東の国の国花選定師だという女性は、国に夫と娘を置いてやってきたと語った。とんでもない母親だ、とリナリアは思ったが、同時に自分の母よりはましかもしれない、と思う。母はこの島を売って、その後どうなったか知らない。島を逃げ出してから、二度と顔を見ることはなかった。父は、人間から自分を庇って死に、拷問の末に自分はやっとこの島へ戻ったのだ。
それだけ苦労を重ねたというのに、この女は易々と島に入ってきた。毒が効かない、幻覚を見ない。つまりそれを避ける能力を持っているか、知識がある。そうなれば、国花選定師と言われても驚きはしなかった。
女は、リナリアの過去を聞いて、この国の素性を知った。今でこそ海軍と漁業を中心に出来上がっている国だが、実際に国の中枢を掴んでいるのは人魚と人間の間の子。その血筋たち。リナリアはこの島に居ながら、国を支配することに成功していた。
しかし、それを聞いても女は特に気にすることはなく、純粋にこの島にある植物のことなどを尋ねてくる。妙な女だと思ったが、植物に対する気持ちや考え方は真っ当なものだ。本来の国花選定師はこうあるべきだ、とリナリアさえも思うほどである。
リナリアの家でお茶を飲み、植物を調べた女は、数日でこの島を出て行った。出て行ったが、その時、同行者をここに置いて行った。船は女が乗って行ってしまったので、同行者は本当にここに置いて行かれたのだ。しかしそれは彼自身が望んだこと。人魚との間に産まれたリナリアに恋した男だった。
リナリアは人間が嫌いだった。捕まって拷問を受け、死にそうなことを繰り返しされて、今がある。島に戻ることができたからよかったものの、あのままならきっと死んでいたか、最悪頭が狂ったまま、死ぬも生きるもできなかったかもしれない。実際、人魚の血によって再生能力が高く、長く死ねない者も多かったのだ。
繰り返される人体実験や拷問。しかし死ねない体。そして狂う精神。精神的に狂って廃人となる者も多く、リナリアはそれを見ても人体実験や拷問を繰り返しできる人間の精神を疑った。
だから、女が勝手にこの男を置いて行ったことに腹を立てた。きっとこの男は自分を手に入れたいが為に残ったのだ、と思ったから。見た目が美しいリナリアを気に入る異性は多い。しかし彼女の肌はまるで剃刀のように、鋭利な鱗に包まれている。だから触れ合うことなど不可能だった。だから恋を知らなかった。
愛は、父が命を捨ててでも教えてくれたので知っている。しかし、それは我が子を愛する親の愛であって、異性との恋ではなかった。だからこそ、この男が残されたことが不愉快でたまらなかった。
しかし、女の置手紙を読んで、少しだけ気持ちが穏やかになるのを感じた。男は病の為に、もってあと数ヶ月の命だという。その数ヶ月をこの美しい島で、リナリアと過ごしたい、と言ったらしい。
あと数ヶ月の我慢。長い月日を生きてきたリナリアにとっては、瞬く間のこと。だから彼女は我慢することにした。
あと数ヶ月の命の男。その男を見て、リナリアは我慢するしかない、と思いながら久しぶりに他者と過ごす時間を味わった。自分にとって、この時間は長くはないはずなのに、気づけば日常になる。男はよく笑って、よく話しかけてくれた。そして、リナリアを愛してくれた。初めての恋、それを彼女は笑顔と一緒に覚えている。
やがて彼は病が進行し、夕日の海岸で息を引き取った。しかしリナリアは、彼の死を受け入れられず、悩み抜いた末に、その遺体を開きその中を苗床として我が子を置いた。全身を鱗で包まれた自分では、子を産めない。だから死んだ愛する人の腹を開いて、自分の胎から卵を出し、子どもを置いたのだ。
駄目でも構わない、と思っていたが、こんな時に人魚の血は作用する。死んだ男の腹の中で、我が子は生きた。だからこの子が生まれる日まで、リナリアは男の遺体に管をつなぎ、栄養を与え、生かした。我が子の苗床となるように。
死体は、まるで妊婦のように腹が大きくなった。その中で我が子は順調に育ち、人間の半分の月日で産まれ出た。彼によく似た男児は、人魚の血で生かされたにも関わらず、人魚の特徴はなく生まれている。けれども、リナリアには分かっていた。自分ではこの子を育てられない。鱗に包まれた手では抱き上げることも叶わず、冷たい乳房からは乳の一滴も出ないのだ。
だから、この子は次の国花選定師とする。海に流し、拾い上げられ、人間の手で国花選定師になる。ついにリナリアの思い描いた国ができあがる。
両腕に布を巻きつけて、我が子を抱き上げ、小さなかごに入れた。本来なら別の子が国花選定師になる予定だったが、それを無視して我が子を海に流す。流すつもりで浜辺に立って、海と我が子を見て、リナリアは吼えた。大粒の涙を流し、国を呪い、父母を呪い、自分の運命を悲観的に思う。我が子さえ抱き上げられない自分。それがなぜこんなに長く生きるのか。
この子は。
幸せになって欲しい。
国花選定師になんて、ならなくていい。
でも生きる為には、この子が生きていく為には、国花選定師になるしかないのだ。震える手で海に流し、たくさんの海の花も流した。海の花は死んだ仲間への手向けであったが、今は違う。我が子を早く見つけてもらう為。
しばらく、リナリアは国花選定師の子どもが引き上げられたという話を待ったが、いつまで経ってもその話は来ない。まさか、我が子は海に沈んだのではないか、と思った。不安な思いのまま、夜の海を渡り、人間の住まう家を1つ1つ見ていった。国花選定師になる子を流す時は、海軍が来ている時と決めている。そうすればすぐに見つけてもらえるから。しかし今回はまだ見つかっていない。死んだか、誰かが隠しているか。
リナリアは我が子を隠している誰かがいると思い、人間の家を1つ1つ覗いて行った。ずぶ濡れの体を引きずって、濡れた髪をそのままに、真夜中に紛れた。そして、彼女は見つけたのだ。愛しい我が子が、大事そうに抱かれて眠るのを。
彼女の願いは通じていたのか。まさかこんなことが起きるなんて。女の手の中で、我が子は眠る。その寝顔の愛しいこと。リナリアは、長く生きて失い続けた感情を取り戻した。たった1年が、彼女の300年に勝る。それはそこに愛があるからだった。
この子の幸せを願うなら、このままにしよう。
たとえこの国に国花選定師がいなくなり、国が倒れてしまったとしても、あの子は幸せを味わって死ぬことができる―――
リナリアは、メインの顔を見た。あの女によく似ているじゃないか、と思ったが癪だったので言わないことにする。
「さあ。同行者なんて、いたかしら。大した男じゃなかったから、忘れてしまったわ」
「……そうですか」
「私にとって、人間の生き死になんて一瞬のことよ」
人間にされてきた繰り返しの苦痛に比べれば、人間の生死など、リナリアにとっては一瞬のことなのだ。クイードはこの国をどうにか変えなければ、セインまで巻き込まれることが分かっていた。
「この島に来て、この島で死んだ男はあの人だけね……」
「リナリアさん……」
「一瞬のこと。そうね、長く生きすぎたのね、私も」
遠くを見つめるリナリアは、静かに何度か瞬きをした。その瞬きの瞬間に、人は死に、産まれていく。人魚の血とはそういうものだった。
「何の話だったかしら。そもそも、あなたたちは、なぜここに来たの?海の花なら、好きなだけ持っていくといいわ。そろそろ枯れ時だしね」
「え!枯れちゃうんですか!?」
「花ですもの。枯れるに決まっているでしょう」
「あの、種とか実とかはどうなっているのでしょうか!!」
「あれは海の中に種が落ちるのよ。知らなかったの?」
「母の手記には、そのあたりのことが残っていなくて!」
途中まで人情話ではなかったのか、と男性陣は思った。メインはそんなことすっかり忘れて、海の花のことを熱心に聞いているのであった。