巻ノ六十 伊達政宗
秀吉はこの日も上機嫌だった、だがこの日はまた別だった。
秀長は共に朝食を摂る時からだ、兄を窘めていた。
「兄上、お顔がです」
「緩んでおるか」
「はい」
こう言うのだった、共に麦飯を食いながら。
「今日は特に」
「楽しみで仕方なくてのう」
「伊達政宗に会うからですか」
「そうじゃ」
まさにという返事だった。
「一体どういう者かとな」
「会うのが楽しみで、ですか」
「うむ、そうじゃ」
仕方ないというのだ。
「うきうきしておるのじゃ」
「それでもです」
「顔がか」
「全く、緩むにも程がありますぞ」
「安心せよ、その時になればな」
「引き締まるのですな」
「そうじゃ」
笑ったまま言うのだった。
「そうなるからな」
「それがしの心配は無用ですか」
「左様、御主は見ておれ」
「そう言われますとです」
秀長は兄の言葉に一呼吸置いてから答えた。
「それがしも兄上を知っております故」
「ならばじゃな」
「はい、これ以上は言いませぬ」
こう兄に言った。
「兄上ならばです」
「何だかんだでそう言ってくれるのう」
「長い付き合いですので」
秀長もここで笑った、彼の笑みは優しい微笑みだった。
「ですから」
「わしをわかってくれているからじゃな」
「左様です、では」
「うむ、ここは任せてもらうぞ」
「さすれば」
「さて、その伊達政宗じゃがな」
母が漬けてくれた漬けものをおかずに食べつつだ、秀吉は秀長に話した。
「ここでわしの膝を屈してもな」
「それでもですな」
「それで心から屈したかというと」
「違いますな」
「あの者はそうした者ではない」
それはもうわかっているという返事だった。
「そんなやわな者ではない」
「左様ですな」
「すぐに心からなびかぬわ」
「今日だけではですな」
「それこそ何年かかってもな」
「そう簡単にはですな」
「心服する者ではない」
政宗の本質をだ、秀吉はもう見抜いていた。彼がどれだけ野心の大きな者であるかはわかっているのだ。
「到底な」
「ですな、これからも隙あらばですな」
「天下を狙う」
「兄上の天下を」
「そうした者じゃ、そしてじゃ」
さらに言う秀吉だった。
「今の考えだがな」
「この関東のこともですな」
「奥羽のこともじゃ」
そちらもというのだ。
「考えておる」
「戦の後のこともですな」
「戦が終わって万事解決ではない」
むしろだった。
「戦の後の政じゃ」
「それが大事ですな」
「そうじゃ、だからじゃ」
「今の時点で考えておられますか」
「大坂の近くには厄介な者は出来るだけ置きたくない」
秀吉は今は真顔だった、それだけ真剣な話というのだ。
「だからな」
「東国に、ですな」
「関東と奥羽にじゃ」
「それぞれですな」
「厄介な者を置き」
そのうえでというのだ。
「その厄介者を見張るな」
「そうした者もですな」
「置きたい」
「では」
「その話は後じゃ」
今ではないというのだ。
「後で話す」
「小田原が陥ちるまでにはですな」
「話したい、御主ならばこそな」
「話せることですか」
「そうじゃ、やはり御主は必要じゃ」
弟の顔を切実な目で見つつ言った言葉だ。
「わしにはな」
「有り難きお言葉」
「しっかりと食べておるか」
まるで子供に言う様な言葉だった、今のは。
「そして酒も控えてよく寝ておるか」
「そうしておりまする」
「また痩せた気がする」
秀長を見ていると、というのだ。
「だからな」
「それで、ですな」
「心配になるわ、御主と捨丸に死なれては」
それこそとだ、また言った秀吉だった。
「わしは困る、だからな」
「それがしはですな」
「何時までもわしの傍にいてくれ」
願う様な言葉だった。
「よいな」
「そうする様にします」
「頼むぞ、この戦で終わりではないからな」
「政のこともですな」
「そうじゃ、御主がいてこそのわしじゃからな」
それでというのだ。
「生きよ、いいな」
「わかりました」
秀長は兄の言葉に頷きはした、だが秀吉の心配は晴れていなかった。しかしその晴れない気持ちは今は押し隠してだ。
そしてだ、朝食を終えてだった。身支度を整え。
政宗を出迎える用意に入った、そこで。
秀長達に上座からだ、こう言った。
「ではこれよりじゃ」
「はい、伊達殿が来られます」
家康が言ってきた、場には秀長と彼の他には織田信雄もいるが信雄はこれといって話をしようとはしない。
「間もなく」
「そうであるな」
「では」
「うむ、通せ」
その政宗をというのだ。
「従っている者達もな」
「片倉小十郎殿と伊達成実殿も」
「二人共じゃ」
こう家康に答えた。
「是非な」
「さすれば、ただ」
「ただ?」
「何やら様子がおかしいです」
家康はここでこうしたことをだ、秀吉に話した。
「もう既に来られていますが」
「それでもか」
「ここで着替えをしてくると言われ」
「実際にか」
「着替えておられます」
政宗はというのだ。
「それで遅れています」
「ほう、そうか」
そう聞いてだ、秀吉は笑ってまた言った。
「それは楽しみであるな」
「楽しみですか」
「うむ」
実にという言葉だった。
「伊達政宗は傾奇者、それ故にじゃな」
「傾くと」
「だからな」
それでというのだ。
「ここは思いきり傾くつもりじゃな」
「傾きますか」
父によく似た流麗な、しかし実はそれだけでしかない顔である信雄が言ってきた。彼は織田家の者として言った。
「織田家の者と同じく」
「茶筅殿も思い出すな」
「はい」
かつての家臣の上からの言葉に反発を覚えつつも頷く。
「それは」
「織田家は傾奇の家」
「それ故に」
「それを見ることも多かった」
それ故にという言葉だった。
「伊達政宗もそうしてくるな」
「ではどうされると」
家康は秀吉に彼と信雄の間のことはあえて無視して問うた。
「関白様は思われますか」
「ここは死に場所だからな」
政宗にとってはというのだ。
「それかのう」
「といいますと」
「まあ今は言うまい」
ここからはあえて言わない秀吉だった。
「ではな」
「これよりですか」
「会うとしよう、連れて来るのじゃ」
こう言ってだ、そしてだった。
秀吉は政宗を片倉、成実と共に案内させた。そうして。
その政宗が来た、その彼の姿を見てだった。
秀長も家康も息を呑んだ、傾きに慣れている筈の信雄もそうなりかけた。何とこの時の政宗の格好はというと。
死装束だった、伊達家の水色ではなくだ。白いそれだった。
その身なりで胸を張って本陣の中に入りそしてだった。
無言で秀吉の前に膝を屈する、その政宗にだ。
秀吉はにこやかに笑ってだ、こう言ったのだった。
「立つがいい」
「はい」
「よく来た」
次にこの言葉をかけたのだった。
「待っておったぞ、しかし待ち過ぎてじゃ」
「それで、でありますか」
政宗は立ちながら秀吉に応えた。
「関白様は」
「痺れを切らすところじゃった」
「お待たせして申し訳ありません」
「よいよい、しかし見れば見る程格好がよい」
己の前に立つ政宗を見ての言葉だ。
「傾奇者よの、そしてな」
「そしてですか」
「御主の名がそのまま格好よさじゃ」
「それになると」
「うむ、男伊達じゃ」
秀吉はこうも言った。
「それじゃな、よい格好よさじゃ」
「お褒め頂き何よりです」
「御主の様な者に刃を向けずに済んでよかった」
秀吉はさらに言う。
「まことにな、ではな」
「はい、さすれば」
「これより北条攻めに加わってもらう」
彼が連れて来た軍勢もというのだ。
「よいな、ではじゃ」
「はい、存分に戦わせてもらいます」
「その様にな」
こうしてだった、政宗は秀吉の下に降ることにより家を守った。この時家康は無言で始終政宗を見ていたが。
秀吉は政宗と会った後でだ、秀長と二人になり彼に言った。
「では話そう」
「朝飯の時のことをですな」
「関東は竹千代殿じゃ」
家康にというのだ。
「任せる、そしてな」
「伊達家はですか」
「米沢ではなくだ」
伊達家の旧領から離してというのだ。
「仙台に行かせようぞ」
「そうされますか」
「野心がある」
それを見抜いている言葉だ。
「あのまま米沢、会津に置いてはな」
「そこを地盤として」
「隙があれば動く」
「隙がなくともですな」
「隙を作ろうとする」
策を仕掛けてというのだ。
「あの者はそうした者じゃな」
「そうかと」
秀長もこう答えた。
「あの左目を見ますと」
「強い目じゃったな」
「はい、実に」
「あれこそ竜の目じゃ」
政宗が独眼竜と呼ばれているからこその言葉だ。
「野心に満ちたな」
「ですな、だからこそ」
「あの者はそのままにしておけぬ」
「転封ですな」
「仙台までな」
「そして会津にですな」
「忠三郎じゃな」
蒲生氏郷、彼だというのだ。
「あの者を入れよう」
「会津に」
「そしてじゃ」
さらに言った秀吉だった。
「関東の竹千代殿じゃが」
「むしろですな」
「伊達家より危ういと思わぬか」
「はい」
「竹千代殿は確かに律儀じゃ」
家康のこの徳分は天下によく知られている、この戦国の世にあってとかく約束を守る。義理堅い者として知られている。
「天下一のな」
「律儀殿ですが」
「しかしじゃ」
それでもというのだ。
「わしに何かあればじゃ」
「野心はですな」
「あの御仁も持っておる」
「天下へのそれを」
「家臣も揃っておる」
家康の下にはというのだ。
「武辺者にじゃ」
「近頃は本多親子も加わりましたし」
「それにじゃ」
さらにというのだ。
「南光坊天海という坊主が入ったな」
「かなりの学識の持ち主だとか」
「そう聞いておる、東国でな」
「これまでは武辺の家でしたが」
「知恵袋も揃ってきた、それにじゃな」
「はい、以心崇伝ですが」
秀長の方からこの僧の名前を出した、それも剣呑な顔で。
「この者はです」
「確かに学識はあるそうじゃな」
「しかし僧侶でありながらです」
「徳はないか」
「そこが天海殿とは違う様です」
この僧とは、というのだ。
「陰険にして目的の為には手段を選ばぬ」
「そうした者じゃな」
「曲学阿世の者と聞いています」
秀長の知っている限りだ。
「中には天魔外道ともです」
「言われておるか」
「はい」
「その者が徳川家に入ったか」
「かなり厄介かと」
「では、じゃな」
「はい、徳川殿は駿府に置いたままではです」
そうしていればというのだ。
「厄介です」
「地盤をさらに固めてじゃな」
「伊達家以上にです」
「危ういな」
「だから兄上のお考えはです」
家康を関東に転封させることはというのだ。
「よいかと」
「そうじゃな」
「はい、そして徳川殿は常にです」
「大坂に置くべきか」
「地元に置いてはです」
関東、そこにというのだ。
「あの御仁は政も見事なので」
「地盤をすぐに固めるな」
「そして力を蓄えます」
そうなることが目に見えているというのだ。
「ですから徳川殿はです」
「大坂にじゃな」
「留めておきましょう」
「そうじゃな、それがよいな」
「他の大名も領地と大坂、都を行き来させてです」
「そうして金を使わせてな」
「力を削ぐべきですが」
とりわけ、というのだ。
「徳川殿はです」
「別格じゃな」
「そうです、ですから」
「出来るだけ力を溜めさせずにおくか」
「そうしましょう」
「ではな」
「はい、そしてですが」
秀長は秀吉にさらに言った。
「それがしが何かあれば」
「竹千代殿、そして伊達もか」
「止めまする」
断固とした言葉だった。
「そうしますので」
「わかった、ではな」
「何がありましても」
「御主が生きておる限りはか」
「無闇なことはさせませぬ」
絶対にというのだ。
「お任せ下さい」
「では何としても生きよ」
こう返した秀吉だった。
「御主はな」
「そうします」
「わしの命じゃ」
まさにというのだ。
「そしてな」
「兄上の天下のですな」
「柱じゃ」
それだというのだ。
「大黒柱はわしじゃが」
「その兄上をですか」
「支える柱じゃ」
「だからこそですか」
「死ぬのは許さぬ」
断じてという言葉だった。
「だからよいな」
「わかりました、ですが」
「利休のことか」
「はい、兄上は近頃利休殿を疎んじておられますが」
「どうもな」
秀長には嘘は言えない、こう判断してだった。秀吉は秀長に対してはありのまま隠さず言うことに決めた。
それでだ、秀長にはっきりと答えたのだった。
「あ奴は力を持ち過ぎておる」
「茶の道を通じてですか」
「そうじゃ、多くの者があ奴を慕って集まりじゃ」
利休のその周りにというのだ。
「奴の言うことを聞く様になっておるな」
「だからですか」
「力を持ち過ぎておってじゃ」
「兄上の天下を脅かすと」
「いや、あ奴には野心はない」
秀吉はこのことも見抜いていた、利休を疎んじているのは確かだがそれでもその目はしかと見ているのだ。
「それはない」
「はい、利休殿は野心はありません」
「ただ茶の道を進んでおるだけじゃ」
「あの御仁は求道者です」
「そうじゃ」
まさにというのだ。
「それに他ならぬ」
「天下を望まれていないのなら」
「違う、わしに謹言するのはいいが」
それを受ける器は秀吉にある、しかしというのだ。
「わしの言うことを聞かずじゃ」
「勝手にですか」
「茶の道を進みさらに力を持ちじゃ」
「かつての寺社の様な」
「そんな力を持つのではないか」
「だからですか」
「あ奴は危ういと思っておる」
どうにもというのだ。
「わしに従おうとしなくなりこれ以上力を持てば」
「兄上の天下の邪魔となる」
「だからじゃ」
「利休殿は、ですか」
「そう思っておるが御主はか」
「利休殿はその様に考えておられませぬ」
確かに相当な力を持っているがというのだ。
「求めるのは茶の道だけであり」
「力を持っていてもか」
「それを兄上に反する様に使うことはです」
「ないか」
「そうしたことは思っておられませぬ」
「御主はそう見ておるか」
「兄上、疑いの心が強くなっておりまする」
兄、秀吉のその目を見ての言葉だ。
「ですから」
「この様に言うというのか」
「はい」
その通りという返事だった。
「利休殿は決してです」
「そうしたことはせぬか」
「そうした方ではありませぬ」
利休の本質を語り彼を庇うのだった。
「兄上にはそれがしだけでは足りませぬ」
「利休もか」
「お二人がいてこそです」
「政が成るか」
「ですから」
「利休もか」
「大事にされて下さい」
兄上に頼み込む言葉だった。
「必ず」
「そうせよというか」
「はい、そして」
「そしてか」
「治兵衛をです」
羽柴秀次、二人の姉の子であり甥である彼をというのだ。
「大事にされて下さい」
「あの者をか」
「はい、こう言っては何ですが捨丸は何時どうなるかわかりませぬ」
幼子は何時死ぬかわからないというのだ。
「それがしにも子がおりませぬし」
「いざという時はか」
「はい、治兵衛しかおりませぬ」
だからだというのだ。
「あの者を大事にされて下さい」
「そうせよというか」
「あれでそれなりの器の持ち主です」
秀次のその器量も見てだ、秀吉に話すのだった。
「政も軍もです」
「確かにそつがないな」
秀吉も認めることだった、このことは。
「小牧では遅れを取ったがな」
「あれは相手が悪うございました」
「竹千代殿だったからか」
「はい、徳川殿ならば負けても仕方がありませぬ」
秀吉と同じだけの名将と言われている彼にはというのだ。
「ですから」
「あれは仕方がないな」
「はい、むしろです」
「政も戦もそつなくこなせるからか」
「人も上手に使ったうえで。しかも人に慕われてもいますし」
「何かあればか」
「兄上の次に、そして」
秀長はさらに言った。
「一度決められたら」
「治兵衛をわしの次にか」
「絶対に変えられぬ様」
このことも念押しした、利休のことと同じ様に。
「もうないやもですが兄上にまたお子が出来ても」
「それでもか」
「はい、治兵衛に決めましたら」
「治兵衛で行くべきか」
「若し兄上が変えられるというのなら」
「その時はか」
「それがしが必ず止めまする」
やはり利休のことと同じくというのだ。
「治兵衛についても」
「そうか」
「茶々殿の」
秀吉の数多い側室の中でもとりわけ彼の寵愛が深い者だ、実は彼のかつての主織田信長の妹であるお市の方と浅井長政の間の長女だ。
「あの方についてもです」
「茶々もか」
「何があってもです」
「あ奴についてはか」
「勝手にはさせません」
絶対にというのだ。
「そうします」
「そうか」
「それがしは羽柴家の為ならです」
「そしてわしの為ならか」
「全てを賭けまする」
例え何でもするというのだ。
「兄上がご気分を害されても」
「そうか、では頼むぞ」
「それがしがそうしたことをしてもですか」
「御主ならいい」
秀吉は厳しいことをあえて言う弟にだ、笑って言った。
「それならな」
「そう言われますか」
「御主のことはよくわかっておる」
兄弟だけにというのだ。
「それだけにな」
「だからですか」
「そうじゃ、御主には私がない」
野心やそうしたものがというのだ。
「御主については断固としてそう信じられる」
「弟であるが故に」
「わしが危うい時はいつも助けて庇って守ってくれた」
秀吉もここに至るまで幾度も死地を乗り越えてきた、その時にいつも秀長が傍にいてくれていたのである。
それでだ、秀吉もこう言うのだ。
「その御主、たった一人の弟である御主の言うことならじゃ」
「信じて下さいますか」
「絶対にな、だからな」
「それでは」
「うむ、これからも頼む」
「では」
「御主の言うことなら何でも聞こうぞ」
こう言ってだった、秀長の話を聞くのだった。今もまた。
秀吉は秀長の言葉を聞きつつ小田原城を囲み続けていた、だが。
小田原城は囲まれる中で日に日に憔悴感を募らせていった、城の外の大軍を常に見てそのうえで、である。
「また城が一つ陥ちたか」
「しかも自分達から開城したか」
「もう残っている城は少ないぞ」
「砦もな」
北条家のそうしたものがというのだ。
「相模も武蔵もな」
「他の城の城や砦がな」
「どんどん西国勢の手に落ちていっておる」
「このままではこの城だけになるぞ」
「小田原城だけにな」
「しかもだ」
北条家の者達はここで羽柴家の付け城を見た、秀吉が瞬く間に築いたその城を。
そのうえでだ、あらためて言うのだった。
「あの城があるからな」
「敵は何年でも囲むつもりだ」
「その間に敵は他の城をどんどん陥としていく」
「それではな」
「我等はどうなる」
「裏切り者の噂もある」
「何時城の門が勝手に開けられるか」
「わかったものではないぞ」
口々に話すのだった、そして。
氏政もだ、今は難しい顔になってだった。家臣達に問うていた。
「どうすべきと思うか」
「これからですか」
「これからどうすべきかですか」
「城を囲まれたままですが」
「他の城はどんどん陥ちていますが」
「それをどうすべきか」
「密かに寝返りを企んでいる者もおるそうじゃな」
ここでだ、氏政は。
その目を鋭くさせてだ、家臣達を見回した。
そのうえでだ、こう言ったのだった。
「そうじゃな」
「そ、それは」
「関白の謀です」
「まさか殿に二心を抱く者なぞいる筈がありません」
「断じて」
「だとよいがな」
氏政は疑う声であった、明らかに。
その疑う声で家臣達を見回してだ、あらためて言ったのだった。
「この小田原城が陥ちたことはない」
「はい、一度も」
「それはありませんでした」
「一度もです」
「ありませんでした」
「上杉謙信も武田信玄でも無理だった」
攻め落とせなかったというのだ。
「そうじゃな」
「はい、全く」
「この城は決して攻め落とされませぬ」
「それだけの城です」
「それに外にも」
「まだ城が残っておる」
だからだというのだ。
「その城達からじゃ」
「はい、必ずですな」
「この戦は勝ちますな」
「最後に勝つのは我等」
「左様ですな」
「安心せよ、勝つのは我等じゃ」
自分に言い聞かせる様にだ、氏政は言った。
「わかったな」
「ですが父上」
ここでだ、氏直が父である氏政に言った。当主であるが次席であり上座にはあくまで氏政が座っている。
「その城もです」
「既にというか」
「半分以上が陥ちておりまする」
その状況を言うのだった。
「ですから」
「降るべきか」
「そう思いまするが」
「その必要はない」
これが氏政の返事だった。
「一切な」
「ですが」
「安心せよ、全ての城が陥ちぬ」
小田原城の外のだ。
「そして小田原を囲む敵もな」
「何時までもですか」
「幾ら付け城を持っていてもな」
それでもというのだ。
「何年も囲めるものではない」
「では」
「待てばよいのだ」
「敵が去るのを」
「そうじゃ、待てばじゃ」
「それで、ですか」
「勝つのは我等となる」
「だからこそ」
「待つのじゃ」
また言った氏政だった。
「ここはな」
「それでは」
「降らぬ」
何があろうともとだ、我が子に告げた。
「わかったな」
「それでは」
「御主は見ておればよい」
こう言って氏直の意見を退けようとする、だが。
氏直の周りにいる者達はだ、氏政に口々に言った。
「大殿、そう言われますが」
「今降れば相模と伊豆は安堵してもらえます」
「だからです」
「ここはもう降るべきでは」
「関東の城は次々と攻め落とされていますし」
「上野や武蔵は諦めましょう」
「相模と伊豆で相当です」
「関白様に従いましょう」
氏直と同じことを言うのだった。
「最早天下は定まっています」
「だからもうです」
「降りましょう」
「二国で」
「何を言うか、北条家は東国の覇者であるぞ」
氏政はこの誇りを捨てずに言葉を返す。
「わし等は」
「だからですか」
「ここは何があろうともですか」
「降らぬ」
「そう言われますか」
「そうじゃ、降るものか」
やはりだ、絶対にというのだ。
「関東全土が当家のものとなるのならな」
「では」
「まだ籠城を続けますか」
「そうされますか」
「このまま」
「うむ、そうしていくぞ」
氏政がこう言うとだ、家老衆から松田憲秀と大道寺政秀が言ってきた。彼等が氏政に言うことはというと。
「大殿の言われる通りです」
「籠城を続けましょう」
「西国の軍勢はやがて去ります」
「何時までも囲めませぬ」
「そうしましょうぞ」
「もう少しの辛抱です」
こう言うのだった、そして。
氏政はその彼等の言葉を聞いてだ、意を決した顔で言った。
「よし、ではこのままいこう」
「籠城ですか」
「それを続けられますか」
「このまま」
「そうされますか」
「うむ」
断を下した、そしてだった。
北条家は籠城を続けた、だが。
その夜秀吉は城からの密使に会っていた、そしてだった。
密使と会った後でだ、秀長を呼んで彼に話した。
「よきことじゃ」
「実際に城の中からですか」
「寝返りの話が来た」
「どの者からですか」
「家老衆から二人、松田という者と大道寺という者じゃ」
「あの二人ですか」
その二人の名を聞いてだ、秀長も思わず声を挙げた。
「北条家の家老衆の中でもです」
「強い力の者達じゃな」
「そしてです」
秀長はさらに言った。
「篭城策をです」
「言っておるな」
「はい」
その通りというのだ。
「まさに」
「その二人がじゃ」
「内通をですか」
「言ってきた」
そうだというのだ。
「これがな」
「それはまた」
「驚いたな」
「まさかとです」
思っているというのだ。
「内通を申し出る者が出るとは思っていました」
「そうじゃな、御主も」
「はい、まさに」
「この申し出は大きいな」
「では内通の申し出を」
「受けぬ」
これが秀吉の返事だった。
「それはせぬ」
「何故ですか、それは」
「ははは、これを公にするのじゃ」
「小田原の方に言うのですか」
「そうじゃ」
まさにというのだ。
「それを言えばどうなるか」
「それは」
秀長にもわかった、このことは。
「あの二人は力も大きく」
「強硬派じゃな」
「籠城派です」
「その二人が内通を言うのじゃ」
「それが公に出れば」
「小田原は揺れる」
秀吉は言った。
「だからじゃ」
「内通に応じずにですか」
「そうじゃ、公にするのじゃ」
「また凄いことをされますな」
「こうしたことは楽しんでこそじゃ」
笑みを浮かべてだ、秀吉は弟に話した。
「謀はな」
「いつも通りですな」
「そうじゃ、敵を乱し徹底的に弱める」
「そして戦わずして勝つ」
「その為のものだからじゃ」
だからこそというのだ。
「謀もふんだんに使うが」
「どういった謀を仕掛けるか考えそれを実行するのも」
「楽しんでこそじゃ」
「まさにですな」
「そうじゃ、ではよいな」
「はい、兄上の思われるままに」
このことについてはこう答えた秀長だった。
「されて下さい」
「それではな」
こうしてだった、実際にだ。
秀吉は松田、大道寺の内通には応じず逆にそれを公にした。しかもその内通の文を氏政に送った。その文を読んでだった。
氏政は文を持つ手どころか身体全体を震わせてだ、己の前にいる家臣達に言った。
「これはじゃ」
「間違いなく、ですか」
「お二人の文」
「左様ですか」
「二人の字じゃ」
松田と大道寺、二人のだ。
「確実にな」
「まさか」
「お二人が内通なぞ」
「籠城を主張されたのですが」
その二人こそがというのだ。
「そしてご家老衆の中でも重き方々」
「その方々が内通とは」
「信じられませぬ」
「まさか」
「わしもじゃ」
氏政も呆然として言う。
「この様なことになるとは」
「これではです」
「一体誰が信じられるか」
「よもやと思いますが」
「これでは」
「御主達はどうなのじゃ」
氏政は股肱の臣達をだ、あからさまに疑う目で問うた。
「大丈夫か」
「我等代々北条家の臣です」
「長きに渡って北条家の禄を頂いております」
「ですからそれは」
「ないですが」
「あの二人もそうであった」
松田、大道寺もというのだ。
「しかしじゃぞ、ましてやじゃ」
「まして?」
「ましてといいますと」
「一体」
「親兄弟はどうじゃ」
こう彼等に言うのだった。
「御主達の」
「それは」
「何といいますか」
「そう言われますと」
「それは」
「わからぬ」
どうにもという返事だった。
「そうではないのか」
「いや、それはです」
「まさかと思いますが」
「それはです」
「幾ら何でもです」
「しかしです」
「お二人のことがありますから」
彼等もだ、お互いにだった。
顔を見合わせてだ、それぞれだった。
猜疑の顔で見合いだ、こう言い合った。
「御主大丈夫か」
「貴殿こそ」
「内通しておらぬな」
「関白殿と」
「まさかと思うが」
「いや、まさかではないやもな」
「父上、これでは話になりませぬ」
氏直は家臣達が互いに言い合い状況を見てだ、氏政にすぐに言った。
「ですから」
「この場はじゃな」
「話を終わりにしましょう」
「わかった、ではな」
氏政もそうするしかないと思った、それでだった。
この場はお開きとした、しかし。
二人の内通の話に小田原城は秀吉の読み通り大いに揺れ動いてだった、お互いにそれこそ親兄弟の間で疑い合い言い合う状況になっていた、そして。
無駄に神経をすり減らしていった、兵が城門の方に来ればだ。
すぐにだ、別の兵がその彼にこう言った。
「御主門を開けるつもりか」
「何故そうなる」
「知れたこと、関白に内通してじゃ」
そしてというのだ。
「門を開き敵を城の中に入れるのではないのか」
「馬鹿を言え、何故わしがそうする」
「内通してじゃ」
秀吉にというのだ。
「それでじゃ」
「御主わしを疑っておるのか」
「違うか」
「だから馬鹿を言えと言ったのだ」
それこそというのだ。
「わしはそんなことをせんわ」
「絶対にか」
「そうじゃ、絶対にじゃ」
「そう言って松田様と大道寺様は裏切ったぞ」
「わしをお二人と一緒にするな」
「そう言えるのは何故じゃ」
「わしが裏切らぬからじゃ」
こう無意味に言い合いだ、そしてだった。
彼等は内心疑い合った。それが城のあちこちで起こっていた。こうしたことが。
その状況を見てだ、氏直は彼の家臣達に暗い顔で言った。
「これではじゃ」
「はい、最早ですな」
「どうにもなりませぬな」
「城は守れませぬ」
「どう考えましても」
「人の心がこうまで乱れては」
そうした状況になったからというのだ。
「どうにもならぬ」
「ではこのままでは」
「内から崩れる」
「そうなりますか」
「そうしかならぬ」
最早とだ、氏直は無念の顔で答えた。
「これではな」
「では」
「若殿はやはり」
「大殿に」
「何度も申し上げよう」
苦渋に満ちた顔で言った。
「そして家だけはな」
「守りますか」
「北条家を」
「そうしますか」
「そうしようぞ」
こう言うのだった、そのうえで。
氏政の下へ向かう、その夜のことだった。
幸村は信之に呼ばれてあることを告げられた、その告げられたことはというと。
「忍城にですか」
「そうじゃ、わしと御主がな」
「軍勢を連れてですか」
「援軍に向かえとのことじゃ」
このことを告げるのだった、弟に。
「そうなった」
「そうですか、では」
「明日の朝発つ」
信之は弟に告げた。
「そうするぞ、わかったな」
「はい、それでは」
「日の出と共に発つが」
「飯は、ですな」
「朝は干し飯じゃ」
これを食うというのだ。
「そのうえで進むぞ」
「一刻も早くですな」
「発つ」
飯を炊いて食うと時間がかかる、だから干し飯を食うというのだ。
「よいな」
「わかり申した」
「そしてじゃ」
さらに言う信之だった。
「忍城に着いたらじゃ」
「はい、石田殿そして義父上と」
「我等は浅野殿の下に入る」
秀吉の重臣の一人である彼の下にというのだ。
「そのうえで戦う」
「浅野殿のですか」
「浅野殿からの要請じゃからな」
「我等を忍城にというのだ」
「そうじゃ、忍城は滅法手強くてな」
「まだ陥ちておらぬとは聞いています」
「そうじゃ。水攻めを防ぎ」
そしてというのだ。
「それからもな」
「防いでおられるのですか」
「だからじゃ」
「我等もですな」
「援軍に行くことになったのじゃ」
「甲斐姫ですか」
忍城のその猛者の名をだ、幸村は言った。
「あの姫とも会いますか」
「腕が鳴るか」
「必ず勝ちそして」
「そのうえでじゃな」
「忍城も攻め落とします」
「ではな」
「参りましょう」
その忍城にというのだ、幸村は信之に応えて言った。そのうえで二人は今は家臣達と共に寝てだった。日の出と共に干し飯を食ってすぐに忍城に向かった。
巻ノ六十 完
2016・6・5