巻ノ五十四 昔の誼
家康はすぐに北条氏規に対して文を送った、その文は程なくその氏規の下に届いたが。
その文を受けてだ、氏規はその温厚な顔を曇らせて彼の家臣達に言った。
「竹千代殿の言われていることはもっとも、しかし」
「それでもですか」
「今の当家は」
「お館様は頷いてくれるが」
今の北条家の当主である氏直はというのだ。
「しかしな」
「大殿ですな」
「あの方が」
「うむ、どうしてもな」
氏規にとって兄である彼がというのだ。
「あの方がな」
「どうにもですな」
「戦にこだわっておられますな」
「今も尚」
「あくまで」
「戦をすれば」
秀吉、彼とだ。
「天下を相手にすることになる」
「流石に天下を相手にするとなりますと」
「勝てるものではありませぬ」
「ですから大殿にもです」
「考えをあらためて頂きたいですが」
「ですが」
「兄上、いや大殿は関白様をご存知でない」
秀吉、そして彼の勢力をというのだ。
「最早天下を一つにされる方じゃ」
「東国もですな」
「西国は既に一つにされました」
「箱根から西はそうなっております」
「それではです」
「東国もまた」
「そうなる」
間違いなく、というのだ。
「だからな」
「大殿はです」
家臣の一人が氏規に言って来た。
「例えどれだけの数の軍勢が来ようとも」
「守りきれると思われておるな」
「まず箱根があります」
相模と駿河の境にあるこの場所がだ。
「あそこはとかく険しいので」
「人が通ることは難しい」
「はい、ましてや大軍の通れるところではありませぬ」
まさに西国と東国を分ける場所だ、関東で乱が起こっても西国からは箱根がある為に軍勢を中々送ることが出来なかったのも事実だ。
「あの場所があり」
「そして北条の領地には多くの城がありな」
「どれも堅城で」
「尚且つ連携出来る様になっておる」
「はい、ですから」
「その城と城の守りでもな」
「強いと思われていますな」
氏政はとだ、この家臣はこのことも言った。
そのうえでだ、氏規にさらに言った。
「そして何よりも」
「この小田原の城じゃな」
「信玄公、謙信公がこれまで攻めてきましたが」
「どちらも防いだ」
「はい、寄せつけませんでした」
天下の名将であった彼等をというのだ。
「謙信公は関東の諸大名を集めたうえで取り囲んできましたが」
「そうであるな、確かにこの城程の城はない」
「はい」
「町全体を堀と石垣、それに壁で囲んでおる」
そうした城だというのだ。
「この様な城は明や南蛮では普通というが」
「本朝ではこの城だけですな」
「そしてここまで大きな城もな」
まさにというのだ。
「他にはない」
「だからですな」
「確かに天下の堅城じゃ」
氏規もそう見ている、小田原城はこれ以上はない城だというのだ。
「そう簡単に陥ちぬ」
「だから大殿もですな」
「この小田原城を頼られ」
「そして、ですな」
「関白様と戦われるおつもりですな」
「そうじゃ、しかし信玄公と謙信公が攻めて来た時は援軍が来た」
籠城する小田原城の外からというのだ。
「その時々結んでいた家なり北条の領地からな」
「それで防げましたな」
「援軍もあればこそ」
「それ故に」
「今回はそれは期待出来ぬ」
援軍はとだ、氏規は言い切った。
「大殿は徳川殿と思われているが」
「その徳川殿がですな」
「この様に関白様に従われよと言われている」
「それではですな」
「援軍にはなりませぬな」
「最初から援軍に来られるなら」
家康、彼の家がだ。
「わしにこの様に言われぬ」
「徳川殿は既に関白様に従っておられます」
「数年前とは違い」
「それではですな」
「援軍も」
「北条の領地の城も攻め落とされていく」
もう一つの援軍の出処も駄目だというのだ。
「大軍でこの城を囲み」
「その間にですな」
「他の大軍で他の城を攻め落としていく」
「それが出来るまでに大きい」
「関白様の軍勢は」
「だから勝てぬ」
氏規は看破した。
「とてもな」
「そのことを大殿にわかって頂き」
「ここは何としてもですな」
「関白様に従って頂く」
「お家を守る為に」
「そうしてもらいたい」
必ず、というのだ。
「戦になれば勝てる筈がない」
「では」
「殿はこれよりですな」
「大殿にお話をされますか」
「何としても」
「そうしよう、殿はもうおわかりじゃ」
氏直はというのだ。
「ならばな」
「後はですな」
「大殿ですな」
「あの方ですな」
「そして周りの者達じゃ」
氏政の側近達だというのだ。
「あの者達についてもじゃ」
「ですな、あの方々も」
「どうにもわかっておられませぬな」
「今の天下が」
「どうったことになっているか」
こうも言うのだった。
「わかっておられませぬな」
「残念なことに」
「家臣の方々も」
「どうにも」
「うむ、大道寺殿に松田殿もな」
家康は北条家の二人の家臣の名を出した、北条家でとりわけ力のある重臣達だ。
「何もじゃ」
「わかっておられぬ」
「だからですか」
「大殿もですな」
「あの様に」
「どうも北条家には大殿の周りには人がおらぬ」
難しい顔でだ、氏規は言った。
「今はな」
「人は城、でしたな」
家臣の一人がこの言葉をここで出した。
「信玄公のお言葉ですが」
「その通りじゃ、人はな」
「まさにですな」
「城ですな」
「如何なる堅固な城も人が守る」
「そういうことですな」
「そうじゃ、それは北条家も同じ」
武田家だけでなく、というのだ。
「やはり人が国を守るのじゃ」
「ですな、だからこそ」
「人がおらねばなりませぬ」
「北条家にしても」
「それでは」
「人がおらぬ」
また言った氏規だった。
「だから余計にじゃ」
「ではここは」
「何してもですな」
「関白様に従う」
「そうあるべきですな」
「そうしなければならぬ」
絶対にとだ、氏規は自身の家臣達に強い声で答えた。
「だからわしは動く」
「はい、それでは」
「何としてもですな」
「大殿にもお話しましょう」
「そのうえで大殿に上洛してもらいましょう」
「北条家の為に」
家臣達も言う、そして実際に氏規は小田原城の中でまさに走り回り何とか氏政の上洛をしてもらおうとしていた、だが。
その氏政自身がだ、牛規と氏直にこう言ったのだった。
「その必要はない」
「ですがそれは」
「何故行かねばならぬ」
己の前に控え言おうとする氏規に言うのだった。
「このわしが」
「ですが」
「それでもか」
「はい、こので上洛されねば」
「羽柴殿が納得せぬというのじゃな」
「降り従うべきです」
強い声でだ、氏規は氏政に言った。
「何としても」
「従えばどうなる」
氏政は傲然とさえしていた、主の座で堂々と座っている。
そうしてだ、こう氏規に言うのだった。
「我が家は」
「はい、その時はです」
氏規は今はそうした方がいいと考えこう氏政に答えた。
「相模、伊豆が安堵されます」
「羽柴殿の言葉じゃな」
「そうです、二国をと」
「では他の国はどうなる」
氏政はここでまた氏規に問うた。
「北条が治めるその国は」
「全て一旦関白様が召し上げられ」
「他の家のものになるな」
「そうなるかと」
「それでは何の意味もないわ」
氏政は吐き捨てる様にだ、氏規に言葉を返した。
「武蔵や上野を手放すのではな」
「ですが父上」
氏規を助ける様にだ、今度は氏直が氏政に言った。家督は継いでいるがそれでも主の座には座っていない。
「徳川殿も仰っています」
「羽柴殿に従えとじゃな」
「そうです、それがよいと」
「既にです」
また氏規が言って来た。
「関白様は惣無事令を出されています」
「天下にじゃな」
「この東国にも」
これに逆らい勝手なことをすれば成敗される、秀吉が事実上天下人として行ったことでありまさに公儀の行いだ。
「若しこれに逆らえば」
「北条は逆賊となりか」
「軍勢を向けられます」
「それがどうしたのじゃ」
氏政は微動だにせずまま氏規に返した。
「西国の軍勢が来ようともな」
「しかしその軍勢は」
「西国から来ても兵糧が続かぬ」
氏政はまずこのことから言った。
「遠いここにまで来てもな」
「だからすぐに帰ると」
「籠城しておればよい」
この小田原城にというのだ。
「それでじゃ」
「関白様の軍勢は帰ると」
「そうじゃ」
まさにというのだ。
「何ということはないわ」
「十万を超える軍勢が来ても」
「かつて謙信公もそれだけの軍勢で来られたな」
氏政は今度はかつてのことを話した。
「そして帰ったな」
「武田、今川の援軍も来て」
「兵糧も気になっておられたしな、謙信公は」
「では」
「同じことじゃ、遠くここまで来ても帰るしかない」
これが氏政の読みだった。
「攻めてきてもな」
「では」
「行かぬ」
氏政はまたしても言い切った。
「わかったな」
「しかし」
「上洛する使者はか」
「どうしても必要です」
「父上、ここはです」
また氏直が父に申し出た、弱気そうであるがそれでも引かないことを決めてそのうえでの言葉だった。目にもそれが出ている。
「拙者が行きますが」
「御主がか」
「はい、上洛して」
「羽柴殿に会うというのか」
「そうしてきます」
「ならぬ」
氏政は我が子にはこう言った。
「それはな」
「何故でしょうか」
「御主は北条家の主じゃ」
「だからですか」
「そうじゃ、北条家の主ならな」
それならばというのだ。
「領地からみだりに出るものではない」
「だからですか」
「新九郎、御主は行ってはならぬ」
こうはっきりと告げた。
「わかったな」
「では使者は」
「そうじゃな」
ここでだ、氏政は。
あらためて氏規を見てだ、彼に告げた。
「助五郎、御主が行け」
「それがしが、ですか」
「そうじゃ、それで御主からわしの考えを羽柴殿に伝えよ」
「従わぬと」
「東国は東国じゃ」
やはり胸を張って言うのだった。
「西国とは関係ない」
「さすれば」
「惣無事令なぞ知らぬ」
「そのこともですか」
「羽柴殿にお伝えせよ、そしてじゃ」
氏政はさらに言った。
「もう一つやることがある」
「まさか」
「沼田を取り戻すぞ」
上野にあるその場所をというのだ。
「真田家が居座っておるな」
「しかしそこのことは」
「まずはか」
「はい、折角それがしが上洛しますので」
「羽柴殿に話すというのじゃな」
「そして仕置をしてもらえれば」
「それでは同じじゃ」
氏政は氏規のその案も突っぱねた。
「それもな」
「そう言われますか」
「それでは結局あの惣無事令に従うということじゃな」
「それはそうですが」
「ならよい、真田家とは直接話をしてな」
そしてというのだ。
「返さぬのならな」
「その時にですか」
「兵を出す、わかったな」
「左様ですか」
「御主はわしの考えだけを伝えよ」
上洛して秀吉にというのだ。
「わかったな」
「さすれば」
「その様にせよ、よいな」
「わかりました」
止むを得ない顔と声でだ、氏規は氏政に応えた。そうするしかなかった。氏直もこれ以上は言えなかった。そしてだった。
氏規は止むを得なく彼が上洛することにした、それで小田原を発ち駿府に向かうが。
駿河に入るとだ、その国境にだった。
鳥居が兵達と共に待っていてだ、彼に挨拶をしてから言った。
「殿がお待ちです」
「徳川殿が」
「はい、まずは駿府においで下さい」
「そうして宜しいのですか」
「殿が是非です」
それこそというのだ。
「駿府に来て頂きたいとです」
「言われているのですか」
「はい、ですから」
「それでは」
「はい、お迎えに参りました」
こう氏規に言うのだった。
「案内致しますので」
「では」
氏規は断るのも失礼にあたると思いそれに幼い頃共にその駿府にいた家康と会いたくもなってだ、それでだった。
鳥居の申し出を受けることにした、こうしてだった。
氏規は彼の連れている者達と共に鳥居の案内を受けて駿府まで向かいその駿府に入った。そして城の中でだ。
家康の心からの歓待を受けた、家康は彼を親しく迎え宴も用意してくれていた。氏規はまずはその宴を楽しんだ。
しかしだ、家康に茶室に案内されそこで茶を飲んでいる時にだ、こう言ったのだった。
「残念ですが」
「北条とのは、ですか」
「来られませぬ、そして沼田をです」
「攻められるというのですか」
「その様に言われています」
「それはなりません」
すぐにだ、家康はこう言った。
「断じて」
「左様ですな」
「今からでも遅くはありません」
家康は氏規に言った。
「北条殿を説得して」
「そうしましたが」
「聞く耳を持たれていませぬか」
「どうしても、そして」
「沼田にもですか」
「攻め入るおつもりです」
「そこまでしますと」
それこそとだ、家康はさらに言った。
「取り返しがつかぬことになります」
「まさにそうですな」
「お止めになることです」
釘も刺した、言葉で。
「断じて」
「それがしもそう思いますが」
「どうしてもですか」
「はい」
無念の声でだ、氏規は家康に言った。
「大殿は」
「そうなのですか」
「これでは」
「はい、残念ですが」
家康も言うのだった。
「これではです」
「戦になりますな」
「それでは関白様は納得されません」
家康ははっきりと言った。
「あの方は」
「やはりそうですか」
「あの方は天下統一を目指されています」
「東国も含めた」
「無論です」
言うまでもないという口調の返事だった。
「それは」
「そうですか」
「はい、ですから」
「北条家も従わねばですな」
「納得されません」
絶対にという口調での返事だった。
「あの方は」
「やはりそうですか」
「何でしたらです」
家康は決意している顔でだ、氏規に述べた。
「拙者が小田原に行きますが」
「そしてですか」
「北条殿とお話します」
是非にという口調での言葉だった。
「そうします」
「そうされるのですか」
「はい、そうです」
こう言うのだった。
「そして何としても」
「ここはですか」
「戦を避けるべきです」
何としてもという口調でだ、家康は氏規に言うのだった。
「必ず」
「そうですか、しかし」
「それでもですか」
「竹千代殿が行かれましても」
難しい顔でだ、氏規は家康に答えた。
「そうされてもです」
「聞かれませんか」
「あの方は」
「では」
「これでは滅びますな」
氏規はあえてだ、家康にこの言葉を出した。
「必ず」
「拙者もそう思いまする」
「何とかしたいですが」
「しかしこのままでは」
「戦は避けられないですね」
「そうなります」
間違いなく、というのだ。
「これでは」
「それでは」
「何としてもです」
家康はまた氏規に言った。
「北条殿を説得して下さい」
「戻ってでも」
「そうされるべきです」
「ですか」
「本当に何でしたら」
それこそとだ、家康はまた氏規に言った。
「拙者も小田原に行きます」
「しかし」
「関白様のお考えはお話した通りです」
「従わねばですな」
「納得されませぬ」
「さすれば」
「行く用意はすぐに整います」
家康は氏規にこうも言った。
「小田原に」
「ですか」
「どうされますか」
「竹千代殿のお言葉は承りました」
しかと、とだ。氏規は家康に答えた。
「しかし」
「それでもですか」
「はい、無駄です」
「左様ですか」
「竹千代殿の義は覚えておきまする」
「それは嬉しいことですが」
「それでもです」
それでもとだ、また言った氏規だった。
「大殿、兄上は考えを変えられませぬ」
「既に新九郎は」
「あの方は竹千代殿と同じお考えです」
主である彼はというのだ。
「関白様に従われるおつもりです」
「やはりそうですか」
「天下は定まると」
「新しい世に気付かれていますな」
「早く生まれられただけに」
「それは有り難きこと、では」
家康はここまで聞いて氏規にこう約束した。
「拙者、新九郎殿と民、そして北条家は」
「お守り頂けると」
「はい」
約束の返事だった。
「そうさせて頂きます」
「そうですか」
「必ずや」
「ですか」
「しかしです」
「領地はですな」
「もう相模、伊豆もです」
この二国もというのだ。
「最早です」
「守りきれませぬか」
「そうなります」
このことも言うのだった。
「これでは」
「やはりそうですか」
「はい、ただ」
「ただ、とは」
「一旦降りです」
そしてとだ、家康は戦になった時のことも氏規に話した。それからのこともだ。
「それから許されるでしょう」
「北条家自体は」
「はい、少なくとも新九郎殿はです」
彼はというのだ。
「あの方はです」
「まだですね」
「はい、国持大名としてです」
「遇して頂けるというのですか」
「そうなります、しかし」
それでもというのだ。
「やはり相模、伊豆はです」
「守れませぬか」
「そうなるかと、最悪でも一万石はです」
大名としての最低限の石高である。
「許してもらえるかと」
「そうですか」
「家だけは残ります」
北条家はというのだ。
「大名として」
「そうですか」
「はい、何とか」
「ですか、しかしです」
「北条殿は、ですな」
「どうしてもわかって頂けません」
首を横に振ってだ、氏規は家康に話した。
「ですから」
「では」
「もうこうなってはです」
「助五郎殿がですか」
「上洛してそして」
そのうえで、というのだ。
「関白様にお会いします」
「そうされますか」
「そしてです」
さらに言うのだった。
「何とか。それがしが出来る限りでです」
「関白様にお話してですか」
「そしてです」
「納得して頂きますか」
「そうします」
「わかり申した、ですがそれでは」
「出来る限りのことをします」
氏規はこうも言った。
「そのうえで何とか」
「そうされますか。ではそれがしも」
「竹千代殿もですか」
「新九郎殿は娘婿、それに助五郎殿とはです」
氏規自身にも言うのだった。
「幼き頃よりの仲、それでは」
「お助け頂けますか」
「約束致します」
是非にという返事だった。
「その様に」
「かたじけない、それでは」
「はい、お願いします」
「それがしも約束します」
天下一の律儀者としてだ、家康は約束した。
「何とか致します」
「では」
「少なくとも新九郎殿のお命と北条家の存続はです」
「守って頂けますか」
「この命にかえても」
こう旧友に約束するのだった、そして実際にだ。
家康は氏規に付き添い上洛して秀吉に話した、秀吉は顔はにこやかに氏規も家康も迎え家康の話を聞いたが。
それでもだ、石田や大谷達にはこう言った。
「戦じゃな」
「そうなりますか」
「北条殿が上洛されなかったから」
「そうなりますか」
「ここは」
「うむ」
その通りという返事だった。
「わしは言ったな」
「はい、北条殿に上洛せよと」
「その様にです」
「確かに言われました」
「その様に」
「これは命じゃった」
頼みではなく、というのだ。
「関白、天下人としてのな」
「北条殿はそれに従わなかった」
「だからですか」
「成敗致しますか」
「兵を送り」
「しかも沼田に兵を進めるそうじゃな」
秀吉はさらに言った。
「そうじゃな」
「どうやら」
「その様ですな」
「まだ確かなことはわかっていませんが」
「それでもです」
「北条家は動きな」
そしてとだ、秀吉も言う。
「沼田を攻める、若し攻めれば」
「その時はもうですか」
「看過しませぬか」
「成敗じゃ」
北条家をというのだ。
「そうなっては許さぬ、助五郎殿にはそのことも聞こう」
「沼田のことも」
「後で、ですか」
「そこれあやふやな返事をしたならな」
その時はというのだ。
「やはりな」
「攻めますな」
「その時は」
「その場合もな、しかし助五郎殿は傑物」
それ故にというのだ。
「下手な返事はしまい、だからな」
「沼田次第ですか」
「あの地を攻めればですな」
「惣無事令に反しますから」
「公儀に逆らったとして」
「戦じゃ」
成敗のそれに移るというのだ。
「わかったな」
「では」
「その時を見据えて」
「今からですね」
「戦の用意をしておきますか」
「わかったな、もっとも主が上洛せぬことは」
北条家の事実上の主である氏政がだ、関白である秀吉の命にも関わらずそれでも来ないことはというのだ。
「既に、じゃがな」
「ですな、これはです」
石田が言う。
「最早半分」
「戦がはじまったな」
「そうなりましたな」
こう秀吉に言うのだった、石田も。
「そう思うしかありませぬ」
「そういうことじゃな」
「では」
「うむ、わしも出陣する」
秀吉自らというのだ。
「九州の時と同じくな」
「そして、ですか」
今度は大谷が言った。
「天下を一つにする」
「そうする、わかったな」
「はい」
大谷は秀吉に確かな声で応えた。
「さすれば」
「その様にしていこうぞ」
「畏まりました」
「さて、北条家とは戦になるとしてな」
秀吉はこのことを決まったとしたうえでさらに話した。
「東国は関東だけではない」
「みちのくですな」
これまで黙っていた鋭い目の男前田玄以が言って来た。
「あちらですな」
「そうじゃ、あちらもじゃが」
「はい、では」
「伊達家じゃ」
秀吉はこの家についても言及した。
「やはり来ぬな」
「伊達殿御自らは」
「やはりな、では関東だけではなくなるな」
秀吉はここで笑みを浮かべてこう言った。
「あの独眼竜がわしが見立てた者でなければ」
「関白様、伊達殿はです」
石田は秀吉のその笑みを見るとすぐに言葉を出した。
「天下を狙っております」
「御主はよくそう言うな」
「北条殿は関東のみ、しかし」
「あの者はじゃな」
「天下を狙っています」
「即ちわしの首をか」
「はい」
まさにというのだ。
「ですから」
「あの者はか」
「成敗されるべきです」
こう秀吉に進言するのだった。
「何があろうとも」
「佐吉、それは手厳し過ぎるのではないか」
その石田にだ、大谷が忠告した。
「御主はいつもそう言うが」
「厳しいというのか」
「そうじゃ、別に滅ぼすこともなかろう」
「いや、伊達殿は危うい」
石田は大谷にも言う、何も臆することなく。
「それは徳川殿とて同じ」
「関白様の天下にか」
「後々牙を剥くやも知れぬ」
「だからか」
「今のうちに除くべきじゃ」
政宗だけでなく家康もというのだ。
「さもなければ厄介なことになる」
「だからといって成敗するとはな」
「やり過ぎというか」
「確かにわしもお二方には危ういものを感じる」
大谷にしてもだった、実際のところ政宗や家康には天下を狙う野心やそれが出来る力があることを見ている。
しかしだ、それでもというのだ。
「だが別に成敗することもない」
「転封すればか」
「それで住むであろう」
「伊達殿は米沢からか」
「他にな」
「徳川殿もか」
「そう考えるが。わしは」
「ははは、ここは桂松の言う通りにしよう」
秀吉は二人の話を聞いて笑って言った。
「わしも考えておった」
「では」
「うむ、北条家との戦になってもな」
それでもというのだ。
「伊達家は来るであろう、そしてな」
「その伊達家とですな」
「竹千代殿もな」
家康もというのだ。
「その様にしようぞ」
「さすれば」
「まあ今のままなら大丈夫じゃ」
秀吉は少なくとも今は落ち着いていた、完全に。
そしてだ、周りの者達にこう言ったのだった。
「もうすぐ天下は成る、だからな」
「後はですな」
「天下統一からですな」
「この国をどう治めるか」
「そのことですな」
「それも考えていこう、小竹と利休もおる」
秀長と利休、今はこの場にいない二人もというのだ。
「何かと話していこう、では御主達は御主達のことをせよ」
「はい、それでは」
「その様にします」
「そしてです」
「戦の用意も」
「その様にな」
こう話してだ、そしてだった。
秀吉は石田達のところから己の御殿大坂城本丸にあるそこに入った、そして正室である北政所ねね、見事な服を着ているがざっくばらんで百姓の女房の様な顔と雰囲気の彼女に尋ねた。
「捨丸はどうじゃ」
「元気ですか」
「おおそうかそうか」
そう聞いてだ、秀吉は笑みになった。
そしてだ、ねねにこうも問うたのだった。
「そしてじゃな」
「茶々殿も」
「それは何よりじゃ」
目を細めさせて言うのだった。
「では今日は御主と共にいよう」
「おや、私とですか」
「うむ、共にいよう」
「茶々殿ではなくて」
「やはりまずは御主じゃ」
笑ってねねにさらに言う。
「わしの女房はな」
「またそう言って浮気を隠しますか?」
「ははは、わしは浮気はしてもな」
それでもというのだ、ねねの横にどっかりと腰を下ろして。
そのうえでだ、こう言ったのだった。
「第一はな」
「私ですか」
「そうじゃ」
何といってもというのだ。
「他にはいらぬ」
「そうじゃあ」
「さて、今夜はな」
「私のところで」
「飲むか」
「そしてお話しますか」
「共にな、しかしな」
ここでだ、また言った秀吉だった。
「近頃どうも母上がな」
「お身体が優れぬと」
「それが気になる、小竹もな」
秀長のことも言う。
「何か身体が悪いな」
「確かに。そう言われますと」
実際にとだ、ねねも応える。
「お義母上も小竹殿も」
「二人共じゃな」
「そう思います、私も」
「わしは母上を大事にしたい」
心からだ、秀吉は言った。
「子としてな」
「ご苦労もかけたので」
「そうじゃ、やはり親を大事にせねばな」
それこそというのだ。
「人ではなくなる」
「だからこそ」
「そうしたい、そして小竹はわしの弟」
真剣な顔になってだ、秀吉はねねに話した。盃はねねが出してくれたがそれはまだ口をつけてはいない。
「ずっと共にいて欲しい」
「では」
「薬を差し入れるか」
腕を組んでだ、秀吉は言った。
「そうするか」
「高麗から取り寄せた人参よ」
「ああ、今は朝鮮というぞ」
「高麗ではなくですか」
「あの国は名前が変わった」
「高麗ではなく」
「もう何百年も前に変わっておった」
高麗からというのだ。
「そうなった」
「そうでしたか」
「しかし。人参じゃな」
「あの薬の方の」
普通に食べているそれでなく、というのだ。
「あの人参を差し入れますか」
「これまで何本も差し入れておるがな」
「この度もですか」
「そうするか、あとな」
秀吉はさらに言った。
「捨丸はこれからもな」
「大事にされますか」
「うむ」
その通りにするというのだった。
「若し捨丸がおらぬと」
「跡を継ぐのは」
「おらぬ、いや」
「はい、治兵衛殿がおられます」
秀次の名をだ、ねねは出した。
「あの方が」
「そうじゃな、わしにはあ奴もおる」
「ですから」
「小竹もそう言っておる」
「若しもの時は」
「あ奴が跡を継ぐべきとな」
「ですから」
それでというのだ。
「不安にならないことです」
「そうじゃな」
「それに捨丸殿も」
彼のこともだ、ねねは秀吉に話した。
「お元気ではありませぬか」
「それはその通りじゃ」
「ではお悩みにならずに」
「このままじゃな」
「はい、天下を歩まれて下さい」
「これまでそうであった様にな」
秀吉はねねのその言葉に頷いた、そしてだった。
そのうえでだ、彼は妻にもこう言ったのだった。
「御主とずっと一緒じゃったな」
「そうでしたね、ずっと」
「御主と一緒になった時は」
お互いに若かった時のこともだ、秀吉は笑って話した。
「粗末な家に住んでおったな」
「尾張の長屋の」
「足軽が住むな」
「そうでした、ですが」
「それでもじゃな」
「とんとん拍子に出世して」
「今では関白じゃ」
笑って自分から言った。
「それも御主や小竹達がいてこそじゃ」
「そう言われますか」
「わし一人でここまでなるか」
絶対に、という言葉だった。
「それは絶対にない」
「そうですか」
「うむ、だから皆長く生きて欲しい」
母親も秀長も我が子もというのだ。
「皆な」
「全くですね」
「誰もがな、しかし人はわからぬ」
今度は瞑目する様な顔になってだ、こうも言った秀吉だった。
「何時死ぬか、それが心配じゃ」
「ですからそう言われると」
「わかっておる、ではな」
「それはお止めになって」
「飲むか」
「肴はどうしますか」
「それは簡単でよい」
笑顔に戻ってだ、秀吉はねねに返した。
「今日はな」
「では干し魚を」
「煮干じゃな、あるか」
「はい、これからお出しします」
「昔はその煮干もな」
「贅沢でしたね」
「ははは、足軽だった頃はな」
秀吉はまたその頃のことを話した。
「とてもだったな」
「煮干がない時も多く」
「そしてでしたね」
「しかし今は煮干も食える」
それもというのだ。
「それも何時でもな」
「有り難いことですね」
「全くだ」
こうも言ったのだった。
「これ以上満足すべきことはない」
「そうですね、挽き米も」
「それもじゃ」
秀吉の好物であるそれもというのだ。
「何時でも食える、それでわしは満足しておるところもある」
「そうですね、私も」
「そうじゃな、しかしな」
「はい、天下を手に入れられれば」
「わしはこのままでよいが」
「お母上が」
「もっとよい暮らしも出来るしのう、何よりも天下が泰平になり」
そしてというのだ。
「誰もが穏やかに暮らせる」
「そうした世になりますね」
「そして笑顔が増える」
泰平になって穏やかな世になればというのだ。
「わしは人の笑顔が大好きじゃ、天下の笑顔を見る為にも」
「是非共」
「一つにするぞ」
「わかりました、では」
「うむ、また戦になるだろうが」
「行ってらっしゃいませ」
ねねは夫に煮干も差し出しつつ応えた、秀吉はその煮干も食べながらだった。酒を楽しみこの日は彼女と共に過ごしたのだった。
巻ノ五十四 完
2016・4・19