巻ノ四十三 幸村の義
大谷は幸村に語った、彼のその義を。
「真田殿の義を言葉一つの義と言いましたが」
「仁義や信義、忠義ではなく」
「そうです、真田殿はそうした義を全て含めた大きなものとしてです」
「義をですか」
「持っておられると思います」
「ではその義はどういったものか」
「人かと」
幸村のその目を見ての言葉だった。
「人としてのあり方です」
「それがそれがしの義ですか」
「そう思いまする」
「それがしは四書五経も読み」
儒学にあるそれをだ、幸村はこうした書や老荘、法家の書等学問の書も広く深く読んでいるのである。これも彼の強みである。
「義を考えていましたが」
「その義がです」
「人としてのですか」
「あり方だと思います」
「間違ったことはです」
「簡単に言えばそうなります」
幸村を見続けながら言う。
「それがしの思うところですが」
「そうですか」
「真田殿の義は人としてのあり方なのです」
「それを貫く」
「それがあるべきお姿でありです」
「それがしの歩くべき道ですか」
「そう思いまする」
まさにというのだ。
「それがしは」
「そうですか、それがしの義は一文字で」
「人としてのあり方です」
「儒学の教え全てですか」
「儒学で言うとそうなります」
また答えた大谷だった。
「儒学は人のあり方を説いていますが」
「その人のあり方がそれがしの義」
「非常に大きなものです」
「それがしはその義に生きる者」
「ですからそれがしと絆が出来てもです」
それでもというのだ。
「その義を守られて」
「大谷殿をですか」
「それがしのことはお考えなきよう」
こうも言うのだった。
「義のことをお考え下さい」
「それでもいいのですか」
「それがしが義に逆らっていればです」
「その時は」
「義をお選び下され」
是非にという言葉だった。
「それがしを選ばずに」
「大谷殿と絆が出来ても」
「絆よりもです」
「義はですか」
「大事なので」
だからだというのだ。
「それはです」
「それがしに従わずに」
「そうです、お守り下され」
「義を」
「それがし間違うつもりはありませぬが」
大谷もこう考えてはいる、人してだ。
「人のあるべき姿は」
「忠義、信義、仁義は」
「この三つの為にです」
生きているからこそというのだ。
「何があっても、しかし」
「間違えれば」
「その時はです」
「大谷殿ではなく」
「義をお選び下さい」
「そうしてもいいのですか」
「そうしてもらいたいのです」
こうしたことを言うのだった。
「お願いします」
「しかしです」
ここでだ、幸村は大谷に返したのだった。
「大谷殿が間違っていなければ」
「その時はですか」
「大谷殿と轡を並べていいですか」
「それがしが間違っていなければ」
「はい、そうして宜しいでしょうか」
「ですか、それがしに義があれば」
大谷は幸村の言葉を受けてだ、まずは。
瞑目してだった、深く考える顔になり。
それからだ、こう彼に言ったのだ。
「ではその時もです」
「大谷殿に義があった時も」
「お願いします」
「大谷殿は間違える方ではありませぬ」
彼のその目を見ての言葉だ、確かに澄んでいてしかもこれ以上はなく強い光を放つ実にいい目をである。
「ですから」
「では真田殿のそのお言葉に応えて」
「そのうえで」
「生きまする」
「そうされますか」
「義を守り」
そしてというのだった。
「そのうえで生きまする」
「間違えることのなきよう」
「真田殿にお応えして」
「そうですか」
「必ず」
こうしたことを話してだった、そのうえで。
大谷もまた茶を飲んだ、無論彼が淹れた茶だ。その茶を飲んでそしてだった、彼に今度はこうしたことを言ったのだった。
「こうして茶を飲んでいますと」
「何かありましたか」
「はい、よく関白様や石田殿と共に飲みますが」
「今もですか」
「特に石田殿とです」
彼と共にというのだ。
「飲んでいますが」
「そのことをですか」
「思います、茶はいいものです」
実にというのだ。
「味もよいですが飲みながら語れます」
「色々なことを」
「だからです」
それ故にというのだ。
「これ以上いいものはありませぬ」
「そこまでお好きなのですな」
「実に」
非常にというのだ。
「茶とその場も」
「その両方を」
「好きなのです」
「そうですか」
「ですからまたです」
「こうしてですな」
「共に飲みましょう」
「是非共」
こうしたことを話してだった、そのうえでだった。
二人は茶も楽しんだ、その茶が終わってだった。
幸村は大谷と共に茶室を出た、すると。
笑顔でだ、十勇士達が二人を出迎えて言って来た。
「おお殿」
「お久しゅうございます」
「いやいや、ほんの少し茶室の中にいただけでな」
笑ってだ、幸村は彼等に応えて言った。
「久しくはないぞ」
「それはそうですが」
「我等常に共にいますので」
「だからです」
「隣の部屋にいれば」
「そう思ってしまいます」
どうしてもというのだった。
「それで、です」
「我等はです」
「こう言ってしまいました」
「久しいとです」
「そうであるか」
そう言われてだった、幸村も納得した。そして。
大谷は主従を見てだ、微笑んで言ったのだった。
「強いですな」
「我等の絆は」
「はい、何よりもです」
まさにというのだ。
「強いですな」
「大谷殿から見て」
「義兄弟でもですな」
「はい、あります」
こう答えた、幸村も。
「我等は」
「主従であると共に」
「友であり」
「義兄弟です」
その通りというのだった、彼等も。
「ですから」
「我等の絆は絶対です」
「死ぬ時は共にです」
「そう誓い合っておりまする」
「見事」
彼等の言葉を聞いてだ、大谷は感銘の言葉で応えた。
「それもまた義」
「ではこの義をですな」
「我等は貫き」
「そうして生きるべきですな」
「如何にも」
その通りという返事だった。
「是非そうされよ」
「では」
「是非共です」
「そうさせて頂きます」
「殿と常に共におります」
「その様に。真田殿はよき義兄弟をお持ちじゃ」
幸村にも言うのだった。
「そのことも忘れずにです」
「義をですな」
「貫かれよ」
「さすれば」
幸村も頷く、そうした話をしてだった。
大谷は幸村主従の前から姿を消した、そして場には主従だけとなってだった。幸村は十勇士達に話した。
「かなり有意義な話であった」
「はい、その様ですな」
「殿のお顔を見ますと」
「実にです」
「よいお話でしたな」
「そうであった、若しかすると」
こうも言う幸村だった。
「拙者はまたかけがえのない方と会ったのかもな」
「直江殿や石田殿と同じく」
「そして関白様と共に」
「あの大谷殿もですか」
「殿にとってそうした方ですか」
「そうも思った」
大谷と会い茶室でも話してというのだ。
「そして驚くべき話であるが」
「といいますと」
「それは」
「大谷殿は拙者に娘をとな」
「殿の奥方に」
「そうもですか」
「言ってこられた」
このことも話すのだった。
「これまで妻を迎えることはな」
「はい、殿もです」
「やがてはですが」
「しかしこれまでは」
「殿がお若いということもあり」
「そうした話はな」
とてもというのだ。
「考えてこなかったな」
「しかしですな」
「大谷殿からそう申し出てこられた」
「それならばですか」
「殿も」
「考えることとなった、だが」
幸村は家臣達にもだ、このことを話した。
「しかしな」
「はい、そのことはですな」
「武家の婚姻なので」
「当人だけでは決められませぬ」
「やはり何かとです」
「関白様、そして父上とお話をしてな」
そのうえでというのだ。
「決めることとなった」
「やはりそうですか」
「そうなりますな」
「では関白様、大殿とお話をして」
「そのうえで」
「大谷殿の娘御をな」
妻に迎えることになるというのだ。
「大谷殿はかなり乗り気であられるがな」
「ですか、ではそのお話がまとまれば」
「殿も遂にですな」
「奥方を迎える」
「そうなりますか」
「どうも信じられぬがな」
幸村はぽつりと本音も漏らした。
「拙者が女房を迎えるなぞ」
「まあそれはです」
「何時かは必ずですから」
「殿も奥方を迎えられてです」
「家を持たれ」
「そして跡継ぎをもうけられる」
「そうなりますぞ」
十勇士達は幸村に笑って話した。
「ですからこれは刻限です」
「その旬が来たのです」
「なら是非です」
「ご婚礼を」
「関白様と父上のお返事次第じゃな、しかし拙者が妻を迎えると」
幸村は十勇士達も見て言った。
「御主達もとなるな」
「我等もですか」
「女房を迎え」
「そしてですか」
「家を持てと」
「御主達も武士じゃ」
幸村の家臣であるれっきとしたそうした身分であることをだ、幸村は彼等にここであらためて言った。
「だからな」
「家を持つべきですか」
「そう言われますか」
「確かに我等は生きるも死ぬも同じ」
このことは絶対としてもというのだ。
「しかしな」
「家はですか」
「持つべきですか」
「そうあろう、だからな」
さらに言う幸村だった。
「御主達もじゃ、そろそろ女房を迎えるべきじゃな」
「十人共ですな」
「皆」
「そう思うがどうじゃ」
十勇士達自身に問いもした。
「このことは」
「ううむ、そうですな」
「そう言われますと」
「それがし達もです」
「これまで考えてこなかったので」
「ですから」
「今すぐ答えを出さずともよい」
こうも言った幸村だった。
「そうした話ではないからな」
「徐々にですな」
「我等は考え」
「そしてですな」
「やがては」
「そうじゃ、共にじゃ」
まさにというのだ。
「過ごす者達をな」
「得る」
「そうしますか」
「そうせよ、そして生きるのだ」
夫婦でもというのだ。
「それが必ず御主達の力にもなる」
「では」
「上田に戻れば」
「その時にですな」
「我等は皆」
「そうなるな、まあゆっくり話していこうぞ」
このことはというのだった、そうした話もしたのだった。大坂城において。そしてその話をしてからであった。
幸村主従は大坂城を後にしてだった。上杉家の屋敷に入り。
そこでだ、兼続に共に酒を飲む場でこう言われたのだった。
「今日は大きな日となりましたな」
「はい」
幸村は兼続にすぐに答えた。
「まさに」
「左様ですな」
「関白様にお会いし」
「そして大谷殿とも」
「大谷殿に言われたことですが」
「はい、それはです」
兼続は笑みを浮かべて幸村に答えた。
「まさに刻限です」
「直江殿もそう言われますか」
「だからこそです」
「大谷殿に言われた」
「左様です」
まさにそうだというのだ。
「ですから」
「このことはしかとですな」
「お考えになられるべきかと」
兼続は酒を飲みつつ静かに話した。
「真田殿も」
「やはりそうですか」
「はい、このことは関白様にです」
「父上にですな」
「お話がいきますが」
「どうなるかというと」
「順調に進むと思います」
こう言うのだった、彼も。
「そして真田殿はです」
「家を持つことになりますか」
「おそらくは」
「左様ですか」
「はい、そしてです」
「妻を迎え」
「それからです」
まさにというのだった。
「真田殿はあらたな一歩を踏み出されます」
「人としてですな」
「そうなります」
「人は家を持ちですか」
「そうです、妻を迎えてです」
そしてというのだ。
「そこからまた新たな一生がはじまります」
「一人から二人になり」
「そして子を迎え」
「そのうえであらたにです」
まさにというのだ。
「人は一生をはじめるのです」
「そうなのですね」
「ですから是非です」
「妻を迎えて」
「新たな人生にも励まれて下さい」
「さすれば」
幸村も兼続のその言葉に頷く、そしてだった。
彼もまた酒を飲みだ、こう言ったのだった。
「大谷殿にもお話しましたが」
「何とでしょうか」
「はい、妻を迎えるなぞ」
「信じられませぬか」
「とても」
実際にという言葉だった。
「それがしが」
「むしろ真田殿は遅いかと」
「妻を迎えるには」
「もう家を持っている者も多いお歳です」
今の幸村の歳でというのだ。
「ですから」
「女房を持つことも」
「特に思われることはありませぬ」
「修行中の身でもですか」
「人は生きている限り修行です」
また笑ってだ、兼続は言った。
「それはです」
「だから修行中だからと言って妻を迎えぬのは」
「仏門ならともかくです」
「武士はですか」
「はい、その時が来ればです」
「妻を迎えるべきですか」
「それがしはそう思いまする」
幸村に淡々として話した。
「武士は家によって成る一面もありますので」
「それは確かに」
「大谷殿は立派な方です」
その娘の父親である彼のこともだ、兼続は話した。
「羽柴家の家臣の方々の中でも」
「石田殿と並んで」
「はい、それにです」
兼続はさらに話した。
「娘殿は才色兼備とか」
「どちらもですか」
「備えている女御とのことなので」
「妻に迎えてよいと」
「是非共です」
妻に迎えられるならばというのだ。
「あの方をお選び下さい」
「さすれば」
幸村は兼続のその言葉に頷いた。
そしてだ、共にいる十勇士達を見つつ兼続にこうも言った。
「そしてこの者達にもです」
「奥方をですか」
「そう考えていますが」
「よいことですな」
兼続は幸村のその言葉にも笑って応えた。
「やはり武士ならばです」
「家をですな」
「持たねばなりませんから」
「それ故に」
「家臣の方々もです」
その十勇士達もというのだ。
「奥方を持ち」
「そしてですな」
「お子ももうけられるべきです」
「そうなりますな」
「よいお考えです」
幸村のその考えにだ、兼続は再び賛意を述べた。
「是非そうすべきです」
「さすれば」
「しかしそれがしと伊佐は」
ここで言ったのは清海だった。
「一応仏門にありますが」
「そうです」
伊佐も言う。
「破戒しておるにしても」
「破戒なら問題なかろう」
その二人に猿飛が言う。
「別にな」
「そもそも一向宗でもじゃ」
根津はこの宗派を話に出した。
「坊主でも女房を迎えておるぞ」
「そういえば出家された方でもな」
穴山は世間によくいる出家した者達の状況に言及した。
「普通に奥方がいたりするな」
「信玄様にしろそうであったな」
由利は真田家の主のことを思い出した。
「出家されても奥方がおられた、側室の方々もな」
「公に持たずとも持っておる坊主も多い」
海野は所謂生臭坊主の話をした。
「今更じゃな」
「それに御主達は破戒しておるうえに今は士分」
武士であることをだ、望月は二人に言った。
「ならばよいであろう」
「二人に問題はない」
筧は己の見解を述べた。
「出家していても破戒しており士分なら還俗したのと同じ」
「法力はそうしたものでもあるまい」
妻帯とは関係がないとだ、最後に霧隠が言った。
「まして二人は肉も酒も常に楽しんでおるではないか」
「拙者も問題ないと考えておる」
幸村もこの見解だった。
「だから二人も話に含めておるのじゃ」
「その通りですな」
兼続も幸村と同じ考えであった。
「お二人も妻帯しても構いませぬ」
「今は士分故」
「破戒もしているからこそ」
「そう思いまする、それに肉食妻帯していても破戒されていても」
どうしてもというのだ。
「法力は別です」
「法力は修行で手に入れるもの」
「そうだというのですな」
「そうです、お二人は日々僧侶の修行を欠かしておられませぬ」
清海も伊佐もというのだ、実際に二人は法力の修行も怠ってはいない。清海はどちらかというと力技の修行の方が多いにしても。
「ですから」
「それで、ですな」
「我等」
「奥方を迎えられるべきです」
兼続は二人にあらためて言った。
「是非」
「それでは」
「殿の勧めでもありますし」
「それならば」
「我等も」
「そうされるべきです、では」
二人が頷いたのを見てだった、兼続は。
一同にだ、新しい肴を出した。その肴はというのと。
「これも召し上がって下され」
「おお、刺身ですか」
「大坂のすぐ前の海で獲れた魚をですな」
「刺身にした」
「それをですか」
「鯛です」
この魚だというのだ。
「とびきり大きな鯛が獲れたとのことで」
「それで、ですか」
「その鯛を刺身にして」
「そのうえで今ですか」
「我等に出してくれますか」
「そうです、さあ召し上がられよ」
その鯛の刺身をというのだ。
「これは美味いですぞ」
「確かに、身が違いますな」
「光ってさえいます」
「これは美味いですな」
「酒にも合いまする」
「大坂は魚が実によいです」
前が海に面しているだけにだ、それこそすぐに漁れる。
「では醤もありますので」
「はい、醤をかけ」
「そしてですな」
「この鯛の刺身を共に楽しみましょう」
「今宵は」
「酒もですな」
幸村は今も飲んでいる、そのうえでの言葉だ。
「これも大坂の酒ですな」
「左様です」
「大坂の酒は実に美味い」
「真田殿は酒がお好きですな」
「はい、特に焼酎が」
「ですな、では大坂の酒もです」
それもと言う兼続だった。
「お楽しみ下さい」
「今宵も」
「もう少し大坂にいますが」
「その間は」
「こうしたものを楽しみましょう」
刺身の様な新鮮な海の幸をというのだ、瀬戸内の。
「こうして」
「ううむ、どうしてもです」
幸村はその刺身を見つつ唸って言った。
「上田にいますと」
「生の魚はですな」
「川魚はいますが」
「生で食することはですな」
「真田家ではしませぬ」
決してという言葉だった。
「拙者も家臣達もです」
「川魚は虫がおります」
「だからです」
十勇士達も兼続に言う。
「海魚よりも多く」
「ですから下手に生で食べると後が怖いので」
「必ずじっくりと火を通して食べています」
「煮るなり焼くなり」
「それがよいですな」
川魚をそうして食べることについてだ、兼続もよしと答えた。
「川魚については」
「やはりそうですな」
「確かに魚は生で食べても美味いです」
その刺身等でだ。
「しかし少し時を置くと傷みますし」
「虫もいますので」
「川魚を生で食することは」
「迂闊にせぬのがよいです」
「そうですな」
「真田殿は三国志演義を読まれていますな」
ここでだ、兼続はこの書を話に出してきた。
「左様ですな」
「あの書ですか」
「はい、読まれていますな」
「大層面白い書ですな」
幸村は微笑み兼続に答えた、右手には杯がこれまで通りある。
「観ていて引き込まれます」
「左様ですな、その書で華陀という者が出ますな」
「あの医師の」
「あの医師の話で角の生えた虫を吐き出した者を治療する話がありますが」
「はい、魚を食い過ぎてその毒に当たったと」
「あれはどうした毒かといいますと」
「それこそがですな」
まさにとだ、幸村は答えた。
「川魚の虫ですな」
「それ以外には考えられませぬな」
「あの頃の明は生で魚を食することも多く」
「それで食していたのは川魚だったので」
「虫にやられましたな」
「やはりそうですな」
「食は楽しむと共に」
幸村は兼続に話した。
「身体を整えるものなので」
「医食同源ですな」
「漢方にありますが」
「だから生の川魚はですな」
「口にしませぬ」
決してというのだ。
「そして海の魚もです」
「大坂や海の傍の場所なら口にされますな」
「しかしそこを離れますと」
その海からだ。
「少しでも」
「さすればですな」
「生では口にしませぬ」
やはり決してという口調だった、幸村は。
「それは毒になりますので」
「やはり傷みやすいですな」
「魚ですので」
川魚と違い虫の怖さはないにしてもというのだ。
「そうしています」
「それがよいですな、ですから」
「大坂で楽しまれますな」
「そうします」
あくまで海やその傍でだけのことだというのだ。
「これからも」
「ですな、それでは上田に戻られても」
「そのことは守ります」
「それがいいですな、では」
「それではですな」
「この鯛も思う存分楽しみましょう」
「それでは」
こうしてだった、幸村達は兼続と共に刺身を楽しんだ。鯛のそれを。そしてその次の日だ、幸村主従は大坂の町を見回したが。
ここでだ、十勇士達は主にしみじみとして言った。
「いや、直江殿はです」
「いつも我等に優しくして下さいますな」
「何かと世話を焼いてくれて」
「親切にしてくれますな」
「とてもいい方ですな」
「まことに」86
「うむ、あの様な見事な方はな」
幸村も言う」
「中々おられぬ」
「お人柄もそうですし」
「そのご資質もですな」
「実に見事な方ですな」
「上杉家の宰相に相応しいですな」
「上杉家はおろか」
さらに言う幸村だった。
「あの方なら天下の宰相にもなれる」
「ですな、確かに」
「あの方は只者ではありませぬ」
「まさにです」
「一国の宰相の方」
「そこまでの方ですな」
「そう思う、あの方がおられるからこそ」
まさにというのだった。
「上杉家も安泰じゃ」
「あの方と主の景勝様」
「お二人がおられるからこそですな」
「上杉家は安泰ですな」
「謙信公にも比肩するであろう」
景勝と兼続二人でというのだ。
「まさにな」
「では上杉家は」
「あのお二人がおられるから」
「だからですな」
「安泰じゃ」
こう言うのだった。
「謙信公がおられた時と同じく、何があろうとも」
「それでもですな」
「家は残る」
「そうなりますか」
「絶対にな、お二人がおられると」
まさにそれでというのだ。
「かなりのものじゃからな、しかし我が家は」
「真田家はですか」
「我等の家は」
「拙者と兄上がおられるならな」
それならばというのだった。
「拙者が直江殿にならねばな、しかし」
「はい、殿はです」
「直江殿とはです」
「ご気質が違いますな」
「どうにも」
「拙者は宰相ではない」
こう言うのだった。
「そうした者ではな」
「殿は将ですな」
「師であると共に」
「政も出来ますが」
「どちらかといいますと」
「直江殿は政の方じゃ」
幸村は兼続のその資質を一言で述べた。
「戦も出来るがな」
「そちらの資質がですな」
「かなり強い方ですな」
「あの方は」
「左様ですな」
「それは石田殿、大谷殿もじゃ」
この二人もというのだ。
「政の方じゃ」
「戦よりもですな」
「そちらですな」
「そちらの方ですな」
「うむ、政の刀のじゃ、しかし大谷殿は」
幸村は彼のことを特に言った。
「政もじゃが石田殿以上に武もあるな」
「そういえば戦の場でも」
「大谷殿は結構にでしたな」
「戦われていたとのこと」
「石田殿や七将の方々以上に」
近頃秀吉の麾下で名を挙げている七人の将達だ。加藤清正、福島正則、加藤嘉明、黒田長政、池田輝政、細川忠興、蜂須賀家政の七人だ。
「勇敢であり強い」
「そうしたご活躍だったとか」
「武辺もお持ちじゃ」
大谷、彼はというのだ。
「その話も聞いておるし実際にな」
「ですな、お身体の動きがです」
「相当な武芸者のものでした」
「実際に槍を取ってもです」
「かなりの方ですな」
「お強い」
間違いなくというのだ。
「あの方はかなりのお強さじゃ」
「政だけでなく」
「武もお持ちですか」
「そうした方ですか」
「そう見る、拙者はな」
前を見据えつつ言う幸村だった。
「宰相にはなれぬ、しかし政もな」
「学び」
「そのうえで、ですか」
「よりじゃ」
まさにというのだ。
「そちらの資質も磨かねばな」
「ですか、では」
「これからはですな」
「政の書も読まれ」
「そちらにも励まれますか」
「そう考えておる、将であろうとも」
例えそちらの才の持ち主でもというのだ。
「しかしじゃ」
「それでもですな」
「上田の民の為に」
「政をですか」
「学び励まれますか」
「そうしよう、そして直江殿の様になれずとも」
それでもというのだ。
「必ずじゃ」
「助けられる様になられますか」
「真田家を」
「そして上田の地を」
「そう考えておる、やはり政じゃな」
こちらもというのだ。
「学ぼう、ではな」
「はい、それでは」
「我等も及ばずながら」
「その殿の力になります」
「殿の手足として」
「頼むぞ、しかし何度見てもな」
ここでだ、幸村は。
大坂城、町に囲まれたその城を見てだった。こう言うのだった。
「何度見てもとてつもない城じゃな」
「巨大で堅固で」
「関白様の城に相応しいですな」
「あの方に」
「実に」
「そう思う、これだけの城は他にはない」
この天下にはというのだ。
「小田原も凄いが」
「あの城よりも」
「さらにですな」
「見事な城で」
「天下の城ですか」
「関白様はよき城を持たれ優れた人をお持ちじゃ」
人材もいるというのだ。
「後は世継ぎの方だけじゃな」
「それが、ですな」
「まだ、ですな」
「あの方にはおられませぬな」
「側室も多くお持ちですが」
「それでも」
「子はな」
ここでだ、幸村は。
袖の中で腕を組みだ、難しい顔で述べた。
「やはり授かりものであろうな」
「神仏からの」
「そうしたものですか」
「うむ」
そうだとだ、十勇士達にも答えた。
「だからな」
「天下人であられても」
「そしてどれだけ優れた方でも」
「多くの富と権勢をお持ちでも」
「こればかりはですか」
「幾ら欲しいと思ってもな」
それでもというのだ。
「難しい」
「普通に得られる時もあれば」
「そうでない時もある」
「それが子というものですか」
「関白様程の方でも」
「子はかすがいという」
この言葉もだ、幸村は出した。
「そして万葉集にもあったな」
「子は、ですな」
筧が応えた。
「銀や金よりも尊い」
「うむ、何よりもな」
「ですな、確かにです」
穴山もこう言うのだった。
「子がいなくてはどうしようもありませぬ」
「羽柴家もですな」
海野は城を見ている、秀吉がいるその城を。
「それが悩みの種ですな」
「関白様の後」
望月は考える顔になって言うのだった。
「果たしてどうなるか」
「お子が次の天下人になられるにしても」
猿飛の言葉は瞑目している感じだ。
「果たしてどうなるか」
「関白様も不惑を超えられていますし」
伊佐は秀吉の歳のことを言った。
「そうそうお子は出来ませぬか」
「人間五十年」
霧隠は信長が愛した敦盛の一句を口にした。
「関白様もまた同じ」
「うむ、関白様に確かなお子が出来ねば」
根津も考える顔になっている。
「天下が定まっても次は危ういであろうな」
「関白様は大層おなごが好きでも」
清海は袖の中で腕を組んでいる。
「お子が出来ぬとはな、世の中はわからぬ」
「殿がいつも言われるが」
最後に言ったのは由利だった。
「まことにそうであるな」
「うむ、拙者もそれは同じ」
幸村も自分のことから言うのだった。
「やはり家を持ち子をもうけねば」
「天下には関わらずとも」
「それでもですな」
「家を続ける為に」
「お子は必要ですな」
「その通りじゃ、昨日大谷殿とお話をして痛感した」
まさにというのだ。
「ではな」
「はい、それでは」
「そのうえで、ですな」
「我等もまた」
「家をですな」
「持つべきじゃな」
十勇士達もというのだ。
「そして子をもうけるべきじゃ」
「それでは」
「上田に戻りまして」
「そしてですな」
「それからは」
こう話してだ、そのうえでだった。
主従は大坂も見てだった、そしてだった。
大坂を見て回ったのだった、今度は城を見るのではなく大坂の地をじっくりとだ。幸村は十勇士達と共にだった。
歩いてだ、こう言ったのだった。
「この地は平地であるがな」
「はい、川がですな」
「実に多いですな」
「しかし山が遠く」
「遠くを守るにはですな」
「適しておらぬ、だから戦になれば」
その時はというのだった。
「兵の数によるが」
「外で戦うには」
「その時には」
「相手とどう戦うか」
「それが肝心ですな」
「そうじゃ、籠城すれば確かに守りやすいが」
しかしというのだ。
「孤立しておるとどうじゃ」
「籠城に至らえると」
「それだけで、ですな」
「危ういですな」
「籠城は味方がおる時にするもの」
援軍が来る時にというのだ、確実に。
「しかしな」
「それがいないと」
「到底ですな」
「囲まれ続け」
「滅びますか」
「兵糧は尽きる」
何時かはというのだ。
「間違いなくな」
「ですな、確かに」
「兵糧は幾らあろうともです」
「必ずです」
「尽きまする」
「そうじゃ、だからな」
それでというのだ。
「大坂におってはな」
「くれぐれもですな」
「籠城はせずに」
「どう外で戦うか」
「そのことが肝心ですな」
「関白様はわかっておられる」
秀吉はというのだ。
「無論な」
「ですな、確実に」
「そのことはですな」
「だからですな」
「あの方は外で戦う」
「そのやり方もご存知ですか」
「しかし大坂城の堅固さに頼ってばかりでおると」
この場合は心が、である。大坂城が難攻不落でありそこにいればそれだけでいいと考えていればそれでというのだ。
「それを見誤る」
「城の堅固さに」
「それに」
「そして滅ぶ」
そうなるというのだ。
「篭ってばかりではな」
「戦にですな」
「到底なりませぬな」
「思えば上田の戦でもでしたな」
「篭ってばかりではいませんでした」
「戦は城だけでするものではない」
こうも言った幸村だった。
「そのことは御主達もわかったな」
「はい、よく」
「それがし達もです」
「そのことはです」
「よくわかっておるつもりです」
「城だけで戦が出来ては何と楽か」
こうまで言った幸村だった。
「戦はそうしたものではない」
「だからですな」
「この度は外も見たのですか」
「大坂の地自体を」
「この地を」
「うむ、あらゆる地を見ておかねば」
それこそというのだ。
「戦にならぬ」
「勝てぬ」
「左様ですな」
「そうじゃ、勝つ為にはな」
まさにというのだ。
「そうしたこともわかってこそじゃ」
「では」
「大坂にいられる限りですな」
「この地のことも見ておきますか」
「時が許す限り」
「そうしようぞ」
こう話してだ、実際にだった。
幸村は大坂に留まる間大坂の地を見て回った、それも馬で遠くまで出たりしたうえでかなり徹底してだった。
そうして見てだ、そのうえで。
兼続にだ、こう言われたのだった。
「大坂の地も見ておられるとか」
「はい」
その通りだとだ、幸村も答えた。
「そうしています」
「地を学ぶ為に」
「ああゆる地を知ってこそです」
「万全に戦える」
「ですから」
この考え故にというのだ。
「そうしておりました」
「左様ですか」
「戦はその地も知ってこそなので」
「では大坂で戦になれば」
「大坂城だけで戦うものではないと思いまして」
「関白様の下で」
「はい、その時はです」
まさにというのだ。
「大坂で戦うことも考えて見ておりました」
「お見事です、やはり」
「地を知ってこそですな」
「万全に戦えます」
「どの地でどうして戦うのか」
「それがわかりますからな」
兼続も頷いて応えた。
「見ておられましたな」
「左様でした」
「では真田殿がおられれば」
兼続は微笑みだ、こうも言った。
「関白様は安泰ですな」
「羽柴家の家臣でなくとも」
「少なくとも羽柴家の敵になるおつもりはありませぬな」
「はい」
その通りという返事だった。
「それは」
「では、です」
「関白様はですか」
「真田殿がおられれば」
まさにというのだ。
「安泰ですな」
「ならいいですが」
「しかし」
「しかしとは」
「真田殿のお考えがわかる方ならいいですが」
「そうでない方ならば」
「そうした方が大坂城の主になられますと」
その時はとだ、兼続は難しい顔で言うのだった。
「危ういですな」
「大坂城が堅固であるからと」
「それにのみ頼られる方ですと」
「はい、その時はです」
「まさにです」
「その時は敗れますな」
例え大坂城にいてもというのだ。
「援軍のない城を囲めばです」
「もう負ける道理はありませぬな」
「間違いなくです」
それこそというのだ。
「勝ちます」
「そうなりますな」90
「どの様な城も」
「援軍なくして籠城すれば」
「攻め落とせます」
確実にというのだ。
「何なりと策を使い」
「そうなりますな」
こう二人で話す、そして。
兼続は不意にだ、こんなことを言った。
「それでなのですが」
「それでとは」
「真田殿のお考えですと」
「それがしのですか」
「小田原城もですな」
「はい」
幸村はすぐに答えた。
「確かにです」
「堅固であろうとも」
「援軍がなくです」
「囲まれれば」
「陥ちます」
そうなるというのだ。
「あの城も」
「決して陥ちない城はありませぬ」
兼続もこう言った。
「それはどの城も同じです」
「だからですな」
「はい、大坂城もまた陥ちまする」
「関白様はそのことはわかっておられます」
「間違いなくですな」
兼続はまた幸村に答えた。
「あれだけの城でも」
「それでは」
「はい、そのことがおわかりとは」
幸村を見てだ、兼続は言った。
「お見事です」
「どの様な堅固な城でも陥ち」
「そもそも籠城なぞせぬこと」
「それが第一ですな」
「そしてさらによいのは」
「戦をせぬこと」
幸村は兼続が思うことをだ、あえて先に述べた。
「左様ですな」
「百戦百勝は善の善にあらず」
「人を攻めるものです」
「それが上計ですな」
「城を攻めるのは下計ですし」
「その下計にもですな」
まさにとだ、兼続は言っていった。
「陥らぬこと」
「外で戦をするのもよくありませぬし」
「その中でも籠城を選べば」
「自らが滅ぶことをです」
それをというのだ。
「選ぶ様なものです」
「では」
「はい、そうした選択をです」
「戦になっても」
「大坂城の主の方はですな」
「選ぶべきではありませぬ」
幸村は静かだが確かな声で言った。
「決して」
「その通りですな、まあ関白様ならです」
「間違っても」
「大坂で戦にはなりませぬし」
「籠城もですな」
「ありませぬな、先はわかりませんが」
「暫く大坂は安泰ですな」
こうしたことを話したのだった、幸村と兼続は。
そしてだ、その話をしてだった、それから。
景勝が越後に戻る時が来た、それでだった。兼続は幸村主従にもこう言った。
「ではです」
「はい、我等もですな」
「越後に戻りましょう、ですが」
「ですが、ですか」
「越後に戻られましたら」
その時はというのだ。
「真田殿は上田にお帰り下さい」
「それでは」
「はい、短い間ですが」
兼続は微笑んでだ、幸村に述べた。
「越後の暮らしを楽しんで頂いたでしょうか」
「充分に」
幸村も温和な微笑みで兼続に答えた。
「そうさせて頂きました」
「それは何よりです」
「それではですね」
「越後に戻られたらすぐにです」
「上田に戻る用意に」
「かかられて下さい」
「わかりました、ただ」
その上田に戻る話を聞いてだ、幸村は言った。
「また急に話が決まりましたが」
「どうも動きがありまして」
「世にですか」
「真田殿の兄上もです」
信之もというのだ。
「上田に戻られるとか」
「兄上もですか」
「はい、ですから」
「何か天下で動きがあり」
「上田に戻られることになったのでしょう」
「そうですか、では」
「そのこともご了承下さい」
こう幸村に言ってだった、そのうえで。
彼等はまずは越後に戻りに入った、そしてだった。
彼は十勇士達と共に大坂を発ちそれから都から北陸道に入り越後に戻りに向かった。そして道中で十勇士達と話すのだった。
巻ノ四十三 完
2016・1・31