巻ノ四十七 瀬戸内
幸村主従は風の様に速く大坂に着いた、秀長はその話を聞いて確かな笑みで言った。
「流石じゃな」
「いや、まさかです」
秀長の前にいた藤堂高虎、引き締まった顔に中肉中背でありその目の光が強い男が応えた。
「この様に速いとは」
「御主でもか」
「思いも寄りませんでした」
そうだったというのだ。
「速いと思っていましたが」
「忍道を使ってじゃな」
「それで上田からですか」
「この大坂まで来たのじゃ」
「そうでしたか」
「真田家は独特な家じゃ」
幸村のいるこの家はというのだ。
「忍を使うのではない」
「真田家自体がですか」
「忍の家なのじゃ」
「武士であると共に」
「あの家は忍でもあるのじゃ」
「だから忍道もですか」
「知っておる、真田家だけの道をな」
まさにというのだ。
「それを使ってな」
「この大坂まで来たのじゃ、どうやら」
ここで秀長はこうも言った。
「真田家は忍道を天下に持っておるな」
「上田から」
「それで素早く行き来出来るのじゃ」
いざという時はというのだ。
「忍としてな」
「では大坂だけでなく」
「東国にも他の国にもな」
「素早く行き来が出来るのですな」
「いざとなれば」
「そこまでとは」
「おそらく以前はそうではなかった」
こうも言った秀長だった。
「武田家に加わるまではな」
「では武田家において」
「信玄公は天下を見据えておられた」
実際に都を目指したこともある、それで徳川家を三方ヶ原で破ってもいる。
「それでじゃ」
「その時にですか」
「真田家は武田家の忍としてな」
「密かに天下に忍道をもうけていた」
「そうであろうな」
「恐ろしい家ですな」
「その力は伊賀や甲賀、風魔と並ぶであろう」
忍としてのそれはというのだ。
「何しろ家自体が忍の家でもあるからな」
「忍を使うのではなく」
「そうした家であることはわかっておくことじゃ」
「真田家はこれまで多くの戦で武勲も挙げていますが」
「それと共にじゃ」
「武士としての智勇と共に」
「そうしたものも備えておる」
藤堂にだ、秀長は言っていった。
「まことに恐ろしい家なのじゃ」
「敵に回すものではありませぬな」
ここで藤堂の目が鋭くなった。
「小さきとはいえ」
「十万石、羽柴家から見れば実に小さい」
「しかしですな」
「勝てたとしても只では済まぬ」
「それ故に」
「真田家は敵に回すものではない、しかし味方ならば」
逆にだ、その立場ならばというと。
「これ以上はなく頼もしい」
「そしてその頼もしき者達は」
「これより九州に向かわせる」
その忍として、というのだ。秀長は藤堂にこうした話をした後でだ。
秀吉のところに行き幸村達のことを告げた、すると秀吉は彼の弟に楽しそうに笑って言った。
「知っておったが」
「それでもですな」
「遂に来たとな」
「楽しみなのですな」92
「うむ」
実際にだ、秀吉は楽しそうな笑みで答えた。
「早く会いたいのう」
「真田家の次男に」
「そうじゃ、わしはあの者が好きじゃ」
「だからこそですな」
「是非家臣にとも思った」
先日のことも言うのだった。
「それじゃ、しかしな」
「この度はですな」
「九州に行ってもらう」
「そしてそのうえで」
「九州の状況を見てもらう」
「そうしてもらいますな」
「忍としてな」
こう秀長に述べた。
「そうしてもらう」
「ではすぐにでも」
「既に船は用意してある」
その手配はというのだ。
「もうな」
「では」
「すぐにじゃ」
「あの者達を行かせますか」
「そうする、よいな」
「さすれば」
「少し休んでもらいたいとも思うが」
秀吉はこの感情も出した、だがだった。
「九州の状況を聞くとな」
「はい、最早です」
「一刻の猶予もならんな」
「島津家の勢いは止まりませぬ」
全く、とだ。秀長は兄に答えた。
「大友、龍造寺もです」
「今にも滅ぶな」
「まずは大友家を攻めそうです」
「そうか、ではな」
「あの者達を」
「すぐに行かせる」
その九州にというのだ。
「そうする」
「さすれば」
「明日の朝に船に乗ってもらう」
「そして昼も夜も進ませ」
「博多に向かわせる」
秀吉は弟に自身の考えを述べていく。
「その様に」
「それでは」
「船は昼も夜も進める」
川や海のその上をだ、秀吉はその利点も理解していた。そのうえでの考えを秀長に対して述べたのである。
「馬よりもずっと速いわ」
「休まずに進めますからな」
「だからよい、それではな」
「すぐに船で行かせましょう」
こうしたことを話してだ、そのうえで。
秀吉は幸村主従をすぐに九州に行かせることにした、このことは幸村達にも告げられ。
すぐにだ、波止場の近くに案内された。そして。
この夜はその波止場の宿に泊まった、そこであった。
主従は酒を飲み刺身を楽しんだ、そのうえで話をした。
「では、ですな」
「明日は日の出と共に起き」
「船に乗り」
「そこからですな」
「海路で行く」
九州までとだ、幸村は十勇士に述べた。
「正式にそう告げられた」
「関白様からですな」
「そうなりましたな」
「そうじゃ、ではすぐに行くぞ」
その九州までというのだ。
「よいな」
「九州ですか」
「これまで行ったことはありませぬが」
「果たしてどうした場所か」
「楽しみですな」
十勇士達は新鮮な刺身を酒と共に楽しみつつ口々に言った。
「瀬戸内を船で夜も昼も進み」
「そして博多に着いて、ですな」
「後は各家の状況を調べる」
「そして関白様にお伝えするのですな」
「そうじゃ」
まさにという返事だった。
「先陣が九州に辿り着くまでにな」
「既にその先陣の用意にかかっていますな」
「大阪も物々しいです」
「兵も多く武具や兵糧が集まっています」
「どうやら」
「うむ、先陣の後はな」
幸村はさらに言った。
「関白様ご自身がじゃ」
「九州にですか」
「ご出陣ですか」
「そうなる」
まさにというのだ。
「間違いなくな」
「そして九州を定める」
「そうされるのですか」
「島津家を九州には完全に渡さずに」
「定められるのですな」
「そうじゃ」
その通りとだ、幸村はまた答えた。
「九州をそうされるおつもりじゃ」
「ですか、では」
「我等の役は大事ですな」
「島津家をしかと調べる」
「そうせねばなりませぬから」
「御主達一人一人に任せるか」
こうも言った幸村だった。
「そうするか」
「と、いいますと」
「我等一人で、ですか」
「九州を一国ずつ調べよ」
「その様にですか」
「分けてじゃ」
そうしてというのだ。
「調べれば速いからのう」
「十一人で九州を回るより」
「それよりもですな」
「一人で一国を見れば」
「その分早いと」
「そうじゃ、九州は九の国があるが」
しかしというのだ。
「全ての国をそうすればな」
「楽にですな」
「全ての国を見られる」
「では」
「その様にされますか」
「そうしようか」
また言った幸村だった。
「これは九州に着くまでに決めるが」
「何はともあれ、ですな」
「問題は島津家ですな」
「あの家ですな」
「やはりこのままじゃと」
ここで目を光らせて言った幸村だった。
「九州は完全にな」
「島津家のものとなる」
「そうした状況ですな」
「最早」
「話を聞くとな」
どうしてもというのだ。
「数ヶ月じゃ」
「どれだけ遅くとも」
「それだけで、ですな」
「九州は島津家のものとなる」
「そうした状況ですな」
「それでは急がなくてはな」
それこそというのだ。
「関白様にとって望ましい状況ではなくなる」
「天下にはあまりにも強い者は置かぬ、ですな」
「出来るだけ」
「そうじゃ」
そこはまさにというのだ。
「だから島津家もな」
「九州の統一はさせぬ」
「それだけの強い力は持たせぬ」
「そうされるのですな」
「羽柴家の力が他の家よりも遥かに強い」
そうした状況がというのだ。
「そうであればな」
「どの家も羽柴家に対することが出来ず」
「歯向かうこともない」
「つまり一つの家が抜きん出て強い」
「そうした状況がよいのですな」
「天下に多くの家があろうとも」
それでもというのだ。
「出来るだけな」
「羽柴家が強く」
「他の家はどの家も弱い」
「つまり極は一つ」
「そうした状況がよいのですな」
「天下泰平を長くする為には」
まさにというのだ。
「羽柴家と並ぶ家はあるべきでないのじゃ」
「天下に二日なし」
霧隠が言った。
「左様ですな」
「そういえばです」
伊佐も言う。
「室町幕府も強い家の力を削いでいました」
「山名家、大内家と」
筧はそうした家の名を具体的に述べた。
「その力を削いでいましたな」
「では島津家もその考えの為に」
穴山も言う。
「力を削ぐ」
「旧領以外の領有は認めぬと」
海野の言葉だ。
「関白様は前から言われてますしな」
「ううむ、では関東の北条家にも言われているということは」
根津は東にも目を向けて言った。
「あの家も然りですな」
「二日はいらぬ、まさに」
清海は瞑目する様にして述べた。
「天下泰平の秘訣なのですな」
「だからこの度も戦も必要ですか」
望月は戦の大義に気付いた。
「天下泰平の為に」
「いや、深いですな」
由利も言う。
「それは」
「しかしそうなると」
最後の猿飛が言うことは。
「徳川殿は」
「そういえばな」
他の十勇士達もここで気付いた。
「徳川家は二百五十万石」
「かなり大きい」
「天下でもな」
「随一の家」
「羽柴家に次いでな」
「かなりの大きさじゃ」
こう言うのだった。
「あの家については」
「関白様に戦で引けを取らなかったからな」
「小牧でも長久手でも」
「だから力を削げなかった」
「そうなったからか」
「うむ、徳川殿はな」
幸村もここで言う。
「確かにな」
「大きいですな」
「あまりにも」
「他の家と比べて」
「その力が」
「そうじゃ、まさに天下第二の方じゃ」
家康自身もというのだ。
「だからな」
「天下にとって危うい」
「争いの種にもなる」
「そうなりかねませぬか」
「若しもじゃ」
ここでまた言った幸村だった。
「関白様に跡継ぎの方がおられず」
「その時は」
「徳川殿が」
「しかもな」
さらに言うのだった。
「羽柴家を支える強い方がおられねば」
「その時はですか」
「次の天下人は、ですか」
「徳川殿ですか」
「そうなりますか」
「そしてな」
幸村の言葉は続く。
「おそらくじゃが」
「徳川殿ご自身も」
「あの方もですか」
「天下を」
「望んで得られるなら」
その場にいたのならというのだ。
「そうなられるであろう」
「天下人に」
「そうなりますか」
「野心が僅かでもあれば」
天下へのそれがだ。
「それに動かされるのは人としてな」
「当然」
「そうなのですな」
「うむ」
まさにというのだ。
「そうなられるやもな」
「天下は羽柴家で定まるかというと」
「まだ決まっていませんか」
「関白様の後は」
「どうなるのか」
「うむ、しかし天下は定まる」
このことは間違いないとだ、幸村は刺身、瀬戸内の海で獲れた新鮮なそれを醤油と山葵で口にし酒も飲みつつ言った。
「まずはな」
「それは確かですか」
「西国を何とか出来れば」
「それで」
「西国も間違いなくな」
幸村は家臣達に自身の読みを話した。
「島津家が統一するまでにな」
「兵が届き」
「そして戦に勝たれ」
「島津家を抑えられる」
「そうなりますか」
「九州探題は生まれぬ」
九州を統一したそれはというのだ。
「島津家は旧領となる」
「薩摩、大隅、日向」
「この三国ですか」
「この三国に留め置かれる」
「そうなりますか」
「そうじゃ、そしてじゃ」
そのうえでというのだ。
「返す刀で東国じゃ」
「関東、そして奥羽ですな」
「そちらになりますか」
「九州の後は」
「そうなりますか」
「具体的には北条家、伊達家じゃ」
この二つの家だというのだ。
「北条家は関東を手中に収めんとしてな」
「しかもですな」
「伊達家もですな」
「奥羽を我がものにしようとしている」
「その二つの家をですな」
「仕置されるおつもりじゃ」
秀吉はというのだ。
「そしてな」
「そのうえで、ですな」
「天下は統一される」
「そしてその統一の後ですか」
「問題は」
「果たしてどうなるかじゃ」
幸村は遠い目になって述べた。
「羽柴家によき跡継ぎ、柱となられる方がな」
「共にですか」
「備わっているか」
「関白様の後に」
「それが問題ですか」
「跡継ぎには秀次公がおられるが」
ここで幸村は彼の名を出した。
「甥御のな」
「ですな、あの方ですか」
「ご子息の捨丸様もおられますし」
「どなたかがですな」
「跡継ぎですな」
「捨丸様はご幼少」
幸村はこのことを指摘した。
「幼子は何時とうなるかわからぬ」
「七つまでは特に」
「危ういですな」
「昨日元気だったのにはあります」
「それもよく」
十勇士達もそれぞれ言った。
「では、ですな」
「捨丸様はわからぬ」
「それでは秀次公か」
「あの方もですか」
「少なくとも秀次公がおられれば」
彼が健在なら、というのだ。
「まずは安心出来る、そしてな」
「柱ですか」
「そうなられる方もですか」
「これはお二人おられる」
それだけというのだ。
「羽柴家にはな」
「弟君の中納言様ですな」
「そして利休殿ですな」
「そうじゃ、お二人じゃ」
まさにその彼等だというのだ。
「羽柴家の両輪じゃ」
「政のですな」
「それですな」
「お二人がおられれば」
「柱も健在ですな」
「お二人に勝る柱はない」
羽柴家にとってというのだ。
「関白様の両腕じゃ、特にな」
「弟君のですな」
「中納言様ですな」
「あの方ですな」
「そうじゃ、あの方がおられれば」
まさにというのだ。
「利休殿も万全、まさにな」
「あの方が第一の柱ですか」
「関白様にとっても天下にとっても」
「そうなのですな」
「拙者はそう見る」
これが幸村の見ることだった、あらゆることの。
「その中で当家はどうしていくか」
「それが問題ですな」
「どうしても」
「天下の動きの中で」
「落ち着いていればな」
そうであればとも言うのだった。
「よいがな」
「落ち着いていれば、ですな」
「我等も落ち着いてよい」
「だからですな」
「それに越したことはない、しかしまた乱れれば」
終わりかけている戦国の世が再びそうなってしまえばというと。
「考えていかねばならぬ」
「どうしていくか」
「そのことを」
「家と民を守る」
これは絶対にというのだ。
「それを念頭に置いてな」
「どう動くかをですか」
「天下の流れを見て」
「それを決める」
「それも大事ですな」
「これから海に出るが」
幸村はここで例えた。
「しかしな」
「海で、ですな」
「舵取りを間違えたなら」
「その時はですな」
「舟ごと沈んでしまう」
「そうなってしまいますな」
「だからな、天下の流れは見誤ってはならぬ」
絶対にというのだ。
「家と民を守る為にな」
「では、ですな」
「義はそこにありますな」
「殿が常に大事にしておられる」
「それは」
「そうじゃ、そして一つ大きな道が天下にあり」
それはというと。
「大義もあるが」
「その大義もですな」
「是非、ですな」
「守り進む」
「そうありたいですな」
「拙者は家も民も大義もな」
その三つ共というのだ。
「守っていきたいがな」
「若し家と民が守れれば」
「その時は」
「大義にのみ生きていたい」
己の欲ではなく、というのだ。
「そうしたい、具体的には」
「それは何かというと」
「大義は」
「それは」
「恩に恩で報い不義を許さず」
幸村は十勇士達にその大義のことを話した、そのうえで。
そしてだ、こう言ったのだった。
「誓いを守るべきなのじゃ」
「では」
「殿はその為に戦われますか」
「そして生きられるのですな」
「人としてどう生きるべきかもわかったうえでな」
これが幸村の言葉だった、そのうえで。
幸村は酒を飲みだ、その日は刺身を一切れも残さず十勇士達と共に楽しんだ。そのうえでその夜は寝てだった。
日の出と共に波止場の船に乗り込んだ、その船は中々の大きさで筋骨隆々の日に焼けた男達が乗り込んでいた。
その男達の中からだ、とりわけ大柄で髭の濃い男が幸村のところに来て言って来た。
「これから博多まで頼むな」
「うむ」
微笑んでだ、幸村も男に応えた。
「こちらこそな」
「こっちは村上の人間だ」
即ち村上水軍のというのだ。
「瀬戸内の海は庭みたいなものだ」
「だからだな」
「任せてくれよ」
「何もかもだな」
「昼も夜も進んでな」
そのうえでというのだ。
「あっという間に着くからな」
「博多までだな」
「そうさ、あんた達は寝ていてもいいからな」
「では全て任せたい」
「そういうことでな」
こうした話をしてだった、主従は船に乗ってだった。朝早くに博多へと出港した。
船は先に先にと進む、十勇士達はその青い海を見て口々に言った。
「海に出るのは久しいな」
「相模以来じゃな」
「あの時よりもな」
「ずっと長く海におることになる」
「酔わぬか不安じゃ」
「それが問題じゃな」
「ははは、それはな」
船酔いについてもだ、先程の船頭が話した。
「慣れだな」
「慣れか」
「慣れればか」
「もう酔わぬ」
「そうなるのか」
「そうさ、何度も吐いてな」
そしてというのだ。
「揺れに慣れるとな」
「もう酔わぬ」
「そうなるのか」
「何度も吐けば」
「それでか」
「わしにしてもな」
船頭は自分を親指で指し示しつつ話した。
「ガキの頃は何度も吐いたさ」
「そうしてか」
「船に慣れたのか」
「その揺れに」
「そうさ」
まさにという言葉だった。
「だからあんた達もな」
「酔いは慣れろ」
「吐いてか」
「そうしてか」
「そうだ、まあわしの見たところ」
こうも言った船頭だった。
「あんた達は大丈夫だな」
「酔わぬか」
「船の揺れにも」
「そうなのか」
「そんな感じだな、というかな」
主従全員を見ての言葉だ。
「あんた達は船酔い以上のことをしてきただろ」
「昔からか」
「そう言うのか」
「だからか」
「ああ、酔う位じゃな」
船でだ。
「潰れてたな」
「まあ確かにな」
「修行はしてきた」
「相当な、な」
「繰り返してはきた」
こう言うのだった、彼等も。
「海の揺れもか」
「何もないか」
「そうであればいいな」
「ははは、確かに瀬戸内の海は荒れる時は凄まじいが」
しかしとだ、船頭は彼等に笑って言った。
「御前さん達なら大丈夫じゃ」
「ではその時は」
「船の旅を楽しむか」
「博多までのそれを」
「そうするか」
「まあ御前さん達は博多に出るまではな」
それこそというのだ。
「仕事がないからな」
「楽にしていいか」
「揺れで困らないなら」
「酔わないなら」
「そうじゃ、気楽にしておれ」
笑って十勇士達に言う、そして。
幸村は既にだ、海を楽しげに見ていた。船頭はその彼には笑って言った。
「殿さんは気楽だな」
「酔わぬかどうかと気にしておらぬというのじゃあな」
「ああ、酔ってもいいのかい?」
「酔えばそれまでのこと」
泰然自若としての言葉だった。
「たったそれだけのこと」
「だからっていうんだな」
「うむ、酔うまではこうしてな」
「海を見て楽しむっていうんだな」
「そのつもりだ」
「肝が座ってるな」
「船酔いは死ぬまでに辛いというが」
「ああ、苦しむ奴はな」
実際にというのだ。
「相当さ」
「そうだな、しかしそもそもな」
「そもそも?」
「船の下は何か」
こう船頭に問うのだった、ここで。
「その板一枚下は」
「海さ、そしてな」
船頭は幸村の今の言葉にだ、笑って返した。
「地獄さ」
「そうであるな、ではな」
「酔いもか」
「恐ることはない」
「そもそも地獄のすぐ上にいるからか」
「ならもう小さなことであれこれ思わぬ」
「それでか」
「こうして海の景色を楽しむ」
その青い海を観るというのだ。
「空もな、むしろな」
「こうしたものを観られてか」
「最高の地獄じゃ」
それこそというのだ。
「これはな」
「言うな、殿さんみたいに肝が座ったのははじめて見た」
「左様か」
「地獄の上にいるってわかっていてそう言うなんてな」
「地獄に落ちるのも怖くないとか」
「相当なものだよ」
幸村に笑って言うのだった。
「そしてその意気が気に入ったぜ、じゃあ暇な時は飲むか」
「船に酔って酒にも酔うか」
「ははは、それもも白いな」
「その時は家臣の者達もか」
「一緒にか」
「我等は常に共にと誓い合っておる」
幸村は船頭にもこのことを話した。
「だからな」
「それでなんだな」
「こうした時は常に寝食を共にしておる」
「じゃあ一緒に飯を食ってか」
「酒も飲んでおる」
「よし、じゃあその時はな」
「宜しく頼む」
海を観つつこうした話をしたのだった、そして。
船旅ははじまったがだ、誰もだった。
船に酔うことはなかった、十勇士達はわりかし揺れる船の中でそれぞれの足でしっかりと立ったうえでこんなことを言った。
「別にのう」
「酔わぬな」
「心配していたが」
「特にな」
「そんなことはないな」
「わしの言った通りだな」
船頭も笑って彼等に言う。
「御前さん達は酔わぬ」
「そこまで身体は弱くない」
「だからか」
「酔わぬ」
「そうだというのだな」
「ああ、いい身体をしてるさ」
見ただけでもわかるまでにというのだ。
「船酔いどこの鍛錬を積んできていないってことだ」
「ならよいがな」
「ではこのままか」
「昼も夜も海を進み」
「そうしてか」
「博多に向かう」
「そうするんだな」
「そうだ、急ぐからな」
その船足はというのだ。
「すぐに着くさ」
「うむ、わかった」
「それではな」
「博多まで頼む」
「宜しくな」
十勇士達もそれぞれ言う、そして。
彼等も景色を見た、そこで言うことは。
「よいのう、海は」
「全くだ」
「普段山ばかり見ておるがな」
「海もよい」
「実には」
「奇麗なものだ」
こう言うのだった。
「大坂でも駿河でも相模でも北陸でも見たが」
「結構見ているじゃねえか」
「いや、普段は上田におる」
信濃の、というのだ。
「だからな」
「馴染みはないっていうんだ」
「御主達の様に海の中で生きている訳ではない」
「そういうことか」
「うむ、ただ水練はしておる」
そちらの修行はというのだ。
「泳げる時は毎日な」
「泳いでるんだな」
「春から秋までな」
「それはいい、ただ冬はな」
「水には入られぬな」
「それはここでも同じさ」
この瀬戸内でもというのだ。
「冬に海に入ったら死ぬぜ」
「凍え死ぬな」
「心の臓が止まってな」
その凍えのせいでだ、心の臓が止まってしまうのだ。そうなってしまってはもう死ぬしかないということである。
「そうなってしまうからな」
「では冬に海で戦があればな」
「海に落ちるなよ」
「他の季節の時以上に」
「本当に死ぬからな」
だからというのだ。
「それだけでな」
「わかった、では気をつけておく」
「そうしなよ」
「わかった、拙者は海での戦は知らんが」
「海の戦はかなり違うぜ」
陸のそれとは、というのだ。
「船と船で戦うからな」
「そこが全く違うな」
「だからわし等もいる」
水軍の者達がというのだ。
「そして御前さん達も送っているってことだ」
「そういうことだな」
「この前まで瀬戸内も物騒だった」
船頭は幸村にこうした話もした。
「海賊があちこちに隠れていた」
「そなた達も元はだったな」
「ああ、海賊だった」
実際にそうだったとだ、船頭もそのことを認めた。
「とはいっても罪のない奴は殺してないがな」
「積荷を程々に貰ってか」
「関所でも銭を貰うな」
「海でそれを貰う」
「それをしてたんだよ」
そうした海賊だったというのだ。
「わし等はな」
「そうだったのだな」
「それが毛利家に入ってな」
「水軍として働いていたか」
「そうしていた、そしてな」
「今はだな」
「わし等は毛利家に入り多くの海賊がそれぞれの大名家に入りな」
そうしてというのだ。
「もう海賊もいなくなった」
「従わぬ者達は討伐されたな」
「そうなった」
「それでも瀬戸内も落ち着いたか」
「もう海賊もいないさ」
「天下が泰平になり、だな」
「うむ、ここも落ち着いた」
この瀬戸内の海もというのだ。
「そうなったな」
「よいことだな」
「わし等も海賊をやるより今の方がずっといい」
「天下は泰平の方がよい」
「こうして海も普通二行き来出来るからな」
「そういうことだな」
「じゃあその穏やかになった海を進むからな」
そうするというのだ。
「怖いのは荒れる波だけだ」
「海賊はいないか」
「そうさ、若し来ても」
その海賊達が来てもというのだ。
「わし等がいる、安心せよ」
「拙者達も戦うが」
その時はと言った幸村だった。
「そうするが」
「ははは、客人を戦わせる奴がいるか」
船頭は幸村に笑ってこう返した。
「その時はわし等に任せろ」
「そう言うか」
「そしてそうやる」
言うだけでなく、というのだ。
「わかったな」
「では、か」
「ああ、任せろ」
また言うのだった、そうした話をしている中でも幸村は海を見ていた。その青く澄んでいる海を。
その海に海豚を見てだ、十勇士達は言った。
「おお、あれが海豚か」
「そうじゃな」
「魚とはまた違うな」
「うむ」94
こうそれぞれ言うのだった。
「あれが海の生きものか」
「鮫はもう見たが」
「海豚はああか」
「ああした姿をしておるか」
「さて、鯨はおるか」
こうした言葉も出た。
「鯨は観られるか」
「ここに出るか」
「ははは、鯨はな」
船乗りの一人が彼等に応えた。
「時たまじゃ」
「ここにもか」
「出るのか」
「実際にか」
「そうなのか」
「そうじゃ、しかしな」
それでもというのだった。
「ここには滅多に出ぬ」
「そうか、出ぬか」
「見たいと思っていたが」
「そうはならぬか」
「ははは、運がよければな」
その時はとだ、船頭は残念がる十勇士達に話した。
「観られるぞ」
「そうか、ではな」
「わし等の運に頼ろう」
「そして見れたら神仏に感謝じゃ」
「そうしようぞ」
「鯨はよい」
船頭は鯨について笑ってこうも言った。
「あれを一匹捕まえると村は一年遊んでいける」
「何と一匹でか」
「そうなるのか」
「そうじゃ、でかいうえにな」
それにというのだ。
「骨も髭も何でも使える、油もよいからな」
「それでか」
「村が潤ってか」
「一年遊んで暮らせる」
「そこまでになるのか」
「そうじゃ、本当にあんなよい海のものはない」
こうも言うのだった。
「どうも普通の魚とは違うがな」
「普通の魚と違うというと」
船頭の今の言葉にだ、穴山は首を傾げさせて言った。
「どういうことじゃ」
「わからぬのう」
由利も言うのだった、どうにもという顔で。
「鯨は魚ではないのか」
「魚であろう」
望月も同じ考えだった。
「水の中にいて泳いでおるぞ」
「そうじゃ、鰭があってな」
根津もその形から述べる。
「形も魚じゃ」
「あれで魚でないのならな」
清海は船の横を素早く泳ぐ海豚達を観ている、そのうえでの言葉だ。
「あの海豚もか?」
「それは違うであろう」
猿飛もこう言う。
「海豚も鯨も魚じゃ」
「さて、鯨には魚の文字が入っています」
伊佐は漢字から言った。
「では魚でしょう」
「そうじゃな、あれは魚に入る文字」
霧隠も言う。
「ではな」
「いや、どうも違う様じゃ」
ここで筧がいぶかしむ仲間達に言った。
「魚にはエラがあるが鯨や海豚にはない」
「そう、それじゃ」
船頭も筧に言う。
「鯨はどうも普通の魚と違うのじゃ」
「そうであるのか」
「鯨はまた別の生きものか」
「魚と違うのか」
「海におっても」
「海豚もな」
今十勇士達が観ているこの生きものもというのだ。
「どうも違うな」
「魚に見えるがのう」
「そうではないのか」
「別の生きものなのか」
「どうもな」
こう言うのだった。
「これがな」
「ううむ、わからぬ」
「魚にしか見えぬが」
「それが違うのか」
「とてもそうは思えぬが」
「その辺りはわしも詳しくないが伴天連の者でそう言う者もおった」
南蛮から来ている彼等の中にはというのだ。
「しかし海におって食えるのは確か」
「そのことはじゃな」
「同じじゃな」
「変わらぬな」
「そうじゃ、こう考えれば楽じゃ」
笑って十勇士達に言うのだった。
「若し鯨を観たら運がよいともな」
「成程のう」
「わかった、では鯨を観ることを楽しみにしつつな」
「博多まで行こうぞ」
「あの港までな」
十勇士達は船頭の言葉に頷き今は船で瀬戸内の海を進んでいた、船は昼も夜も進み一路博多を目指していた。
巻ノ四十七 完
2016・2・28