巻ノ四十五 故郷に戻り
上杉と真田の境まで来た、ここまで来てだった。
兼続は上田の方を見てだ、感慨を込めて言った。
「あっという間でしたな」
「ここに来るまでは」
「はい、ここで真田殿とお会いしてです」
「ここに来るまで」
「まさにです」
実にというのだ。
「あっという間でした」
「確かに。越後でのことがです」
幸村も兼続の言葉を受けて感慨を言葉に込めた。
「夢の様です」
「夢の様にですな」
「過ぎてしまいました」
「ですな、歳月が経つのは速いといいますが」
「まさに矢の如し」
「夢幻の如くですな」
「全く以て」
こう二人で話すのだった、境に来たところで。
そしてだった、兼続は幸村にだ。上田の方を見てまた言った。
「そろそろです」
「はい、真田の方からもですね」
「お迎えが来ています」
「そうですな」
幸村も見た、彼等を。赤い服の者達が来ていた。幸村はその彼等を見つつだった。兼続に対して言った。
「では間もなく」
「これで、ですな」
「お別れです」
「暫しの」
兼続は幸村に微笑んで応えた。
「そうなりますな」
「暫しですか」
「はい、九州と東国での戦がありますので」
「その二つの戦の時に」
「お会いすることになりましょう」
まさにその時にというのだ。
「ですから暫しです」
「そうなりますか」
「はい、ではまたお会いしましょう」
「越後のことは一瞬の夢でも」
またこう言った幸村だった、ここで。
「しかしその一瞬の夢を抱いて」
「そしてですな」
「それがしはその夢も糧にしていきます」
「是非その様に」
「していきまする」
こう笑顔で話してだった、幸村は兼続と互いに礼をして微笑みで別れた、幸村は十勇士達と共に上田の入った。
そして迎えの者達の方に向かう時にだ。十勇士達が幸村に言った。
「あの笑顔、忘れられませぬな」
「直江殿の笑顔が」
「まだおられますが」
「もうお顔は見えませぬな」
兼続の方を振り向いた、彼等はまだいるが。
それでも離れてしまい顔は見えなくなっている、それで十勇士達も言うのだ。
「しかしあのお顔がです」
「忘れられませぬ」
「実によい笑顔でした」
「殿もそうでしたが」
「人は別れる時の相手の顔を覚えておる」
幸村は十勇士達に言った。
「直江殿もそれは同じだ」
「では、ですな」
「直江殿も我等の顔をですな」
「覚えておられますな」
「そうですな」
「笑顔で別れた」
幸村もまた、というのだ。
「だからな」
「はい、それでは」
「また会う時までですな」
「お互いに笑顔を覚えている」
「そうした間柄ですな」
「そうなった、ではまた会う時までな」
幸村は十勇士達にも微笑んで言った。
「我等は上田で勤め励もうぞ」
「では」
「迎えの方々の中に入り」
「そうしてですな」
「早速はじめよう、ではな」
こう話してだった、そしてだった。
幸村主従は迎えの者達の中に入った、迎えの者達は皆笑顔になってそのうえで彼等にこう言って来た。
「よくぞご無事で」
「お元気そうですな」
「お元気そうで何よりです」
「越後でも大層鍛錬を積まれたとのことですが」
「うむ、この通りだ」
幸村は彼等にも笑顔で応えた。
「元気だ、そして日々な」
「修行に励まれていた」
「そうでしたな」
「そのつもりだ。よき日々だった」
「では、ですな」
「これよりですな」
「上田に戻ってだ」
そしてというのだ。
「政に励みな」
「修行もですな」
「行われますな」
「そうしたい」
このことも言った、そしてだった。
幸村は彼等と共に上田に向かってだ、城に入りだ。
昌幸に挨拶をしてだ、父に言われた。
「よく帰ってきた」
「はい、ここに」
「顔色がいいな」
幸村のその顔を見ての言葉だ。
「体格もよくなっておる、顔立ちもな」
「そうしたものもですか」
「さらによくなった」
こう言うのだった。
「ではこれからもな」
「はい、学問と武芸に励み」
「政もだ」
「承知しております」
これが幸村の返事だった。
「そのことも」
「ならよい」
「さすれば」
昌幸は幸村にあらためて言った。
「源三郎も近く戻って来るが」
「兄上もですな」
「そのことは知っていよう」
「それがしより先にと思っていましたが」
「あちらで婚儀がある」
「兄上の」
「それが済んでからだ」
信之、彼はというのだ。
「この上田に戻って来る」
「だからですな」
「その間は御主には源三郎の分まで働いてもらう」
「わかり申した」
「そしてだ、御主にもだ」
「それがしにもまた」
「婚儀を結んでもらう」
こう言うのだった。
「その話は聞いておろう」
「大谷殿の」
「そうだ、大谷吉継殿の娘御とだ」
大坂城で幸村が大谷自身から話された様にというのだ、昌幸もまた幸村に対してこう語るのだった。それも確かな声でだ。
「婚儀を結んでもらう」
「そうなりますか」
「わかったな」
「そのことはもうですか」
「話が進んでいたのだ」
幸村が上田を離れている間にというのだ。
「そしてだ」
「それがしも妻を迎え」
「家を持つがいい」
「畏まりました」
「武士は家を持ってこそさ」
「はじまるのですな」
「左様、源三郎も御主もだ」
二人共というのだ。
「妻を持て、よいな」
「さすれば」
「さて、御主達が家を持つのはよいが」
ここで昌幸は話を変えた、今度の話はというと。
「また天下が騒がしくなる」
「九州ですすな」
「既に近畿、山陽、山陰、北陸、四国は収まった」
「そして東海も」
「徳川殿も関白様と和を為してな」
そうして秀吉の軍門に降ってというのだ。
「そこも落ち着いた、しかしだ」
「九州は」
「薩摩、大隅、日向を治める島津家が北上している」
九州の南端からだというのだ。
「大友家も龍造寺家も敗れた」
「どちらも立ち直れないまでに」
「特に龍造寺家はな」
この家はというのだ。
「主の隆信殿が討たれた」
「その首を奪われましたな」
「最早龍造寺家は滅びるのみ」
「このままでは」
「大友家もそれは同じ」
この家もというのだ。
「最早な」
「島津家に全てをですな」
「滅ぼされてじゃ」
「九州の全てが島津家のものとなる」
「そうなってしまう、だが」
「関白様はそれを望まれぬ」
「そうだ、だからだ」
島津家としては九州を全て手に入れたうえで羽柴家に従いたいのだ、その為に兵を進めているのだ。だが。
秀吉はそこまで大きな勢力が出来ることを望んでいない、それで島津家の九州統一を望んでいないというのだ。
そうした事情からだとだ、昌幸は言うのだ。
「近いうちにな」
「戦となりますな」
「九州でな、そしてな」
「東国でも」
「東国はだ」
こちらはというと。
「今も戦国じゃ」
「しかしその戦国を終わらせ」
「関白様は完全な一統を望まれておる」
「この天下の」
「だからじゃ、九州とじゃ」
「東国で」
「戦がある、御主はその家臣達と共にじゃ」
その十勇士達と、というのだ。
「九州にな」
「行くことになりますな」
「おそらくな、よいな」
「わかり申した」
「その時はまた言う」
幸村が九州に行く時はというのだ。
「存分に戦って来るのだ、よいな」
「畏まりました」
「そして東国でもな」
「やはりですな」
「御主には働いてもらう」
「ではその時も」
「存分に働いてもらう」
こう幸村に告げた。
「わかったな」
「さすれば」
幸村は父の言葉に頷いた、そしてだった。
彼は暫く父の補佐役として政にあたった、信之のいない間は。
その間彼はそつなく政をこなした、だが。
己の屋敷に戻ってだ、常に十勇士達に言うのだった。
「今日もな」
「至らなかった」
「ご自身を振り返ってですか」
「そう言われるのですか」
「どうもな」
実際にというのだ。
「やはり拙者はな」
「政については」
「至らぬ」
「そうしたところが多い」
「そう申されますか」
「うむ」
こう言うのだった。
「どうもな」
「左様ですか」
「しかし殿もです」
「よくされていますが」
「政も」
「ならよいがな」
幸村は十勇士の言葉にだ、まずは。
少し気を取り直した、だが。
それでもだ、こうも言ったのだった。
「やはり向き不向きかのう」
「殿は政はですか」
「大殿、若殿と比べて」
「どうしてもですか」
「そう言われるのですな」
「父上の助けになっているか」
こうも言うのだった。
「果たして」
「それは大丈夫かと」
「大殿は何も言われませぬ」
「こうした時に大殿はすぐ言われる方ですが」
「それがないですから」
だからというのだ。
「ですから」
「殿はです」
「政につきましても」
「特にです」
「問題はない」
「そうかと」
「そうか、しかし精進せねばな」
それは怠ってはならないと言うのだった。
「政も」
「殿はまだまだお若いです」
「政は経験といいます」
「年季がものを言うといいますから」
「政はです」
「これからかと」
「そうか、経験か」
幸村は彼等の言葉を聞いて頷いた、そしてだった。
そうした話をしつつもだ、信之が帰ってくるまでの間政に励みだ。時折彼自身の婚姻の話を父から聞いた。
それによるとだ、その婚姻は。
「近いですか」
「うむ」
昌幸は幸村自身に答えた。
「そうじゃ」
「そうなのですか」
「近いうちに大谷殿から文が来るが」
「その文にですか」
「娘殿を何時こちらに送られるかをな」
「書かれていますか」
「話は既に整っておる」
昌幸と幸村の間でというのだ。
「だからな」
「それがしは、ですか」
「待っておれ」
「それだけでよいのですか」
「こうしたことは家同士が決めること」
武士のそれはというのだ。
「だからじゃ」
「それがしは、ですか」
「待っておればよいのじゃ」
「左様ですか」
「父親同士で決める」
そのそれぞれの家の主達がというのだ。
「そして御主もな」
「父になれば」
「その時にじゃ」
「子の婚姻を決めるのですな」
「そういうものじゃ、わかったな」
「はい」
幸村あは父の言葉に静かに頷いた。
「さすれば」
「そのことをわかっていればよい」
「さすれば」
「では御主が妻を迎え」
「そしてですな」
「御主の家臣達もじゃ」
即ち十勇士達もというのだ。
「妻を迎えることになろう」
「そうなりますか」
「あの者達も武士、武士ならな」
「家を持つものですな」
「だからじゃ」
「十人全てが妻を迎え」
「家を持つのじゃ、そのこともな」
十勇士の婚姻もというのだ。
「わしは進めておる」
「それでは」
「御主の婚姻が済めば」
その時はというのだ。
「あの者達じゃ」
「わかりました」
「そしてその時にはな」
「戦ですか」
「九州でな」
ここで昌幸の目が鋭くなった。
「はじまるぞ」
「そうなりますか」
「島津家の勢いを聞いておるとな」
「九州を全て手中に収める」
「そうなるからじゃ」
「その前にですな」
「関白様は出陣される」
そうなるというのだ。
「ご自身でな」
「そして大軍を率いられ」
「島津家と戦われる」
「では」
「御主達もな」
婚姻してすぐにだが、というのだ。
「よいな」
「はい、戦とならばです」
幸村も確かな声で答える。
「是非共」
「出陣してもらう」
「畏まりました」
「そして戦といってもな」
「戦の場で戦うとはですね」
「それだけが戦ではないな」
「むしろ戦の場以外での戦がです」
幸村はその目を確かなものにさせて父に答えた。
「戦ですな」
「うむ、わかっておるな」
「戦わずして勝ち」
「そしてじゃ」
「知ることもですな」
「その通りじゃ、御主と家臣達はな」
彼に十勇士達はというのだ。
「忍でもある、そういうことじゃ」
「さすれば」
「その忍として働くとならば」
「その時は」
「存分に働くのじゃ」
その忍としてというのだ。
「わかったな」
「それでは」
忍としてもだった、幸村は昌幸の言葉に頷いた。そして兄の信之が戻った時にだ。
彼と共に来た凛々しいまでに整った顔と見事な黒髪を持つ長身の女を見てだった。幸村は兄に言った。
「奥方ですな」
「うむ、本田平八郎殿の娘御にして徳川家康殿の養女」
「その方がですな」
「わしの妻じゃ」
「はじめまして」
声も強い、そこには見事な凛々しさがある。
「小松と申します」
「小松殿ですな」
「はい」
やはり強い声での返事だった。
「左様です」
「わかりました、では」
「はい、これより真田家の妻として入ります」
「わしの妻としてな」
信之も微笑んで言う。
「宜しく頼むぞ」
「畏まりました」
「それでじゃが」
信之は幸村にあらためて言った。
「越後でまた大きくなったな」
「人としてですか」
「うむ、感じる」
その器をというのだ。
「よく修行を積んだな」
「怠らぬ様にしていました」
「それは何よりじゃ、さらに武士としてよくなったな」
「有り難きお言葉」
「それで御主もじゃな」
「父上がお話を進めて下さいまして」
自身の婚姻の話もだ、幸村は応えた。
「それで、です」
「そうじゃな、よいことじゃ」
「兄上もそれがしもですな」
「共に妻を迎えるな」
「そうなりますな」
「わしも大谷殿のことは聞いておる」
幸村の義父になる彼のことはというのだ。
「関白様の忠実な家臣であり非常に立派な方じゃな」
「お会いしましたが」
「その通りであったな」
「ですから」
「うむ、御主にとってよい婚姻となるな」
「兄上と同じく」
「よき妻を迎えた」
信之は己の隣にいる小松を見た、見れば背の高い彼と比べても全く遜色ないまでに高い。姿勢も実にいい。
「そしてな」
「徳川殿も」
「実に素晴らしい方じゃ」
「そうなのですな」
「資質と人徳を兼ね備えたな」
そうした者だというのだ、家康は。
「信頼出来る方じゃ」
「ですか、では」
「あの方、そして徳川家とはな」
「これからはですな」
「密になっていくべきじゃ」
「左様ですな」
「そして御主はな」
また幸村に言うのだった。
「その婚姻は大事にせよ」
「畏まりました」
「ではこれからあらためてな」
「この上田を」
「治めていこうぞ」
「さすれば」
戻って来た兄とこう話してだった、そのうえで。
幸村は兄とその妻を家に迎え入れた。それは昌幸も同じだった。
親兄弟が揃いだ、そしてだった。
上田を以前の様に治めだしたその時にだ、幸村はまた父に呼ばれ言われた。
「遂にじゃ」
「それがしのですか」
「うむ、上田に来る」
「そうですか」
「既に準備は出来ておる」
式のそれがというのだ。
「晴れ場じゃ、よいな」
「服もですか」
「代々の服を出す」
真田家のそれをというのだ。
「それを着てな」
「そのうえで」
「妻を迎えるのじゃ」
「その服はわしも着た」
二人と共に場にいる信之も言って来た。
「婚礼の時にな」
「上田から送ってもらい」
「そしてその服を着てじゃ」
婚礼の場に赴いたというのだ。
「だからな」
「それがしもですな」
「その服を着てじゃ」
そのうえでというのだ。
「よいな」
「まさに代々の服ですな」
「婚礼のな」
「それをそれがしが着て」
「式を挙げよ」
信之は弟に優しい声で言った。
「我等の様にな」
「さすれば」
幸村は己の婚礼の用意も進めることになった、彼はこれまで以上に忙しくなった。それで屋敷にも多くの者が出入りする様になった。
十勇士達もだ、幸村のそれを手伝いながら言う。
「いや、何か」
「もうてんてこ舞いですな」
「近頃は」
「毎日が祭りの様ですな」
「うむ、忙しいわ」
実際にとだ、幸村も言う。
「婚礼の用意もあってな」
「服が来ましたし」
「その服を着てですな」
「そのうえで式に出て」
「婚姻ですな」
「妻を迎える」
幸村はまた答えた。
「その様にな」
「我等もお手伝いしていますが」
「それだけでは手が足りず」
「人が屋敷に出入りして」
「何かと忙しいですな」
「うむ、それでじゃが」
幸村は十勇士達にまた言った。
「御主達も妻を迎える」
「だからですな」
「我等はこの屋敷から出て」
「それぞれの家を構え」
「そこに住むのですな」
「そうすることになる」
これまでとは違いというのだ。
「御主達もな」
「ですか、では」
「これまでは共に寝起きしていましたが」
「この屋敷で」
「それが変わるのですな」
「そうなる、しかし御主達の家はな」
建てられるそれ等はというと。
「この屋敷のすぐ傍じゃ」
「十人共ですな」
「我等皆ですな」
「結婚して妻を迎えても殿のお傍にですな」
「いられるのですな」
「父上もそう申されておる」
真田家の主である昌幸もというのだ。
「その様にな」
「ではこれからもですな」
「毎日ですな」
「我等はですな」
「結婚しても殿のお傍にですな」
「いつもいられますな」
「それぞれの家にいる時以外はな」
まさにそうした時以外はというのだ。
「我等はこれまで通り共におる」
「そして生きる時も死ぬ時も」
「同じ」
「そのことは変わりませぬな」
「誓いは守られる」
例え何があろうとも、というのだ。
「安心せよ」
「では」
「それではですな」
「妻を迎えて家を持っても」
「変わりませぬな」
「そういうことじゃ、安心していようぞ」
「あの、源四郎様」
ここでだ、幸村にだった。真田家の若い武士が言って来た。
「お聞きしたいことがありますが」
「何じゃ?」
「はい、源四郎様は源次郎様とも言われていますが」
「うむ、そちらが正しい」
「しかしです」
「拙者の名がそう呼ばれることはじゃな」
「どうしてでしょうか」
こう幸村に問うのだった。
「それは」
「当家では名は兄弟の順序とは限らぬな」
「はい、何かと」
「それで兄上とそれがしでもな」
「三と二ですね」
信之は源三郎、幸村が源次郎である。
「それがですね」
「うむ、しかしな」
「それが、ですか」
「自然とじゃ」
「源四郎様とですか」
「呼ばれる様になったのじゃ」
「そうでしたか」
若い武士もこれで納得した。
「何故か」
「誰が最初にそう呼んだかは」
「わかりませぬか」
「四郎様やもな」
武田家、真田家が仕えていた家の主の彼ではというのだ。
「それは」
「あの方ですか」
「そこはわからぬが」
「それでもですな」
「その呼び名になってな」
そうしてというのだ。
「それが定まったな」
「でしたか」
「しかしな」
「それでもですか」
「拙者は構わぬ」
「源四郎様と呼ばれても」
「そうじゃ」
まさにというのだ。
「何か拙者に相応しいからな」
「そのお名前が」
「そうも思うからな」
だからというのだ。
「御主もそう呼びたいならな」
「その様にですな」
「呼ぶといい」
「では」
武士も応えて言った。
「その様に」
「それではな」
「飫冨源四郎殿の様ですな」
「うむ」
「だからこそですか」
「よいと思っておる」
彼の本来の名ではないがというのだ。
「それでもな」
「そうでしたか」
「飫冨源四郎殿のことは知っておろう」
「武田家でも随一の方でしたな」
「その武はな」
「では飫冨殿の様に」
「わしも戦い」
そしてというのだ。
「義を貫いていきたい」
「死すまで」
「そう考えておるからな」
「だから源四郎様と呼ばれても」
「よいのじゃ」
こう話すのだった。
「わかったな」
「はい、それでは」
「それでじゃが」
己の名のことを話してからだった、幸村は。
若い武士にだ、あらためて問うたのだった。
「式の用意は進んでおるが」
「はい」
「御主達も出るのじゃな」
「そうなっています」
「そうか、では祝ってくれるか」
「無論です」
若い武士は微笑んで幸村に答えた。
「源四郎様にとってこの上なきよきことですから」
「だからか」
「是非そうさせて頂きます」
「有り難い、ではな」
そう聞いてだ、幸村はさらに微笑んで言った。
「祝ってくれ」
「それでは」
「うむ、そしてな」
「そのうえで、ですか」
「拙者は必ずよき家をもうける」
そうすることをだ、彼にも約束した。
「妻と共にな」
「そう言われますか」
「思うが故にな」
こう約束するのだった、そしてだった。
そうした話をしてだった、彼もまた自ら動いて用意をしていた。
そしてだった、いよいよだった。
「国境にです」
「来られたか」
「はい」
「わかった」
家臣の話を聞いてだ、幸村は応えた。
「それではな」
「お迎えにですな」
「それがしが行くか」
「いえ、それはです」
「違うのか」
「源四郎様は一方の方ですので」
この度の祝言のというのだ。
「ですから」
「だからか」
「はい、ここでお待ち下さい」
上田の自身の屋敷の中でというのだ。
「そうされて下さい」
「そうか、わかった」
「然るべき者が既に向かっております」
「わかった、ではな」
「源四郎様はお待ち下さい」
「その様にな」
こうしてだった、幸村は己の屋敷で待つことにした。そしてだった。
その家の中でだ、彼は共にいる十勇士達に言った。
「待つことか」
「はい、ですな」
「殿は」
「待つこともですな」
「大事ですな」
「うむ、待ってな」
そしてというのだった。
「時を経るのもな」
「よいですな」
「そして時を待つ」
「左様ですね」
「常に動くものでもない」
確かな声での返事だった。
「信玄公の旗にもあるな」
「動かざること山の如し」
「そういうことですな」
「戦もまた待つことがある」
こう言うのだった。
「だからじゃ」
「ここは待つ」
「じっくりとですな」
「動くことなく」
「そうされますな」
「その通りじゃ、焦る気持ちがあれど」
それでもというのだ。
「じっくりとな」
「ですな、では」
「我等もですな」
「ここで待つ」
「そうあるべきですな」
「そうしてくれるな」
「はい」
十人で一度に応えた返事だった。
「そうさせてもらいます」
「ではな」
「それでは殿」
「これよりです」
彼等はここでだった、すぐにだった。
酒を出してだ、自分達の主に言った。
「飲みましょうぞ」
「皆で」
「そうしましょうぞ」
「いや、それはよい」
幸村はこう彼等に返した。
「酒はな」
「今はですか」
「酒はですか」
「よいのですか」
「うむ、よい」
また言ったのだった。
「式が終わるまでな」
「それまでは、ですな」
十勇士の中でとりわけ酒好きの清海が言って来た。
「慎まれるのですな」
「節制ですな」
望月も言う。
「つまりは」
「ふむ、確かに」
根津は腕を組み神妙な顔になっている。
「式まではそうある方がいいですな」
「この度は一世一代の晴れ場」
こう言ったのは穴山である。
「ならば終わるまでは」
「そうした方がいいですな」
伊佐は主に微笑んで述べた。
「確かに」
「いや、それでは」
海野はこうしたことを言った。
「我等もそれに倣いましょうぞ」
「我等十人も殿の式が終わるまでは」
由利も言う。
「酒を慎みましょう」
「そして式が終われば」
猿飛はそれからのことを言った。
「大いに飲みましょう」
「しかし式が終わるまでは」
穴山は猿飛に続いた。
「慎みましょうぞ」
「そうした時もよいですな」
霧隠も酒好きだが今はだった。
「酒を控える時も」
「酒は薬にもなりますが毒にもなる」
最後に言ったのは筧だった。
「益ももたらしますが禍もですからな」
「そう思ってじゃ」
幸村も言う。
「式が終わるまではな」
「酒をですな」
「控えると」
「そう決められたのですな」
「うむ、そうしようぞ」
こう言ってだ、実際にだった。幸村は今は酒を飲まなかった。彼と共にいる十勇士達もそれで酒を止めた。
そしてだ、その酒を収めてだ。水を出してだった。
そちらを飲みだした、その中で。
幸村は水の味を味わいつつだ、こんなことを言った。
「水には水の味がするな」
「確かに」
「こちらにはこちらの味がありますな」
「水には」
「それの味が」
「この水はじゃ」
彼等が今飲んでいる水はというと。
「上田の水、上田の水はな」
「美味いですな」
「実に」
「心地よい味ですな」
「喉に」
「全くじゃ、高い山にあるな」
上田の山々のというのだ。
「そうした味じゃな」
「澄んでいますな」
「木々の香りもして」
「雪や氷の冷たさも感じられ」
「実によいですな」
「幾らでも飲める」
その水を飲みつつ言う幸村だった。
「まことにな」
「はい、実にです」
「飲みやすい水です」
「そして水はな」
こうも言った幸村だった。
「それぞれの場で違うな」
「味がですな」
「まことにそれぞれの地域で、です」
「味が違いますな」
「酒と同じく」
「全くじゃ、その味の違いをな」
それをというのだ。
「比べるのも楽しいのう」
「上方はです」
ここでこうした言葉が出た。
「水も美味かったですな」
「確かにな」
「都も大坂も」
「そうであったな」
「尾張等も」
「うむ、しかし関東はな」
ここでだ、幸村はこの地のことを言ったのだった。
「水はな」
「はい、どうにもですな」
「あちらの水はです」
「よくありませんでしたな」
「どうにも」
「塩辛かったですな」
「特に武蔵、江戸の辺りはな」
その辺りの水はというのだ。
「よくなかった」
「どうにもです」
「あの地は水もよくなく」
「治めるにはです」
「どうにもと思うのですが」
「いや、水は悪いが」
それでもと言う幸村だった。
「あの地はな」
「治めるのにですな」
「よいと」
「そう言われますか」
「四神相応の地じゃ」
江戸はというのだ。
「だからな、あの地から天下を治めることもな」
「出来る」
「そうとですか」
「言われますか」
「うむ」
その通りという返事だった。
「拙者はそう見ておる」
「ですか」
「あの地は」
「そこまでの地ですか」
「そう思う」
江戸のことをこう話すのだった。
「必ずな、水が悪くともな」
「それでもですな」
「あの地はそうした地になりますか」
十勇士達は幸村のその言葉に頷いくのだった、そうして彼等もだった。
幸村の婚礼の用意の最後の締めを行っていた、彼の婚礼の時は今まさにという時を迎えようとしていた。
巻ノ四十五 完
2016・2・15