ」
めるの言葉を聞いた杏樹は。珍しく額に汗を浮かべ、目を若干見開きながらそう呟いた。
紫雨の握力が特別強く、力負けしていて離すことができない……というわけではない。右手をただ握られている、その事実に変わりはないが。なにか、手ではなく筋肉を掴まれているというか、骨を掴まれているというか……。手ではなく、手という体の一部の芯を掴まれているような感覚。そのような気持ち悪い感覚によって、杏樹は紫雨の右手を離せなくなっていたのである。
「朽内さん……否、杏樹ちゃん。君とはどこか気が合いそうな感じがする」
握手をする以前までの、どこかおちゃらけたような雰囲気はどこへやら。空いている左手でサングラスを手に取って、喜怒哀楽なんの感情もない表情になると……。
「──────ッ」
右手は紫雨に握られた、というより掴まれたまま。驚愕したような顔を浮かべて、段々、段々と足元に崩れ落ちていく杏樹。
なぜ自身が崩れ落ちていくのか、杏樹は理解はできなかった。目の前に居る紫雨に、たかだか右手を掴まれている、それだけのはずが────。表すのなら、自分の真上だけ重力が何百何千と倍になっているかのような。想像しにくいのなら────、力士が何百何千人と集まって、一斉に自分を押し潰そうとしているかのような。
「……、ッ……」
杏樹は、そんな感覚に、ただひたすら潰れていく。その圧に抗う術はない。自分の知らない技術、力を押し付けられ────。
背中に冷たい玄関の扉を、臀部にザラついた土間特有の感触を感じながら。杏樹は、完全に屈した。未知の領域を往く、紫雨の謎の能力に。
「…………ちょ、ちょっと……!! 何してるの!」
戦い……なのかはわからないが。まさか、同居人と実の姉が戦うことになるなんて思ってもいなかっためるは、杏樹が完全に玄関に崩れてしまってから、急いで紫雨を押し退けて杏樹を庇うような体勢を取り始める。
いつの間にか離されていた杏樹の右手には、まだ温もりが残る。強く握られた後に残る独特の痺れている感覚や、痛いといった感覚はそれほどない。未知の攻撃を受けた杏樹は、めるに庇われながらも、紫雨をジッと見つめる。
「はは、挨拶だよ挨拶。一種の愛情表現みたいなもん」
杏樹とめるの両者に見つめられている紫雨は、軽い笑みを浮かべながら、意味のわからぬ言葉を発する。
「……ほんと信じられない……。杏樹、大丈夫?」
「……ン〜。なンとか。フツーに内臓全部潰れたかと思ッた」
めるに大丈夫かと問われると、冷や汗をかきながらも、いつもの調子を取り戻して大丈夫だと答える杏樹。風邪を引いたり熱を出したりといったことは全然無いし、弱っている杏樹を見るのは、もしや人生初めてなのではないか。心配の最中、めるは薄々そう考えていた。
これがもし、紫雨がどこかしらに雇われている、自分を狙う人間だったなら。生きている確率はきっと、殺されていた確率よりも低いものとなっていただろう。
天狐の鐘や、フロガのミカヅキブレードもそうだが……。いわゆる初見殺し的な武器を持っている相手に対しては、やはり自分は弱すぎる。いったいどうすればいいものか……と、ぼんやり対策を考えながら立ち上がろうとする杏樹。まぁ、初見殺しはどうしても対策ができないから初見殺しと言われているのだが。
「ねぇめる〜、めるはなんで杏樹ちゃんと一緒に住んでる……ってより、住ませてるの? 色々探偵とか雇って調べてみたけど、結構危うい……というか。やばい寄りの人間だと思うよ」
立ち上がった杏樹を見た紫雨は後ろに下がっていき、家の壁に背中がついて寄りかかるような体勢になると、めるに言葉をかける。
紫雨は、知っていた。杏樹が、公言できないような仕事をしている人間である、ということを。正義執行人ということは知られていなくても、警察や特殊部隊等ではないのに事件を解決しに現れる人間ということは把握されている。それはつまり、杏樹の核心に迫っているといっても過言ではなかった。
「…………」
「もしも、脅されてて住ませなきゃいけない……みたいな状況にあるんなら、お姉ちゃんに正直に言ってみな? お姉ちゃんはいつだってめるの味方。責任もって追い出してあげるから」
杏樹を住ませているのには事情があるが、その事情はあまり話したくないし……。そう思って押し黙るばかりのめる。そんなめるに対して、紫雨は真面目な顔で質問をし続ける。
「……何も知らないンならァ、まだよかッたケド。色々知ッてるみたいだシ、ただで帰すワケにはいかなくなッちゃッたネ」
急に来訪しては好き勝手に言葉を吐き続ける紫雨を、杏樹が黙って見過ごすわけもなく。不満げというかイラついているというか、そういった表情を浮かべて、紫雨に言葉を吐き捨てる杏樹。
もしも紫雨が何も知らない状態で杏樹に出ていって欲しいという意思を表明していたのなら、それはそれで黙って従うという道もあったのかもしれないが。自分のことについて探られているのならば、話は別。めるの親族ではあるし、殺す……までは行かずとも、口止めになる程度の制裁くらいは加えねばならない。
「……詳しくは言えないけど、杏樹を住ませてるのには理由があるの!!」
まさに一触即発状態、いつどちらが手を出してもおかしくないような空気の中。2人に挟まれているめるは、とてつもないプレッシャーを両側から受けながらも、勇気を出して紫雨にそう伝える。
「…………う〜ん。……じゃあ、めるには選択肢をあげようか」
だから、その理由を詳しく話してくれなきゃ判断ができないじゃないか────。とは、若干思ったが。そんなに言いたくないのであれば、きっとそれ相応の理由があるのだろうし。
なにより、可愛い可愛い妹が少しぷんすこしているのが可愛すぎて。紫雨は、選択肢を与えるという甘さを出してしまった。
「1つは、今この場で杏樹ちゃんと私がルールを決めて……もしくは、ルールも何もない状態で戦いをして。勝った方がめると一緒に住む」
紫雨が提示した1つ目の選択肢は、杏樹と紫雨が何らかの方法で戦闘して、戦闘に勝利した方がめると一緒にこの家に住むというもの。
両者が合意するのであれば、じゃんけんで勝負をつけるのも、腕相撲で勝負をつけるのだっていいし。もしくは、ルールを決めずに殴り合いや殺し合いを行って、相手を戦闘不能にする戦いで勝負をつけるのも有効。どちらにせよ、その選択肢を取れば、杏樹と紫雨が何らかで戦うということは確定なのであった。
「……も、もう1つは……?」
杏樹ならば……並びに、紫雨ならば。その選択肢を取った瞬間に殺し合いを始めたりしてもおかしくはない。確実にもう片方の選択肢を選びたいという思惑の中、めるはごくりと息を呑んでから紫雨に問いかけた。
「もう1つはね〜……。杏樹ちゃんはここに住んだままでもいいけど、私もここに住んでめるを守るって感じ」
「…………!?」
「?」
2つ目の提案を紫雨から聞くと、めるも杏樹も、思わず困惑してしまう。
戦って決めるよりかは、確実にこちらの方がいいのであろうが……。もしも2人から3人の生活に切り替わるのだとしたら、生活費とか食費とか諸々が更に増えてしまう。紫雨がどんな仕事をしてるのか、そもそもどこに住んでいたのか、金は持っているのか……等も分かっていないし。今一概に結論を出すことは、めるにとっては難しいことであった。
「どうする? 戦争か、もしくは共存か」
不敵な笑みを浮かべながら、紫雨はそう呟いた。
自分自身だけで判断するのもなんだしと思っためるは、杏樹に確認の言葉を取ろうとする。
「…………杏樹は、もしお姉ちゃんが一緒に住むってなっても大丈夫なの……?」
「ン。……まァ、面倒ごとは避けたいシ。ソレでこの場が収まるンなら」
「……決まり、でいいかな?」
平和を望むめる、面倒ごとは避けたい杏樹。そんな2人の会話を耳に入れた紫雨は、戦う可能性が無くなったからと、左手に持っていたサングラスを再びかけ始める。
こうして────。これまででも異常だった同居生活が。世にも奇妙な、3人での同居生活へと変貌するのであった。