巻ノ六十五 大納言の病
大谷は確かな声でだ、一行に話した。
「大納言様の件、真実じゃ」
「左様ですか」
「あの方は今病の床にある」
「そしてその病は」
「死病じゃ」
こう幸村に答えた。
「都で噂になっているのはそうしたものであろう」
「左様でした、そして」
「利休殿もじゃな」
「関白様の勘気をこうむられたといいますが」
「色々と行き違いがあってな」
「それが為に」
「そちらも噂通りじゃ」
都でのそれは間違っていないというのだ。
「間に入られる大納言様がそれでじゃ」
「では」
「わしも佐吉もとりなそうとしておるが」
それでもとだ、大谷はこのことは無念の顔で述べた。
「我等と大納言様は全く違う、井戸と針位にな」
「それで関白様を」
「お止め出来ぬ」
目を閉じ無念の顔になってだ、大谷は述べた。
「しかも捨丸様もな」
「そのこともなのですが」
「やはり噂の通りじゃ、近頃急にじゃ」
「病にですか」
「罹られてな」
そのうえでというのだ。90
「やはり危うい」
「そうですか」
「関白様も困っておられる」
「大納言様、捨丸様のことで」
「実は利休殿とのこともじゃ」
「ご本心ではですか」
「収めたいと思われておるが」
しかしというのだ。
「間に入ってくれる者がおらずな」
「大納言様が病で」
「出来ずにおる、それでな」
「今の大坂は」
「騒がしくなっておる、正直困っておる」
「では義父上も」
「言った通りじゃ、手はない」
自分達ではというのだ。
「どうにもな」
「では」
「うむ、近々大納言様が身罷われる」
このことは避けられないというのだ。
「そしてな」
「利休殿も」
「捨丸様もじゃ」
秀吉の子であるこの幼な子もというのだ。
「幼な子は病にかかると早い」
「まさにすぐにですな」
「七つまでは安心出来ぬ」
「どうしてもですな」
「だからな、あの方もな」
「では関白様の周りには」
「我等がおるが」
しかしとだ、大谷はさらに言った。
「わかっておる、わしや佐吉では約不足じゃ」
「それは」
「大納言様とは違う」
それも全くという言葉だった。
「関白様にとっては井戸と針じゃ、針はどうにでも手に入るが」
「井戸はそうならぬと」
「その井戸を三つ失えば」
「あの方にとって大きいですか」
「特に大納言様じゃ、わしも気付かなかったか」
「病にですか」
「罹られていたのじゃ、関白様も東西より取り寄せた薬を差し入れておられるが」
その薬でもというのだ。
「どうにもな」
「死病であるが故に」
「どうにもならぬわ」
「ですか」
「これからだというのに」
大谷はここでも難しい顔で言った。
「大納言様のお力が必要なのは」
「天下の執権としてですな」
「関白様を支え天下の支えになる為にな」
「政において」
「天下を磐石にする為に欠かせなかったが」
その秀長がというのだ。
「天下統一の後すぐにとは」
「無常ですか」
「無常じゃ」
まさにとだ、大谷は幸村に答えた。
「まさにな、だがな」
「天下はですな」
「何とかせねばならぬ」
秀長が亡くなろうともというのだ。
「わしと佐吉も大納言様に呼ばれ言われた」
「天下のことをですか」
「関白様を助けて治めよとな」
「では」
「我等はこれからも励む、大納言様のお心は継ぐ」
「それでは」
ここでだ、幸村は大谷にこう言ったのだった。
「義父上、お言葉ですが」
「何てもいい、申してくれ」
「義父上は十万石、治部殿は十九万石」
「関白様をお助けするにはか」
「力が弱いと思いまするが」
こう大谷に言うのだった。
「どうにも」
「うむ、それで関白様から加増の話があったが」
「では」
「受けなかった」
その加増の話をというのだ。
「わしも佐吉もな」
「そうなのですかl」
「我等はそれには見合わぬ、むしろな」
「加藤殿、福島殿ですか」
「あの者達に力があった方がよい」
秀吉の家臣達の中で血気と武が前に出た者達がというのだ。
「わし等よりもな」
「いざという時はですか」
「そう思ってじゃ」
「加増の話を断られたのですか」
「御主は徳川殿、伊達殿のことを言っておるな」
「お二人はどうも」
「力が強いな、野心もな」
少し瞑目してだ、大谷は言った。
「伊達殿は明らか、徳川殿もな」
「天下について」
「何処かお持ちであろう、そして機があれば」
「その野心がですな」
「首をもたげることもな」
「ありますな」
「わしもそう思う」
実際にというのだった、幸村に。
「だからじゃな」
「いざという時に義父上、治部殿がと思ったのですが」
「そう思ったのは見事じゃ、しかしな」
「義父上達よりも」
「虎之助や市松達が力を持つ方がよい」
加藤、そして清正がというのだ。
「武断の者達がな、しかもあの者達は忠義の者達じゃ」
「関白様の為に命を投げ出す」
「それが出来る、若し何かあろうとも」
「関白様をお助けするからですか」
「よい、そして関白様の跡じゃが」
大谷は幸村にこちらの話もした、言うまでもなく幸村の後ろに控え茶も馳走になっている十勇士達にもである。
「治兵衛様じゃ」
「あの方ですか」
「うむ、関白様の跡を継がれる」
「あの方ならば」
幸村は伝え聞く秀次の人となりから大谷に答えた。
「問題ないかと」
「御主もそう思うな」
「はい、確かに」
「わしもそう思う、やはりな」
「捨丸様がおられなければ」
「あの方じゃ」
秀次、彼だというのだ。
「あの方で決まりじゃ」
「では」
「うむ、大納言様もおられなくなり利休殿も危ういが」
「しかしですな」
「あの方が何とかおられる」
「それでは」
「何とかなるであろう」
天下が一つになったこれからもというのだ。
「この天下を磐石とすべきじゃ」
「戦をせずに」
「もう戦はよい」
大谷は戦については即座に言った。
「一つになった天下は治めるべきでな」
「ここで戦をしては」
「それが出来なくなる」
戦の方に治めるべき力を注ぎ込んでしまってである。
「そうなるからな」
「だからだ」
「戦はせず」
「政じゃ」
まさにそちらにというのだ。
「力を注がねばな」
「ですな、しかし」
「このことはか」
「もう言うまでもなく」
それでというのだ。
「当然そうあるべきとです」
「関白様もお考えというのじゃな」
「そうでは」
「いや、あの方は大きな方じゃ」
「といいますと」
「実は明も征服し呂宋まで手に入れられてな」
「何と、明までも」
その話を聞いてだ、幸村も驚いて言った。
「あの大国までもですか」
「征服されるおつもりじゃ」
「そしてですか」
「うむ、南京に入られそこから治められるおつもりなのじゃ」
「それはまた途方もない」
「そう思うな、しかしな」
大谷は幸村に明のことを話した、そのことはというと。
「近頃明がおかしい」
「そうなのですか」
「うむ、聞いたところによるとあの国の皇帝は政を見ぬ」
そうだというのだ。
「全くな、後宮から出ず政は動かず碌でもない者達が国を動かし民を虐げる様なことばかりしておるという」
「そういえば明は」
言われてだ、幸村はこのことを思い出した。
「前の歴代の王朝は」
「そうであるな、常にな」
「宦官なり外戚なりが幅を利かし」
「国を腐らしてな」
「そこから乱れていますな」
「そして易が変わっておる」
「易姓がですな」
幸村は古書から学んだことを言った。
「いつもそうなっていますな」
「だからじゃ」
「明もですな」
「そうなっておる、それ故にな」
「ここで、ですか」
「関白様は勝てると思われておる」
それ故にというのだ。
「以前から我等には唐入りを言われておった」
「明にまで攻め込まれ」
「そう考えておられる、しかしな」
「明が腐っているとはいえ」
「そうじゃ、大きい」
あまりにもとだ、大谷も言う。
「だから戦になればな」
「途方もない力を使い」
「政どころではない」
「これからは政の時ですが」
「それでじゃ、わし等もな」
「若し関白様がそうされれば」
「お止めせねばならんが」
だがそれはと言うのだった。
「それはな」
「大納言様でないとですか」
「出来ぬ、どうもな」
「義父上、治部殿でも」
「出来ぬのじゃ」
「ですか」
「どうしたものか」
大谷はここでは目を閉じて言った。
「全く以てな」
「まさかそうしたことがあるとは」
「思わなかったな」
「はい、とても」
「大納言様なら間違いなく止められる」
秀吉が戦をしようとしてもだ。
「そして政に打ち込む様にして下さるが」
「その大納言様がですか」
「最早幾許もない」
その余生はというのだ。
「それは間違いない」
「ですか」
「昨日も見舞いに参上したが」
「お顔にですか」
「もう死相が出ておられた」
既にというのだ。
「だからな」
「間違いないですか」
「そうじゃ、これでわかったな」
「はい、それでは」
「よく来てくれた、そしてな」
「このことはですな」
「他言は無用じゃ」
このことだ、幸村に念押しさせた。
「これでな」
「そうですか」
「うむ、では今日は休むか」
「一日ここに留まり」
「そして耳を利かすつもりであったか」
「そのつもりでした」
「ではそうせよ」
大谷も止めなかった。
「そして都に戻るな」
「そのつもりです」
「ではその様にな、それで土産を持って来た様だが」
「治部殿にと思っていましたが」
「しかしあの者はそうしたものは好まぬ」
つまり受け取らないというのだ。
「決してな」
「やはりそうですか」
「わしもじゃ、だからな」
「それはですか」
「まあわしから誰かに渡しておくが」
「では」
「その様にしてよいか」
こう幸村に申し出た。
「これから」
「お願い出来ますか」
「ではな」
「はい、それではお願いします」
幸村もそれでいいとした、そしてだった。
「その様に」
「ではな、ではな」
「はい、今後も」
「宜しく頼む」
「都において」
「何かあれば来てくれ」
その都度というのだ。
「何でも話そう」
「そうして頂けるのですか」
「父と子じゃ」
義父と娘婿であろうともだ、大谷は幸村に話した。
「だからな」
「何でもお話して頂けますか」
「それが親子ではないのか」
微笑みさせしての言葉だった。
「だからな」
「そうして頂けますか」
「息子達にもそうしておるしな」
大谷の実の、だ。彼にはそうした息子もいるのだ。
「関白様、そして佐吉にもな」
「治部殿にもですか」
「あ奴はまさに竹馬の友じゃ」
「近江の頃からのお付き合いと聞いていますが」
「そうじゃ、思えば長い付き合いじゃ」
笑っての言葉だった、ここでも。
「お互い幼い頃よりじゃからな」
「そのお付き合い故に」
「わしはあ奴にも何でも話す」
「そうされていますか」
「常にな」
「そうなのですか」
「他の者には話さぬ」
心を割って全てはというのだ。
「御主達だけじゃ」
「そうなのですか、では」
「また何かあれば来てくれ」
「そうさせて頂きます」
「わしからも呼ぶことがあるかも知れんしな」
こうも述べた大谷だった。
「宜しく頼むぞ」
「では」
「これからも親子としてな」
「共に」
二人は誓い合いもした、この日は大坂に留まり次の日に都に戻ることにした、そのことを決めてからだった。
一行は大谷の屋敷で稽古に励んだ、木刀や槍を手に縦横に剣術や槍術、それに忍術の鍛錬をするが。
幸村は大谷と槍術の稽古をした、幸村は稽古の時も両手にそれぞれ一本ずつ槍を持ち縦横に振るう。その槍を一本の槍で受けてだった。
大谷は幸村にだ、確かな声で言った。
「うむ、見事」
「よいですか」
「わしでは受けるのが手一杯じゃ」
まさにというのだ。
「最早な」
「はい、殿の槍はです」
「まさに天下一かと」
「我等もそう思いまする」
二人の稽古を見ていた十勇士達も言う。
「我等も殿には敵いませぬ」
「槍ではとてもです」
「それぞれの武芸ならともかく」
「槍と馬術ではです」
この二つの武芸ではというのだ。
「とても敵いませぬ」
「そして軍学についてもです」
「殿は孫呉の兵法に通じておられ」
「学問も立派なので」
「我等ではとてもです」
敵わないというのだ。
「学問もです」
「我等は殿に及びませぬ」
「あらゆる書を常に読まれていて」
「恐るべき教養も備えておられます」
「文武両道か、さらによい」
大谷は十勇士達の話を聞いて確かな顔で頷いた。
「武芸もよいが軍学、そして学問もな」
「どれもですな」
「備えてこそじゃ、しかし御主は」
ここで幸村を見据えてこうも言った。
「政については」
「そちらは」
「不得手か」
「父上、兄上には及びません」
「やはりそうか」
「どうにも」
「それなりにそつなく出来る様だが」
それでもとだ、大谷は幸村を見つつ言った、稽古は今も続き三本の槍が激しく打ち合って音を立てている。
「それ以上ではないな」
「どうにも」
「御主は強者じゃな」
「そちらですか」
「武芸、そして軍学の者じゃ」
「その道に生きる者ですか」
「必ずや」
それこそと言うのだった。
「天下一の武士となる」
「なりますか」
「必ずな、御主はなる」
まさにというのだ。
「そしてそれを目指してな」
「精進をせよというのですか」
「これからもな」
「はい、それがし鍛錬はこれからも」
「欠かさぬな」
「例え何がろうとも」
「書を読み武に励め」
是非にと言うのだった。
「よいな」
「さすれば」
幸村は大谷に頷いた、そのうえで稽古で汗をかいた。それから風呂にも入り夜は酒を飲んだが。
大谷は十勇士達と共に飲む幸村のところに来てだった、曇った顔でこう告げた。
「大納言様のことが伝えられた」
「大坂城からですか」
「うむ、やはりな」
「死病ですか」
「年を越せても」
それでもと言うのだった。
「弥生まではな」
「もちませぬか」
「その様じゃ」
「そうなのですか」
「残念なことにな」
「ですか」
「人の寿命はどうにもならぬ」
幸村の隣に座りだ、大谷は無念の顔で述べた。
「捨丸様もまたな」
「あの方もですか」
「折角天下が一つになったというのに」
大谷は眉を顰めさせてまた言った。
「大納言様がおられなくなる」
「それが天命なのでしょうか」
「そうであろうか、しかしな」
「関白様、天下にはですな」
「大納言様はさらに必要であられるというのに」
秀長が天命で死ぬとはだ、大谷は考えたくはなかった。それで幸村にも言うのだった。そしてその義父にだった。
幸村は杯、酒を入れたそれを差し出し言った。
「今は」
「飲んでか」
「はい、お心を安らかにされて下さい」
「そうすべきか」
「そう思いまする」
「ではな、貰おう」
大谷も幸村の言葉を受けてだ、それでだった。
その杯を受け取り飲んだ、そのうえで幸村にあらためて言った。
「後はわしが入れる」
「ご自身の杯にですか」
「そうする、だから気遣いは無用じゃ」
「さすれば」
「ではじゃ」
「はい、それでは」
幸村も義父の言葉に頷いた、そしてだった。
彼は以後は十勇士達と共にそれぞれの杯に自分で注ぎ込み飲んだ、義父に倣ってだ。そしてその彼にだった。
大谷はここでだ、こう言ったのだった。
「言っても仕方ないし考えても仕方ない」
「そう思われましたか」
「もう思わぬ、それよりもじゃ」
「これからのことをですな」
「考えることにしよう」
これが大谷が至った結論だった。
「天下のことをな」
「では」
「うむ、わしは佐吉と共に関白様をお助けする」
「そしてですな」
「天下を無事に治めていこう」
「ですな、それではです」
「前を向いていこうぞ、何があろうともだ」
こう幸村に言うのだった、そして。
自から杯に酒を入れてだ、そのうえでまた飲んでから言った。
「では明日じゃ」
「日の出と共にこの者達と戻ります」
「ではまたな」
「はい、大坂に参りますので」
「その時はな」
「宜しくお願いします」
二人で話してだった、幸村はこの日は十勇士達そして彼の義父と共に飲み次の日の朝日の出を見て都に戻った。
それからは普通に務めた、だが。
彼が去った後の大坂その城の中でだった、秀吉は床に伏す秀長の枕元に座ってだ、彼に苦い顔で言った。
「安心せよ、病はじゃ」
「いえ、もうです」
「わかるというのか」
「はい、起き上がることが出来ませぬ」
それ故にとだ、秀長は答えた。
「粥すら喉を通りませぬ」
「そうか」
「ですからもう」
「長くないというのか」
「それがしの命は間も無く尽きます」
「御主はわしの弟じゃ」
それ故にとだ、秀吉はその弟に苦い顔のまま言った。
「だからわしより先に死ぬな」
「それがしもそう思っていましたが」
「何故こうしたことになるのか」
今度は無念の顔でだ、秀吉は言った。
「人の世はわからぬ、捨丸もじゃ」
「では」
「うむ、最早な」
我が子のことも言うのだった。
「折角出来た子なのにな」
「五十で」
「それがな、わしは子宝にだけは恵まれなかった」
天下人になり思い通りにならぬものはないまでになろうともというのだ。
「それでようやく出来た子が、そして弟がな」
「しかしこのことは」
「仕方がないというのか」
「はい」
その通りという返事だった。
「そうなのです」
「そう言うのか」
「そう言うしかありませぬ」
「あれだけ神仏に願い薬も送ったが」
「それでもですな」
「助からぬとはな」
「それがしがそうした運命だったのでしょう、ですが」
秀長は兄に顔を向けた、そのうえで彼に言った。
「これからは佐吉と桂松達を助けにし」
「そのうえで天下を治めよというのじゃな」
「はい、二人をそれがしと思い」
「そして利休もじゃな」
「お許しになって下さい」
利休、彼をというのだ。
「是非」
「そして跡継ぎは治兵衛じゃな」
「あの者なら大丈夫です」
だからだというのだ。
「何があろうともです」
「あの者をか」
「はい、跡継ぎにしてです」
「後を任せよというのじゃな」
「そうされて下さい」
「わかった、そうする」
「そうお願いします、そして」
秀長はさらに言った。
「唐入りですが」
「それはか」
「お止め下され」
断じてと言うのだった。
「今は天下を治めて下され」
「戦よりもか」
「そうされて下さい、今はその時故」
天下を統一して、というのだ。
「そのこともお願い申す」
「ではな」
「はい、重ね重ねお願いします」
秀長は秀吉を死相で見つつ頼み込んだ。
「それで」
「わかった、ではな」
「その様に」
こう兄に言ってだった、秀長は年が明けて一月もしないうちに世を去った。秀吉は悲嘆に暮れたがどうにもならなかった。
そしてだった、彼は秀長の死の悲しみを背負ったままだった、石田と大谷から利休の話を聞いて暗い顔で言った。
「わしは言った」
「利休殿が詫びを入れられれば」
「それで、なのですな」
「うむ、それでじゃ」
まさにというのだ。
「全てを水に流すとな、しかしか」
「それはですか」
「出来ませぬか」
「わしは天下人じゃ」
秀吉はこの立場から言った。
「わしから頭を下げることは出来ぬしじゃ」
「関白様もですか」
石田が問うた、ここで。
「ご自身に非はないと」
「違うか」
「いえ、あります」
石田は秀吉にはっきりと言った。
「詫びなぞいりませぬ」
「それがいらぬというのか」
「はい、その様なものは求めず」
そしてとだ、石田は秀吉に率直に述べた。だが大谷はその彼の横で顔を顰めさせそのうえで言うのだった。
「許されればいいのです」
「それが出来ぬと言っておるが」
「それは関白様の我が儘」
石田は容赦なく言っていく。
「我が儘はおよしなされ」
「出来ぬと言っておるが」
「いえ、出来まする」
まだ言う石田だった。
「気にされずにです」
「出来ぬと言っておるが」
「出来まする」
「まだ言うというのか」
「はい、天下の為にです」
ここはとだ、石田は一歩も退かず言う。
「是非共」
「利休を許せというか」
「そしてこれからもです」
「あ奴の話を聞けというのか」
「左様です」
「まだ言うのか」
「そうです、よいでしょうか」
「何としてもか」
「小さき器ではです」
利休を許さない様な、というのだ。
「天下を治められませぬ」
「佐吉、御主だから言う」
秀吉はここまで聞いてだ、そのうえで。
眉を顰めさせてだ、石田に告げたのだった。
「下がれ」
「下がりませぬ」
「今はわしの前から下がれ」
「関白様がよしと言われるまでは」
「下がれと言っておる」
「断じて」
「治部、もうよい」
ここでだ。大谷が石田に言った。
「関白様のお言葉じゃ、下がるぞ」
「しかし刑、それでは」
「下がるべきじゃ、わかったな」
「桂松、佐吉を連れていけ」
すっかり怒った顔になりだ、秀吉は大谷にも言った。
「わかったな」
「さすれば」
「さもなければわしが間を出る」
今彼等がいるこの場をというのだ。
「わかったな」
「いえ、それには及びませぬ」
大谷は臣として秀吉に返した。
「ですから」
「御主達が下がるか」
「佐吉、あらためて参上するぞ」
「わしは下がらぬぞ」
「だから人の話を聞け」
大谷は石田に怒った。
「よいな」
「出来ぬと言うが」
「出来なくても聞け、よいな」
こう言ってだ、石田を引き摺る様にして間から出した。秀吉はその間怒っている顔を崩さなかった。だが。
石田にだ、大谷は別の間で言ったのだった。
「御主の言う時も言い方も悪い」
「何故悪い」
「だからじゃ、あそこで言ってもじゃ」
「駄目というのか」
「しかも言うそれもじゃ」
言い方もというのだ。
「悪い」
「わしは間違ったことを言っておらぬ」
「だから言う時と言い方があるのじゃ」
このことを言うのだった。
「その二つじゃ」
「正しいことを言っておるぞ」
「それでもゃ、大納言様はじゃ」
秀長、彼はというのだ。
「時と言い方をわかっておられた」
「それでか」
「御主と違ってな」
「だから言うが」
「言うな、言いたいことはわかっておらぬ」
自分は正しいとだ、石田が言うとだ。
「だからじゃ」
「言うなというか」
「そうじゃ、とにかくじゃ」
「わしではか」
「悪い、これではじゃ」
大谷は苦い顔で言った。
「関白様を抑えられぬぞ」
「利休殿のことか」
「うむ、わしからも申し上げるが」
しかしというのだ。
「これはな」
「利休殿は必要じゃ」
石田は大谷にもこう述べた。
「天下の為にな」
「それはな」
「その通りじゃな」
「わしもそう思う」
「ではじゃ」
「だから言う時とじゃ」
また石田に告げた。
「言う中身じゃ」
「それか」
「御主はな」
まさにというのだ。
「その二つを無視してしまう、特にじゃ」
「頭に血が上った時か」
「うむ、正しいと思えばそうなるであろう」
「昔からな」
「そして己を曲げずにじゃ」
一本気な故にだ、石田の場合は。
「ずけずけと言うな」
「それがいかぬか」
「相手が誰でも正論を言うのはよい」
大谷はこのことは石田の長所とした。
だがそれと共にだ、古くからの友に対してこうも言うのだった。
「だがそれも時と場所、言う言葉を選んでじゃ」
「ううむ、それが出来ぬからか」
「御主はよくない、しかしな」
「しかしか」
「その時はわしが止める」
大谷は毅然としてだ、石田に約した。
「このわしがな」
「そうしてくれるのか」
「今の様にな、御主は癖性分があまりにも強い」
これもまた一本気な故にだ、その気質がとかく強く出てしまうのが石田三成という男の難儀なところなのだ。
「それでじゃ」
「わしが言えばか」
「過ぎたことを言えばわしが止める」
「そうするのか」
「これからもな、しかしな」
「しかし?」
「利休殿はな」
苦い顔になりだ、大谷は石田にこうも述べた。
「あそこでは御主が穏やかに言ってもわしが言ってもな」
「駄目か」
「三日後にもあらためて参上して申し上げよう」
「うむ、他の者達も連れてな」
「何なら徳川殿にもお願いするか」
秀吉に次ぐ力を持つ彼にもというのだ。
「そしてじゃ」
「何としてもじゃな」
「利休殿をお救いしよう」
「そうせねばな」
「うむ、だが佐吉よ」
大谷は石田自身にもだった、ここで問うたのだった。
「御主は利休殿は好かぬかったのではないか」
「いや、別にそうではない」
石田は大谷の今の問いははっきりとした言葉で否定した。
「わしは利休殿は嫌いではない」
「そうなのか」
「御主、わしが利休殿に申し上げたことを言っておるな」
「利休殿が黒い茶器を御主に見せてな」
「わしはその時確かに利休殿に申し上げた」
石田の言葉は毅然として何も疚しいもののないものだった、少なくとも彼自身に負い目は全く見られなかった。
「関白様は黒い色は好まれぬとな」
「それでと思ったが」
「事実を申し上げたまで」
秀吉の好み、それをだ。
「あの方は黒い箸も使われぬからな」
「そのことを申し上げただけか」
「ただそうしたまで、だが」
石田はここで目を鋭くさせ大谷に述べた。
「利休殿は天下に必要な方」
「それ故にか」
「わしは何としてもあの方をお救いしたい」
「その為に動くか」
「全ては天下、関白様の御為」
「それでか」
「わしはまた申し上げる」
秀吉、彼にというのだ。
「そうする」
「わかった、ではな」
「徳川殿も頼り」
「三日程後にな」
こう話してだ、二人は実際に丁度大坂城にいた家康の下に参上し彼に頼み込んだ、すると家康は二人にすぐに答えた。
「わかった、ではわしも申し上げよう」
「そうして頂けますか」
「徳川殿からもそうして下さいますか」
「うむ、しかしこのことは言っておく」
家康は二人に難しい顔でこう述べた。
「わしは大納言殿とは違うからな」
「では」
大谷は家康の言葉からだ、すぐに察した。それは石田も同じであったが彼はこの時は彼にしては珍しく言葉を詰まらせてしまい言えなかった。
「徳川殿でも」
「難しいであろうな」
「左様ですか」
「関白様は意固地になっておられる」
「そしてその意固地をですか」
「わしではな」
どうにもと言うのだった。
「解けぬであろう」
「そうなのですか」
「大納言殿なら出来た」
秀長、彼ならというのだ。
「必ずな」
「関白様の弟君であられるが故に」
「わしはな」
所詮という言葉だった。
「妹婿に過ぎぬからな」
「血を分けた兄弟ではないからですか」
「それでは絆が全く違う、そして」
「さらにですか」
「わしは大納言殿より関白様をご存知ないからな」
このこともあってというのだ。
「どうしてもな」
「難しいですか」
「うむ」
大谷に正直に述べた。
「どうしてもな」
「ですか」
「しかしじゃ、わしも利休殿には恩があるしじゃ」
「天下の為にですか」
「必要な方と思っておる」
それ故にというのだ。
「申し上げようぞ」
「では」
「うむ、しかし時期が悪いのう」
家康は袖の中で腕を組んだままだった、嘆息する様にして述べた。
「大納言殿が隠れられてすぐであったからな」
「だからですな」
「今の関白様は普段と違うしな」
「だからこそですか」
「話は慎重にせねばな」
「ですか、言葉を選びつつ」
「進めようぞ、だが」
それでもと言う家康だった。
「それでもな」
「難しいですか」
「わしはそう思う、利休殿はお救いしたいが」
本心から言う、だがそれでもというのだ。
「難しいな」
「左様ですか」
「どうにもな」
こう言う家康だった、そして実際にだった。
家康は石田、大谷と共に秀吉の説得にあたったがだ。秀吉はその家康に対して非常に難しい顔で言うのだった。
「徳川殿のお考えはわかったがな」
「では」
「いや、やはりじゃ」
「利休殿にですか」
「頭を下げてもらわぬとじゃ」
秀吉としてはというのだ。
「認められぬ」
「それでは」
「徳川殿からも言ってくれるか」
利休、彼にというのだ。
「是非な」
「利休殿に頭を下げよと」
「わしにな」
「そうですか、ですが利休殿は」
「わしに頭を下げぬというのか」
「あの方も誇りがあります」
家康は秀吉に畏まって述べた。
「ですから」
「天下人であるわしにか」
「それがしが思うにです」
ここで家康はこの場における彼の秘策を秀吉に出した、その秘策は一体どういったものであったかというと。
「茶をです」
「茶をか」
「飲まれてはどうでしょうか」
「利休とか」
「はい、そうされてはどうでしょうか」
こう提案するのだった。
「ここは」
「そしてか」
「はい」
まさにというのだ。
「お話をされては」
「わしに頭を下げずにか」
「そこはお話をされてです」
その中でというのだ。
「次第に。そうされては」
「・・・・・・出来ぬ」
これが秀吉の返事だった。
「それはな」
「では」
「まずはあ奴が頭を下げてからじゃ」
このことに意固地なまでにこだわる秀吉だった、それ故に家康に対してもあくまでこう言うばかりであった。
「それからじゃ」
「そう言われますか」
「若し徳川殿がそう言うならじゃ」
「利休殿をですか」
「説得してじゃ」
そしてというのだ。
「頭を下げさせてもらいたい」
「さすれば」
「うむ、その様にな」
あくまでこう言ってだ、秀吉は聞かなかった。家康はそれからも話をしたが結局秀吉は聞かず秀吉は横から来た小姓の話を聞いて家康に言った。
「申し訳ないが用が入った」
「と、いいますと」
「母上がな」
秀吉の実母である大政所がというのだ。
「少しな」
「では」
「折角来てくれたのに済まぬ」
「いえ、そうしたことでしたら」
「またあらためてな」
「はい、それでは」
「話をしてもらいたい」
こう言ってだ、秀吉は家康達を去らせ自身は母親の見舞いに急行した。それで家康は大谷と石田に別の部屋でこう言ったのだった。
「これはな」
「難しいですか」
「どうにも」
「以前の関白様なら乗られたしじゃ」
それにと言うのだった。
「大納言殿ならな」
「そう出来た」
「そう言われますか」
「うむ」
その通りというのだ。
「やはりわしでは力不足じゃ」
「では利休殿は」
「どうなるでしょうか」
「危ういやもな」
家康は眉を曇らせて言った。
「これは」
「ですか」
「そうなりますか」
「何か急じゃ」
秀吉の様子がというのだ。
「利休殿についてな」
「急いで、ですな」
「頭を下げてもらいたいですな」
「そうした感じがしますな」
「どうにも」
「だからな」
それ故にというのだ。
「これはな」
「危ういですか」
「利休殿は」
「そんな気がする」
まさにというのだ。
「だから我等も急ぐべきであるが」
「それは、ですか」
「難しくなりましたな」
「大政所様もご高齢ですし」
「あの方もとなりますと」
「そうやも知れぬ」
また言った家康だった。
「関白様は余計に寂しくなられる」
「その寂しさが厄介ですな」
大谷は目を鋭くさせて家康に問うた。
「お心が荒れますので」
「うむ、わしもそれはわかるつもりじゃ」
家康はこれまで人生で人質になりたてだった時のことを思い出して応えた。今川家に入ったばかりの頃のことだ。織田家でもそうであった。
「吉法師殿がおわれ今川家にはよくしてもらったが」
「それでもですな」
「うむ、実にな」
「ですがあの方は」
「実は孤独はな」
それについてはというのだ。
「実はこれまで味わったことがないのでないか」
「そういえば」
石田もここで気付いた、それではっとした顔にもなった。
「あの方はこれまでずっとお傍にどなたかおられました」
「人がお好きでな」
「人を惹き寄せる方でもありますし」
「わしもそのお人柄に惹かれた」
家康にしてもというのだ、かつて剣を交えたがその間も決して秀吉を嫌いではなかったのだ。
「あの方が織田家におられた時からな」
「その頃より」
「自然と人が集まる方じゃ、だが」
「天下人はですか」
「家臣との距離がどうしてもある」
「それ故にご一門の方が必要ですか」
「しかしその中の一番の柱であられた大納言様がみまかわれ」
そしてというのだ。
「捨丸様、そしてお母上となれば」
「後は奥方様のみですか」
「そうなれば非常にお辛い」
秀吉の立場になり考えてだ、家康は石田に述べた。
「だからな」
「あの方は非常に寂しいのですか」
「今な、それでお辛いのじゃ」
「左様ですか」
「孤独に押し潰されねばよいが」
「関白様はその様な」
弱い心はとだ、石田は言おうとした。だが。家康はその石田に言った。
「人は様々な面がある」
「そしてその面にですか」
「弱い面がある、誰もがな」
「では関白様も」
「それが出なければよいが」
孤独に対するだ、家康はこのことを心から心配していた。そしてその危惧は不幸にも当たることとなるのだった。
巻ノ六十五 完
2016・7・15