巻ノ六十六 暗転のはじまり
その話を聞いてだ、大坂は騒然となった。大谷はその話を聞いてすぐに石田のところに行こうとしたがだ。
逆に石田が彼のところに飛んで来た、増田もいてそれで大谷に声をかけた。
「すぐにじゃ」
「うむ、城に入りじゃ」
大谷は石田の血相を変えた声に応えた。
「関白様に取り直さねば」
「行くぞ」
石田はこう言ってだった、増田と大谷と共に大坂城に入った。見れば前田玄以や片桐且元といった奉行衆だけでなく加藤清正や福島正則等最近名を挙げている武の者達もいた。
その者達を見てだ、石田は言った。
「虎之助達も来たな」
「そうじゃな」
大谷も応えた、加藤と福島に加藤嘉明、細川忠興、黒田長政、池田輝政、蜂須賀家政合わせて七将が全ている。
その彼等が揃ったのを確認してだ、石田はまた言った。
「七将がな」
「全ておるな」
「あの者達も状況がわかっておるか」
「当然じゃ、この度のことはじゃ」
「何としても関白様にお考えを変えて頂かねば」
「ならん」
大谷は石田に強い声で述べた。
「だからじゃ」
「それでじゃな」
「皆来たのじゃ」
まさにというのだ。
「城にな」
「ではな」
「我等全員で関白様に申し出ようぞ」
「すぐにな」
「遅れて済まぬ」
やや四角い顔の男が来た、やはり豊臣家の重臣である小西行長だ。加藤清正と並ぶ若き将でもある。
「これよりか」
「うむ、そうじゃ」
その通りだとだ、石田は小西に答えた。
「これより参る」
「そうか、間に合ったか」
「そうじゃ、しかしな」
「ことはじゃな」
「すぐに参上しお話せねばじゃ」
「ならぬな」
「さもないとじゃ」
石田は小西に強張った顔で述べた。
「大変なことになる」
「ではな」
こう話して秀吉の下に向かうが秀吉の間のすぐ手前で家康や前田利家、上杉景勝、そして見事な口髭を生やした四角い顔の男もいた。毛利輝元だ。
四人の大身の大名達を身てだ、小西は言った。
「これは」
「うむ、まさにな」
大谷はその小西に小声で応えた。
「それだけのことということじゃ」
「まさか天下の大名の方まで揃っておられるとは」
「今大坂におる方々がじゃ」
その大身の大名達がというのだ。
「ここに集まっておる」
「ではじゃな」
「うむ、この方々と共にな」
「関白様にお話しようぞ」
「ではな」
「おのおの方よく来られた」
大名達を代表してだ、家康が石田達に声をかけた。
「それではじゃ」
「これよりですな」
「我等全員でじゃ」
「関白様にお話をし」
「それでお考えを変えて頂こう」
「では」
石田が応えそしてだった。
大名達はすぐに秀吉の下に参上した、そのうえで秀吉に言うのだった。
家康がだ、大名達を代表して秀吉に言った。
「この度のことですが」
「利休のことか」
「はい、どうか」
「ならぬ、既にじゃ」
「既にとは」
「人をやった」
秀吉は暗い顔で告げた。
「もうな」
「何と・・・・・・」
これにはだ、誰もが絶句した。
それでだ、家康も言うのだった。
「ではその者が」
「詫びれば許すとな」
「関白様のお言葉を」
「授けた」
「では若し利休殿が頭を下げないなら」
「うむ、これが最後じゃ」
「では」
家康はあえてだ、秀吉に問うた。
「頭を下げられないなら」
「腹を切れとな」
「使者にですか」
「言えと伝えた」
「それではです」
家康は何とか己を保ちつつ秀吉に言った。
「利休殿は」
「頭を下げぬというか」
「あの方も誇りがありますし」
「天下人であるわしに頭を下げぬ様なか」
「それは」
「その様な誇りはじゃ」
まさにとだ、秀吉は目を怒らせて家康に言った。
「あってはならぬであろう」
「この天下に」
「わしは天下人であるからな」
「ですからお心を広く持たれ」
「利休が謝らずともか」
「よしとされるべきです」
使者をやっても尚もとだ、家康は言うのだった。
「何とか」
「人をやった」
秀吉は強い声でだ、家康に返した。
「だからもう出来ぬ」
「早馬を送れば」
「ならぬ、もうこれで終わらせる」
利休が謝ればよし、そうでなければ腹を切れというのだ。
「これでな」
「ですか」
「この話はこれで終わりじゃ」
秀吉は邪魔なものを取り払う様にして言った。
「皆の者ご苦労であった」
「関白様、ここは」
石田が言おうとした。しかし。
大谷はその彼を目で制してだ、目だけで首を横に振って告げた。石田もそれを見てそれ以上は言うことが出来なかった。
大名達はこれ以上どうすることも出来ず下がるしかなかった、だが。
下がった後でだ、家康は首を横に振って言った。
「終わったわ」
「うむ、これでな」
前田も言う。
「わしは何も言えなかった」
「又左殿でも」
「あそこで意地でも止めたかったが」
「しかしですな」
「既に人をやられては」
そうされてはというのだ。
「最早」
「それがしも早馬と言いましたが」
家康も言う。
「実は」
「大坂から堺は目と鼻の先」
「既に使者は利休殿の下に着いておりましょう」
彼等が今話しているその間にというのだ。
「そしてです」
「この度のこと利休殿は頭を下げられぬ」
「ですから」
「利休殿は」
「はい、腹を切られます」
「そうなる」
「間違いなく」
家康は前田に瞑目する様にして答えた。
「そうなります」
「そうでありますな」
前田も無念の顔で言った。
「ここは」
「残念なことに」
「利休殿がおられねば」
どうなるかとだ、増田が言った。
「政での支えがなくなり」
「そうじゃ、大納言殿と共にな」
前田が応えた。
「それがなくなりじゃ」
「天下が危ういですが」
「小竹殿、いや大納言殿がおられれば」
前田もこう言うのだった。
「違ったが」
「その大納言殿がもう」
「これはいかん」
前田は目を暗くさせて言った。
「最早誰も関白殿を止められぬ」
「誰もですか」
「そうじゃ、もうな」
最早と言うのだった。
「そうなってしまうわ」
「では」
「この状況は危うい、しかもじゃ」
「捨丸様も」
「そして大政所様もな」
秀吉の周りの者が次々といなくなるというのだ、つまり秀吉は孤独の中に陥りそして誰も彼を止められないというのだ。
「これ程危ういことはない」
「何とかしなければ」
「わしもそう思うが」
「しかしですか」
「我等ではどうにも出来ぬ」
「何はともあれ利休殿のことはじゃ」
家康がまた言った。
「もうどうにもならぬわ」
「左様ですか」
「帰るとしよう」
諦めてとだ、家康は大名達に告げた。
「ここは」
「では」
「これより」
「うむ、退散しようぞ」
こう話してだっ、そのうえで。
それぞれの屋敷で報を待った、その報は彼等の思った通りだった。誰もが苦い顔になった。
そしてだ、大谷は話を聞いて都から来た幸村に苦い顔で述べた。
「その通りじゃ」
「では」
「利休殿は腹を切られた」
「左様ですか」
「立派なお最期であられたという」
「武士の様に」
「武士でもあそこまでのものは滅多にないという程な」
そこまでのというのだ。
「立派な切腹だったという」
「左様ですか」
「残念なことじゃ」
大谷は幸村に苦い顔で述べた。
「あれだけの方がな」
「はい、確かに」
「それで大政所様もおられなくなる」
「その話もですな」
「事実じゃ、だからな」
「それでは」
「関白様の周りの人が減った」
以前と比べてというのだ。
「ずっとな、だからな」
「それで、ですか」
「あの方は寂寥なものを感じておられる」
「天下人として」
「まだねね様がおられるが」
秀吉の正室である、彼がまだ足軽だった頃から寄り添ってきたまさに糟糠の妻である。今も飾らない気さくでおおらかな性格で知られている。
「しかしな」
「北政所様のみですか」
「これまでより遥かに寂しい」
「では」
「これまであの方は寂しさとは無縁じゃった」
秀長がいて母親がいてだ。
「それが随分あの方の支えとなっていたが」
「それが、ですな」
「なくなった、それがどうなるか」
「そう思うとですか」
「危うい、果たしてどうなるか」
「心配ですか」
「わしはな」
幸村に難しい顔で言うのだった、そして。
そのうえでだ、幸村にこうも言ったのだった。
「これからもあの方を支える」
「そうされますか」
「それが天下の為、あの方の為になるからな」
「だからこそ」
「わしはそうする、何もなかったわしをここまで引き立たてくれた方じゃ」
大谷自身をというのだ。
「大名までな、ならばな」
「関白様に最後までですか」
「尽くす、そして佐吉もだ」
石田に対してもというのだ。
「あ奴にもそうする」
「治部殿も助けられますか」
「うむ」
まさにというのだ。
「そうする」
「あの方とは」
「あ奴はわしとはずっと共にいた」
それこそお互いに小僧だった時からだ、共に秀吉に拾われそのうえで共に育ってきたのである。それが二人の仲なのだ。
「だからな」
「あの方も支えますか」
「そうする」
まさにというのだ。
「これからもな」
「そうされますか」
「さもないとじゃ」
「武士として」
「それ以上に人としてな」
まさにというのだ。
「誤つると思うからじゃ」
「義ですか」
「そうじゃ」
まさにそれに反するからだというのだ。
「わしはこれを大事にしたい」
「義を何よりもな」
「そうですか」
「御主もそうであるな」
「はい、武士とはです」
幸村もだ、大谷の今の問いに強い声で答えた。
「やはりです」
「義じゃな」
「義があってこそです」
「武士じゃな」
「真の武士の道を思います」
幸村は大谷に述べた。
「ですから」
「そうか、ならばな」
「その義をですか」
「最後の最後まで貫くのじゃ」
「人としてのそれを」
「仁義、礼儀。信義、忠義、孝義、悌義とあるが」
「どの義もですな」
「守ってそしてじゃ」
「武士としてですな」
「生きよ、よいな」
「わかりました」
確かな声でだった、幸村は大谷に頷いて答えた。
「そうしていきまする」
「そして義の道を歩み」
「そのうえで」
「最後の最後まで生きるのじゃ」
「最後まで、ですか」
「人は何時か必ず死ぬ、しかしな」
それでもというのだ。
「死すべき時に死すべきでありな」
「迂闊に死のうとは思わぬこと」
「命は大事にせよ」
必ず終わるものであろうともというのだ。
「よいな」
「わかり申した」
「そしてな」
「さらにですか」
「あの者達も大事にせよ」
十勇士、幸村の家臣であり義兄弟である彼等もというのだ。
「よいな」
「あの者達もですか」
「それもわかっておるな」
「あの者達は拙者の家臣であり義兄弟であり」
「友であるな」
「左様です」
こう大谷に答えた。
「なくてはならぬ者達です」
「ではじゃ」
「それでは尚更にですな」
「大事にせよ」
「はい、そのつもりです」
「ではな、それに御主も今では万石取りの大名じゃ」
一万八千石のだ、彼も正式にそうなったのだ。
「禄もじゃ」
「はい、そうあの者達にも言ったのですが」
「どれだけ禄をやるつもりであった」
「他の家臣達もいますので一人二百石」
「合わせて二千石か」
「それだけ出すといいましたが」
それをというのだ。
「あの者達は笑って断りました」
「二百石はいらぬとか」
「これまで通りの十石でと言いました」
「それでは少ないであろう」
「ですから百石と言いましたが」
「それもか」
「あの者達は断ったのですが」
しかしと言うのだった。
「何とか説得し」
「それぞれ百石か」
「それだけとなりました」
「成程のう、百石取りか」
「そうなりました」
「立派な旗本じゃな」
真田家のそれだとだ、大谷も言った。
「それだけの禄ならば」
「それで馬術の稽古もさせていますが」
「御主程達者ではないな」
「どの者も生粋の忍、馬よりもです」
「駆け、泳ぐ」
「そうしたものの方が得意です」
十勇士、彼等はというのだ。
「やはりあの者達は忍です」
「忍はあまり馬に乗らぬ」
山を駆けあらゆる場所に潜むものだ。それで彼等は馬に乗るよりも己の体術を備えているのである。それが忍なのだ。
「だから仕方ないな」
「このことは」
「そうじゃな、しかしな」
「それでよいですか」
「あの者達は馬術は程々でじゃ」
「忍術とそれぞれの術で働く」
「その方がよいな、では御主はあの者達と共にな」
その十勇士達とだ。
「武士の、義の道を歩め」
「さすれば」
「そして御主はおそらくないと思うが」
「まさか」
「うむ、関白様はやはりな」
「唐入りをされますか」
「明を攻めるおつもりじゃ」
このこともだ、大谷は幸村に話した。
「我等はそれをお止めするつもりじゃが」
「それは、ですか」
「出来そうもない、だからな」
「唐入りの為に戦になりますか」
「朝鮮からな」
「あの国は明の属国の一つです」
幸村は書で読み世に聞くことから述べた。
「ですからその際道を開けよと言われても」
「開ける筈がないな」
「どう考えても」
「だからまずはな」
「朝鮮で戦ですか」
「そうなるであろう」
大谷は幸村に冷静にだ、達観した様な調子で話した。
「あの国の軍勢は弱いというが明が出ればな」
「流石に容易ではありませぬな」
「明は帝が政を見なくなり国が乱れ衰えだしているというが」
「それでもあの国は大国、力があります」
「だから軍も多く武具もよい」
「激しい戦になりますな」
「今は天下の政の時であるが」
大谷は先日幸村に言ったことをここでも言った。
「しかしな」
「それは、ですな」
「出来そうもない」
「今は政をして天下を定めねばなりませぬが」
「関白様はそうお考えですか」
「それでは」
「致し方ない、戦になればな」
その時のこともだ、大谷は幸村に話した。
「わしは戦に勝つ為に働くことになる」
「関白様の家臣として」
「朝鮮に近い為西国の大名達が行く」
その戦にというのだ。
「だから御主はまず出ぬが」
「それでもですな」
「大きな戦が起こることは頭に入れておいて欲しい」
「さすれば」
「来年にも戦になる」
大谷はその時期のことも話した。
「また騒がしくなるぞ」
「ですか」
「そうじゃ、ではまた何かあればな」
「はい、参りますので」
「話そう」
「さすれば」
こう話してだった、幸村はすぐに都に戻った。それからは暫くは都で働いていたが彼にまた報が入った。その報はというと。
「捨丸様がか」
「はい、あの方もお亡くなりになられ」
「大政所様もです」
「お二方が亡くなられました」
「そうなりました」
家臣達が政務を執っている幸村に話した。
「そしてすぐにです」
「跡継ぎがあらためて定まりました」
「三好様となられてです」
「近々関白の位を譲られるとか」
「関白様は太閤と呼ばれるとのことです」
「太閤か」
こう聞いてだ、幸村は考える顔で言った。
「関白より上の」
「その様です」
「太閤というと」
そう聞いてだ、幸村はこう言った。
「またな」
「想像がつきませぬか、殿にしましても」
「そうなのですか」
「どうにも」
「関白より上はない」
まさにというのだ。
「摂政や太政大臣もあるが」
「やはり、ですな」
「関白が第一ですな」
「そうなりますな」
「うむ、その位を三好様に譲られ」
そしてというのだ。
「太閤になられる、即ちな」
「天下第一の方よりも上」
「まさにその上ですか」
「そしてですか」
「天下に並ぶべく者がいない」
「そうした方なのですか」
「そう思う、院政に近いが」
こうも言った幸村だった。
「しかしな」
「それでもですな」
「実質的な権限は依然太閤様が持っておられ」
「奥の院には入られず前に出られる」
「このままそうされるのですな」
「関白より上になられるということじゃな」
それが秀吉の考えだというのだ。
そしてだ、幸村はこうも言ったのだった。
「して三好様が関白ということは」
「まさに太閤様の跡継ぎ」
「それに他なりませぬな」
「捨丸様がお亡くなりになられた今」
「その座は揺るぎませぬな」
「関白様も五十をとうに越えておられる」
ここでだ、幸村は秀吉の年齢のことを言った。
「それ故にじゃ」
「お歳ですから」
「お子も生まれることは期待出来ませぬな」
「捨丸様の後は」
「どうにも」
「おそらく決まりじゃ」
跡継ぎの話、それはというのだ。
「三好様でな」
「豊臣姓に戻られてです」
「以後は関白、太閤様の助けとなられるとのこと」
「太閤様もそう言われているそうです」
「そして都の聚楽第に入られるそうです」
「この都にか、では大坂と、都からじゃな」
幸村は家臣達の話も聞いてそして言ったのだった。
「天下を治められるな」
「その様ですな」
「では豊臣家の天下は決まりですな」
「殿はここは内の政に務めるべきで戦はすべきでないと言われていますが」
「それでも」
「足場はまた固められるか」
幸村は何処か妥協して言った。
「次の機会にな、しかし三好様がおられる」
「太閤様の次の天下人が」
「では天下は定まりますか」
「豊臣家の下に」
「そうなりますか」
「おそらくな、関白様に何かなければ」
それでというのだ。
「次の天下人じゃ」
「揺らぐことなく」
「そうなりますな」
「天下はまとまったまま」
「そうなりますか」
「あの方なら大丈夫じゃ」
秀次、彼ならとだ。幸村は言った。
「天下人として務まる、お若いし才気もあり人を見る目もお持ちじゃ」
「若くよい家臣を多くお持ちとか」
「そしてその家臣の方々をよく使われているとか」
「家臣の方々の忠義も強く」
「よくまとまっているのですな」
「だからじゃ」
そうした状況だからというのだ。
「必ずな」
「あの方ならばですな」
「天下は安心していい」
「では、ですな」
「何はともあれ天下の泰平は守られる」
「関白様の後も」
「そうなるであろう」
幸村は安心している声だった、実際に。
「では我等は安心してですか」
「我等の務めを果たしていい」
「そうなりますか」
「おそらくな、ただ外での戦になるようであるから」
唐入りのことをだ、幸村は家臣達にそれとなく話した。
「その話はよく集めて吟味していこうぞ」
「畏まりました」
「ではそちらを進めつつ」
「我等は都で務めていきましょう」
「このまま」
「その様にな」
幸村はこの時はこう穏やかに言えた、だが。
その夜だ、十勇士達と共に屋敷の縁側で酒を楽しんでいるとだ、星の動きを見て血相を変えてしまった。
「これは」
「星ですか」
「星の動きで、ですか」
「何かありましたか」
「西の星の動きが荒れておる」
こう言うのだった。
「戦は近い、そしてな」
「その戦は、ですか」
「危うい」
「そうだというのですか」
「苦しい戦になる」
そうなるというのだ。
「そしてじゃ」
「まだありますな」
「そうなのですか」
「うむ、凶星が輝いておる」
こうも言うのだった。
「これはかなりな」
「危ういですか」
「うむ」
頷くしかなかった。
「あまりにも不吉じゃ」
「不吉といいますと」
「一体何が起こるでしょうか」
「唐入りの戦で敗れる」
「そうなりますか」
「いや、破軍星ではない」
幸村はその星を見つつだ、十勇士達に答えた。
「それは先程言ったな」
「はい、苦しい戦いになると」
「しかしですか」
「苦しいことは苦しくとも」
「負けるとまではいきませぬか」
「多くの将帥が頑張る様じゃ」
やはり星を見て言う。
「これはな、だからな」
「そこまでは、ですか」
「敗れるまではいかぬ」
「では別の凶事ですか」
「それが起きるのですか」
「その様じゃ、しかもこの星の動きは妙じゃ」
凶事を知らせるものであるがというのだ。
「今すぐ起こらぬ」
「と、いいますと」
「後で起きますか」
「そうなるのですか」
「その様じゃ、この様なことは珍しい」
すぐに起こらぬということがというのだ、夜の星達が異変を知らせてもそれが数年後になって出る様なことはだ。
「何なのじゃ」
「天下の凶事ですか」
「では太閤様に何かある」
「まさかと思いまするが本能寺の様なことが再び起こる」
「そうなるのでしょうか」
「近い、しかし太閤様の星を見ると」
幸村には秀吉の星もわかった、その星は空に一際大きく輝き彼には月の様にさえ見えるまでだ。星の輝きは陰りが見えるが。
落ちようとはしていない、幸村はそれを見て十勇士達に言った。
「違う、太閤様には何もないが」
「しかしですか」
「それでもなのですか」
「太閤様の星は黄色い筈じゃが」
やはり幸村にはそう見える。
「しかし」
「太閤様の星に何が」
「殿には何が見えまするか」
「赤、あれは血か」
秀吉の星、黄色く輝くそれに見たのだ。
「赤く混じっておる、あれが数年後起こる凶事のはじまりか」
「黄色い星に血が混じるとは」
「それは尋常なことではありませぬぞ」
「では、です」
「そこから何が起こるか」
「これは大変なことが起こる」
このことは間違いないというのだ。
「それが何かまではわからぬが、天下が乱れるやもな」
「その凶事が起こった時は」
「そうなるやも知れませぬか」
「ようやく天下は泰平になろうとしておるのに」
「それでも」
「備え、心構えはしておくか」
幸村は酒を飲むのを止めて言った。
「数年後のこともな」
「何もなければいいですが」
「折角跡継ぎ様のことも決まりましたし」
「その関白様が都に来られますし」
「それ故に」
「そうじゃな、大事がないことを祈る」
瞑目する様にして応えた幸村だった。
「これからもな、ではあらためてな」
「はい、飲みましょう」
「飲みなおしましょう」
「星の動きが気になりますが」
「今はそうしましょうぞ」
「ではな」
幸村は十勇士達に頷きあらためて飲んだ、そして酒の後で自分の部屋に入ると待っていた妻にこうしたことを言われた。
「夜を共にしていましても」
「うむ、どうもな」
妻には今一つ浮かない感じの顔で返した。
「跡継ぎがな」
「出来ませんね」
「そうじゃな」
難しい顔で応えるばかりだった、このことについては。
「子は授かりものというが」
「欲しくて得られるものではないですね」
「そうしたものじゃな」
このことを実感している言葉だった。
「毎夜共にいてもな」
「そう出来る様になりましたが」
都に入ってからだ、幸村は戦もなく妻と共に過ごせる時を多く得られる様になった。だがそれでもなのだ。
「ですが」
「子は中々な」
「そうですね」
「しかしじゃ」
幸村は隣に座る妻に袖の中で腕を組みつつ言った。
「諦めることなくな」
「これからもですね」
「共にいよう」
夜はというのだ。
「そうしよう」
「それしかないですね」
「諦めては終わりじゃ」
これがこのことについての幸村の考えだった。
「やはりな」
「はい、そうですね」
「諦めて何もしないとな」
それはというのだ。
「どうにもならぬことじゃ」
「諦めずそして進めるしかない」
「そして神仏が授けてくれるもの」
「そういうものだからこそ」
「これからも共にいよう」
妻に再び言った。
「そうしようぞ」
「では今宵も」
「共にな」
こう二人で話してこの夜も共にいた、幸村も子を授かりたいと思う様になっていた、元服したばかりの頃とは違っていた。
幸村も子が出来ることを願っていた、だが。
朝になりだ、妻にこんなことを言ったのだった。
「我等は大名になったがだ」
「それでもですか」
「うむ、一つの家のこと」
「真田家の中の」
「そのうちの一つの家だけのことだ」
要するに幸村の家だけのことだというのだ。
「所詮はな、しかも拙者はまだ若い」
「お子が出来ることは」
「まだまだ充分に望みがある」
今は出来ていないがというのだ。
「これからじゃ、だが」
「それでもですか」
「太閤様はそうはいかぬ」
「天下人であられますし」
妻も応え、二人は今は共に床の上に共に座して話している。障子が白くなりだし外から雀の声が聴こえてきている。
「私共以上に」
「お子が大事じゃ」
天下の跡を継ぐ、というのだ。
「しかももう五十を越えられた」
「余計にですね」
「もうお子が生まれることはないだろう」
「だからですね」
「関白様を迎えられたのじゃ」
秀次、彼をというのだ。
「そうされたのじゃ」
「まさに」
「色々とされたがな」
捨丸が生まれる前にもだ。
「養子を入れられて」
「そうでしたね、かつては」
「そうされた、しかしな」
「しかしとは」
「昨夜の話だが子は神仏から授かるもの」
朝もだ、幸村はこう言うのだった。
「わからぬ」
「五十を過ぎられてもですか」
「子が出来ることもあるな」
「言われてみますと」
妻もだ、このことについて答えた。
「稀にですが」
「あるな」
「はい、確かに」
「だから若しやじゃ」
幸村は妻に述べていった。
「あくまで若しや、じゃが」
「太閤様にもですか」
「またお子が出来るやもな」
「そうなのですか」
「ただ、出来てもな」
それでもというのだ。
「おのこかおなごか」
「どちらかが生まれるものですし」
「おなごの場合も充分にある」
その可能性もあるというのだ。
「その場合は何ともないが」
「では、です」
「おのこが生まれた場合じゃな」
「その場合は」
「妙な胸騒ぎがする」
今の秀吉に男の子が出来たならとだ、幸村は述べた。昨夜見た星のことも思い出しそのうえでのことである。
「何もなければよいが」
「次の天下人は関白様ですね」
「太閤様が決められたがな」
「では問題がないのでは」
「そう思いたいが」
それでもというのだった、幸村の不安は容易には消えなかった。
そして暫くしてだった、唐入りが秀吉により決められたことが天下に知らされた。幸村はその話を上杉家の邸宅に招かれ兼続と共に茶を飲み書の話をしている時に聞いた。
兼続はその話を聞いてだ、目を閉じて言った。
「そうなると思っていましたが」
「それでもですか」
「よくないことですな」
こう小声でだ、幸村に言った。
「今は天下は政をする時です」
「一つになった天下を磐石にする為に」
「はい」
まさにというのだ。
「その時でありますので」
「唐入りは、ですか」
「後でよかったのです、むしろ後の方がです」
「上手きいきましたか」
「明は今は帝が朝廷に出ず腐っているときいております」
まさに国全体がというのだ。
「その時に攻めればよく」
「今は、ですか」
「その時ではないと思っておりました」
幸村に話すのだった。
「ですから」
「左様ですか」
「これはよくありませぬ」
こう言うのだった。
「やはり」
「そうですか、実はです」
「真田殿もですな」
「同じことを考えていました」
「左様ですか」
「戦の時ではないと」
まさにというのだ。
「そう考えていました、ですが攻めるならです」
「迷わずにですな」
「敵の都を攻めるべきです」
こう言うのだった。
「明の都まで」
「左様ですな」
「戦をするのなら」
「そうですな。ですが」
「それでもですか」
「おそらく真田殿はです」
幸村、彼自身はというのだ。
「唐入りには入りませぬ」
「そうですか」
「西国の方々が主に行かれる様です」
大谷と同じことを言った。
「ですから」
「それがしは、ですか」
「やはりおそらくですが」
それでもというのだ。
「出陣されることはないです」
「左様ですか」
「そして徳川殿、前田殿もです」
天下でも指折りの大大名である彼等もというのだ。
「出陣されないかと」
「そうなのですか」
「ただ、太閤様がです」
秀吉、彼はというと。
「あの方はです」
「出陣される」
「その様にお考えとのことです」
まさにというのだ。
「どうやら」
「そうなのですか」
「しかしそれはです」
「出来ないですか」
「天下人御自ら出陣はです」
「出来ませんか」
「流石に」
こう幸村に話した。
「無理です、どうしても」
「ですか」
「それとですが」
さらに言う兼続だった。
「この度の戦はかなりの兵が出ます」
「二十万程」
「それ位かと」
幸村の読み通りだというのだ。
「それがしもそう思っています」
「そうですか」
「それだけの兵を動かせば」
「かなりの力を使いますな」
「それが後々困ったことにならなければいいですな」
「それがしもそう思いまする」
幸村もこう兼続に答えた。
「ここは政に専念すべきだとです」
「今も思いますな」
「どうにも」
「ですが太閤様はその様に考えておられます」
「それは誰にも止められない」
「どうしても」
兼続も難しい顔だ、そしてだった。
幸村に茶を進めてだ、菓子も渡したが。
ここでだ、幸村は笑顔で言ったのだった。
「何と、菓子ですか」
「そうですが」
「いや、菓子とはです」
「真田殿は普段は菓子は」
「贅沢なので」
「この菓子は至ってです」
兼続はその幸村に話した。
「普通の」
「安いものですか」
「はい、ですからご安心下さい」
「そういえば近頃菓子も安くなりましたな」
「茶にしましても」
「この前まで随分高かったというのに」
「茶が多く作られる様になりました」
まずはここから話した兼続だった。
「それで茶が広く飲まれる様になり」
「茶と共に口にする菓子も」
「多く食われる様になり」
「安くなったのですな」
「多く作られますので」
それでというのだ。
「その分だけ安くなりました」
「そうですか」
「やはりものは多ければ安くなります」
「価値が下がる」
「そうなりますので」
「菓子もですか」
「安くなりました」
そうなったというのだ。
「ですからこの菓子もです」
「安いですか」
「はい」
実際にとだ、幸村に話した兼続だった。
「当家に迷惑をかけたと思われたかも知れませんが」
「それには至ってない」
「左様です」
「ならいいですか、では」
「はい、菓子も食し」
「茶も楽しみましょう」
そちらもというのだ、こうしたことも話してだった。
幸村は唐入りが決まったことについて思うのだった。それは決していいものではなく暗雲を感じるものであった。
巻ノ六十六 完
2016・7・22