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巻ノ七十五

                 巻ノ七十五  秀吉の死

 遂にだ、秀吉は死の床についた。その彼を見てだ。

 前田利家は彼の家臣達にだ、難しい顔で言った。

「太閤様はおそらくな」

「はい、間もなくですな」

「この世をを去られる」

「そうなりますな」

「うむ」

 間違いなくというのだ。

「そうなられる」

「ではこれから」

「天下はどうなるか」

「それが問題ですな」

「果たして」

「わしはもう決めておる」

 前田は家臣達に確かな声で答えた。

「お拾様の後見役にと既に言われておるからな」

「太閤様に」

「その様に」

「だからな」

 それ故にというのだ、前田は幾分咳き込んでから言った。

「わしはお拾様をお護りするぞ」

「それではですな」

「我等もまた」

「その様に」

「うむ、しかしな」

 ここでこうも言った前田だった。

「わしはそうするが」

「それでもですか」

「わしに何かあればな」

 微かに自身に不吉なものを感じての言葉だ。

「その時はこの家が何があっても残る様にしよう」

「天下がどうなった時も」

「前田家は残る」

「その様にですか」

「うむ」

 家臣達にこうも言うのだった。

「折角ここまでなったのじゃ」

「百万石ですからな」

「尾張の一武士からはじまって」

「今では百万石」

「だからですな」

「赤母衣衆として身を起こしてな」

 信長の傍にいて戦っていた、若き日の前田は。

「槍の又左と言われてな」

「だからですな」

「これだけのものを得られたからには」

「何としてもですな」

「この百万石を守る」

「そうしますか」

「わしの後はじゃ」

 前田はあらためて言った。

「まつに任せておる」

「奥方様にですか」

「そうされていますか」

「では後は」

「それからは」

「倅もおるが」

 嫡子の前田利長だ、既に跡継ぎは決まっているのだ。

「あ奴の後見としてじゃ」

「奥方様がおられますか」

「では後は、ですな」

「奥方様にお任せする」

「そうされますか」

「まつならば大丈夫じゃ」

 長年それこそ戦国の世を共に生きてきた糟糠の妻だからこそだ、前田は妻に絶対の信頼を置いていてそれで言うのだ。

「いざという時のあ奴程強いものはないな」

「はい、確かに」

「あの方にこれまで土壇場でどれだけ救われたことか」

「殿も我等も」

「幾度となくですから」

「そうじゃ、あ奴に任せておる」

 いざという時はというのだ。

「だからわしに何かあればまつに聞け」

「わかりました」

「ではその様に致します」

「いざという時は」

「奥方様に」

「しかし殿」

 家臣の一人がここで前田に問うた。

「また随分と弱気な」

「何かあったらとか」

「言われますが」

「うむ、どうも近頃な」

 背筋はしっかりしている、しかしだった。

 前田はまた咳き込んでだ、それで言うのだった。

「妙に身体が疲れたりしてな」

「だからですか」

「こうしたことはこれまでなかったからな」 

 それ故にというのだ。

「用心にとな」

「そうですか」

「うむ、いざという時のことを考えてな」 

 そのうえでというのだ。

「まつにじゃ」

「そういうことですか」

「うむ」

 こう言うのだった。

「左様じゃ」

「そうですか」

「そうじゃ、まあ念の為じゃ」

 前田はこう断りもした。

「世の中何があるかわからぬしな」

「そうですか」

「うむ、そしてじゃ」

 前田はさらに言った。

「前田家は残るぞ」

「何があろうとも」

「第一に、ですか」

「このことを考えていきますか」

「そうしていきますか」

「その様に伝えた」

 まつにはというのだ。

「後はあ奴に任せろ」

「それでは」

「その様にしていきます」

「ですが殿」 

 ここで奥村が前田に言った。

「是非です」

「わし自身のことか」

「近頃お疲れの様です」

「休めというのじゃな」

「そうされては」

「うむ、しかし話はした」

 まつにというのだ。

「後はあ奴がしてくれる」

「左様ですか」

「それならわかるな」

「はい」

「今言った通りにな」

「そうでしたか」

「ではじゃ」

 あらためて奥村に言った。

「その様にな」

「はい、それでは」

「わしの後はもう手は打ってあるしな、しかしわしはな」

「お拾様をですか」

「何とかお護りする、最後までな」

「そうですか」

「義理じゃ」

 それ故にというのだ。

「やってみるわ」

「では」

 こうしたことを話していた、そして家康もだ。

 天海にだ、こう言われていた。

「要は大坂です」

「この地じゃな」

「この地さえ手に入れればです」

「よいな」

「血は必要ありませぬ」

 天海は今は大坂にいる、そしてその大坂の徳川家の屋敷の中で家康に対して話しているのだ。

「あくまで」

「その通りじゃな」

「そうです、ですから」

「わかっておる、わしにしても」

「お拾様は」

「粗末にしたくない」

 家康も言った。

「太閤様とは色々あったが」

「それでもですな」

「後も託されるであろうし」

「だからこそ」

「無体はじゃ」

「はい、それをしますと」

「後々まで悪名が残る」

 こう言うのだった。

「そしてそれがな」

「永遠に傷を付けますので」

「だからじゃな」

「王道を歩まれるのなら」

「是非じゃな」

「大坂のみとされて下さい、何でしたら」

 ここで天海は家康にこうも言った。

「茶々様と」

「ほう、わしがか」

「如何でしょうか」

「それはよいのう」

 家康は天海のその話に身を乗り出さんばかりにして応えた。

「そこまで考えておったか」

「はい、以前より」

「成程、それならばな」

「殿はそのままです」

「そっくりとな」

「そうなられますので」

「そうじゃな、ではな」 

 また応えた家康だった。

「真剣に考えておこう」

「そうされて下さい」

「どちらにしろな」

「お拾様とですな」

「千の婚姻は決まっておる」

「ではその日が来たならば」

「このことも行いな」

 そしてとだ、家康はさらに言った。

「わしもじゃな」

「そうされて下さい」

「わしは今は側室は多くおるが」

 中には若い者もいる、家康も秀吉に負けず劣らずそうしたことは嫌いではないのだ。むしろ好きな方と言っていい。

「しかしな」

「ご正室は、ですな」

「長くおらぬ」

「では」

「そうじゃな、丁度よいな」

「そして天下はです」

「傷付けず王道を歩み」

 家康は天海の言葉を噛み締める様にして言った。

「そういうことじゃな」

「左様です」

「ここで問題なのは」

 今度は柳生が家康に言ってきた。

「やはり治部殿かと」

「あ奴か」

「はい、切れる方ですが」

「意固地じゃからのう」

「どうしてもです」

「そうじゃな、何とかしたいものじゃな」

「あの御仁はどうされますか」

 柳生は家康に石田のことを問うた。

「一体」

「ふむ、ここは泳がせるか」

「そうされますか」

「泳がせてな」

「そのうえで」

「少し炙り出すか」

 家康は柳生に考える顔で答えた。

「あ奴を使ってな」

「天下のですか」

「わしをよく思わぬ者をな」

「炙り出す」

「そうするか」

 こう言うのだった。

「やはりわしをよく思わぬのならな」

「どうしてもですな」

「それならばですな」

「除くべき」

「そうですな」

「思いあたるふしはある」

 そうした者達がというのだ、家康に逆らいそうな。

「あ奴が筆頭にしてもな」

「そしてです」 

 本多正信も家康に言ってきた。

「その治部殿ですが」

「うむ、敵が多いな」

「はい、実に」

「あの気質じゃ」

 石田の性格は家康も知っている、とにかく己を曲げず誰に対しても厳しいことを言う。相手が言われたくないことでも容赦しない。

 その彼の性格からだとだ、家康も察して言った。

「敵も多い」

「むしろです」

「自分から敵を作るな」

「そうした方なので」

「豊臣家の家臣団もか」

「近頃特にです」

「亀裂が生じておるな」

 家康もそのことをわかっていた、彼の目にははっきりと見えていた。

 そしてだ、こう本多に答えた。尚既に四天王筆頭の酒井はこの世を去っていて子が跡を継いでいる。四天王の残る三人も今は席を外している。

「そして間に入る者もな」

「北政所様は政には関わらない方ですし」

「大納言殿もおられずな」

「関白様もですから」

「双方の間に入られるのは太閤様だけで」

「その太閤様もとなると」

「いよいよな」

 豊臣家家臣団の亀裂、それがというのだ。

「そしてそこには」

「入られてはどうでしょうか」

「そうじゃな、そういえば宇喜多家もな」

 五大老の一つに任じられたこの家もというのだ。

「近頃何か揉めておるのう」

「その様ですな」

「考えておくか、敵は炙り出したいが」

「しかし」

「戦もなく天下を傷付けずに済むのなら最高じゃ」

 家康は確かな声で述べた。

「それを狙うか」

「さすれば」

「その様に進めていきましょう」

「これからは」

 天海に柳生、本多が応えた。見れば場に崇伝と本多の嫡子である正純はいない。今は三人を呼んで話をしているのだ。

 そして家康は三人にあらためて言った。

「ではじゃ」

「はい、これより」

「ことを進めていきましょう」

「竹千代にも話をしておこう」

 今の嫡子である秀忠にもというのだ。

「千のことも他のこともな」

「それがよいかと」

 本多が家康のその考えに頷いた。

「ここは」

「それではな」

「はい、そしてです」

「時が来ればな」

「動きましょう」

「その用意を全て整えておこう」

 家康は明らかに動くつもりだった、そしてそれは石田も察していてだ、彼の屋敷において片腕である島に言っていた。

「内府殿をどう思うか」

「おそらくは」

 島は主に即座に答えた。

「殿の思われている通りです」

「やはりそうか」

「はい、ですから」

「すぐにじゃな」

「動かれるべきかと」

「わかった」

 石田はここまで聞いて頷いた。

「ではな」

「はい、そして」

「そして。何じゃ」

「七将の方々ですが」

「あの者達がわしを嫌っておるというのか」

「そのお気持ちが日増しに強まっていますが」

「それは別によいであろう」

 石田は島の今の言葉は気にしなかった、それは顔にも出ていた。

「特にな」

「左様でありますか」

「同じ豊臣家の家臣じゃ」

「だからですか」

「太閤様恩義、ならばな」

「いざという時はですか」

「共に同じ相手に向かう」

 確信していた、このことを。

「だからな」

「特にですか」

「せずともよい」

 こう言うばかりだった。

「別にな」

「そうですか」

「それよりも内府殿じゃ」

 石田はあくまで家康を警戒していた、その為島にも強く言うのだった。

「あの御仁だけはな」

「用心してですか」

「何としても止めねばな」

「太閤様がおられなくなれば内府殿が第一の方となられますな」

「石高では豊臣家を凌いでおる」

 石田はこのことも警戒していた。

「豊臣家は二百万石、徳川家は二百五十万石」

「豊臣家は天下の財を握っていても」

「五十万石の差は大きい」

「しかも内府殿は政戦両略の方」

 こちらの資質も優れているというのだ。

「石高だけではありませぬ」

「それでじゃ、何とかな」

「あの御仁を止めまするか」

「そうじゃ、内府殿を止めるとなれば」

 そうなればというのだ。

「豊臣家の者は皆立ち上がる」

「太閤様への恩義故にですか」

「そうじゃ」

 島に対して断言した。

「必ずそうなる」

「そうお思いですか」

「違うというのか」

「殿、人はです」

 島は怪訝な顔になり主に話した。

「殿の様な方ばかりでなく」

「何が言いたい」

「私があるものですが」

「そんなことは言うまでもなかろう」 

 石田は島の言葉にすぐに返した。

「それこそ」

「それはそうですが」

「しかし公は私に勝つ」

 石田はこのことを疑いもなく言い切った、これは彼自身のことを見てそのうえで語ったことである。何の疑いもなく。

「そうであろう」

「そう思われますか」

「そうじゃ、だから七将もな」 

 その彼等もというのだ。

「わしをどう思っていてもじゃ」

「豊臣家の急にはですか」

「動く、そもそもわしは誰の讒言も中傷もせぬ」

 石田はそれはしない、本人に対して隠さず言い正確な報告はするがだ。

「その様な卑怯はせぬ」

「そのこと、それがしはわかってはいますが」

「七将や他の者を貶めたこともない」

 他には藤堂高虎や浅野幸政といった面々だ。加藤清正、福島正則、加藤嘉明、黒田長政、細川忠興、蜂須賀家政、池田輝政の七将の他に石田と確執のある者は。

「全くな」

「だからですか」

「誤解は解ける」

 石田はこうも言った。

「天道に照らして不義がなければな」

「だからですか」

「豊臣家の家臣ならばじゃ」

「二心ですか」

「そうなる、七将も他の者も悪人ではないからな」

 このこともわかっている石田だった。

「憂いはない、わしは正面からじゃ」

「内府殿をですか」

「止める、あの御仁が動くならな」

「そうされますか」

「必ずな」

「そしてお拾様を盛り立てていくぞ」

 そうするというのだ。

「必ずな」

「左様ですか」

「そうじゃ、ただ御主が思うところがあれば」

 石田は島に毅然として言った。

「わしの前を去ってもよい、好きにせよ」

「いえ」

 島は自分に言った石田に毅然として返した。

「それがしは決めております故」

「わしに仕えるとか」

「はい、殿にご自身の禄の半分をと言われたその時から」

 それを条件に仕えるかと誘われたのだ、そして島は石田のその心意気に感じ入り彼に仕えたのである。

「決めております故」

「それでか」

「最後の最後まで、地獄にでも」

「共にか」

「参りましょうぞ」

「そう言ってくれるか」

「それがしにそこまで行ってくれたのは殿だけです」

 まさにというのだ。

「ご自身の半分まで、そしてそれがしを召抱えられた訳は」

「うむ、わしは軍略は疎い」

 自分を分析してこう見ているのだ。

「それを補いいざという時に戦で豊臣家をお護りする為にな」

「それがしが必要だからこそ」

「御主に声をかけたのじゃ」

「ご自身の為ではないというので」

「だからか」

「殿に仕えております」

 石田の気概に感銘したが為にというのだ。

「ですから」

「これからもか」

「はい、地獄まで」

 まさにそこまでというのだ。

「お付き合いします」

「そうしてくれるか」

「そうさせて頂きます」

「そうか、ではな」

「何がありましても」

「共にいてくれるか」

「そうさせて頂きます」

 島も己の不変の心を述べた、そのうえでだった。

 石田は秀吉のことを案じつつもだった、彼に何かあったその時のことをもう考えていた。だがその彼に大谷は言った。

「御主はもう少しじゃ」

「何じゃ?」

「穏やかにした方がよい」

「どういうことじゃ」

「御主は平壊者じゃ」

 石田がよく言われていることを言うのだった。

「だから言う相手と言う言葉と言う時を選べ」

「そう言うか」

「そうじゃ、よりな」

 こう言うのだった。

「さもないと後々厄介なことになるぞ」

「そう言うが言うべきことを言わぬとな」

「相手の為にならぬか」

「そしてことも為すことは出来ぬ」

 大谷に言うのだった。

「そういうものではないのか」

「そう言うか」

「わしは言わずにおれぬ」

 石田は己の性分も語った。

「誰に対してもな」

「そうか」

「それはいかぬか」

「賛成出来ぬ、しかし御主はそういう者じゃ」

 大谷もわかっていた、そのうえで彼に言った。

「では背中は任せよ」

「そう言ってくれるか」

「何かあればな」 

 まさにその時はというのだ。

「わしがおる」

「すまぬな」

「よい、御主もいつもわしを助けてくれる」

「だからか」

「それで何故御主を守らずにいられる」

 自分もそうしてもらってというのだ。

「そしてお拾様もな」

「そうしてくれるか」

「このことは約束する、しかしな」

「しかし。何じゃ?」

「わしは天下泰平とお拾様の二つを護る」

 こう石田に言うのだった。

「この二つをな」

「わしと同じではないか」

「そう思うか」

「?何を言うのじゃ」

「いや、よい」

 石田がわからぬ、もっと言えば受け入れぬと思ってだ。大谷はこのことについてこれ以上は言わなかった。

 だがそれでもだ、石田に約束した。

「御主の背中もお拾様も泰平もな」

「護ってくれるか」

「何があってもな」

 誓いはした、同じものを違う考えから見ていることを感じながらも。 

 秀吉は床から出られなくなりだ、遂にだった。

 連日五大老、五奉行達を枕元に呼びこう言った。

「返す返すも拾を」

「はい、お拾様がそれがしがです」

 家康は秀吉の手を握り彼に約束した。

「必ずや」

「護ってくれるか」

「お任せ下さい」

「ならな」

「はい、それでは」

「わしはもう憂いはない、お拾が無事なら」

 それならばというのだ。

「憂いはない」

「左様でありますか」

「内府殿、後のことは頼み申した」

 まずは家康に行った、その後で前田にも言った。

「又左殿には昔からお世話になっていますな」

「いえ、それは」

「まことのこと、そして図々しいですが」

「お拾様を」

「貴殿にもお願い申す」

 死相を前田に向けて懇願した。

「是非」

「さすれば」

「各々方にも」

 五大老の残る三人、毛利輝元と上杉景勝、宇喜多秀家にも顔を向けて言うのだった。

「お拾のこと頼み申す」

「はい、さすれば」

「我等も砕身誠意を以てです」

「お拾様をお護りします」

「そうして頂ければ何より」

 数年前からは考えられない弱々しい声だった。

「この秀吉、憂いはありませぬ」

「さすれば」

 家康が一同を代表して応えた、そして秀吉は彼等だけでなく。 

 正室の北政所にもだ、こう言っていた。

「御主には迷惑をかけたのう」

「全く、御前さんは今更」

「ははは、飾らぬのう御主は」

「当たり前だよ、お互いじゃない」

「そうじゃそうじゃ、昔からな」

 弱々しいが明るくだ、秀吉は床から正室に応えた。

「こうしてな」

「一緒にいたじゃないか」

「足軽だった頃からな」

「あの頃が懐かしいね」

「今思えばな、御主の炊いた麦飯がな」

 秀吉は北政所の顔を見て笑顔で話していた。

「一番美味くあの長屋がじゃ」

「一番だね」

「居心地がよかったのう」

「今思うとそうだね」

「あの時から色々あった」

「右府様にどんどん取り立てられてね」

 信長のことも話すのだった。

「大名になって」

「城も持ってな」

「気付けば天下様だよ」

「まるで夢の様じゃった」

「それまであんたもあたしも色々あったよ」

「全くじゃ」

「あたしも絶対に後から行くからね」

 北政所はあえて笑ってだ、夫に言った。

「あっちでも女の尻を追い掛け回してるんだよ」

「ははは、そう言うか」

「言うさ、御前さんは絶対にそうするからね」

「そうじゃな、しかしわしは御主が第一じゃ」

 このことは変わらないというのだ。

「これまでも今もこれからもな」

「有り難うね、そう言ってくれて」

「それで御主に言いたいのじゃが」

「お拾殿だね」

「任せてよいか」

 妻のその目を見ての言葉だった。

「御主にも」

「いいさ、じゃああたしもね」

「護ってくれるか、お拾を」

「あんたの子だからね」

「なら頼む」

「あの子の命は絶対にね」

 彼女も約束した、秀吉に対して。

「護るよ」

「済まぬな」

「命はね」

 こう夫に言うのだった。

「絶対にだよ」

「命はか」

「あんたもわかってるんだろ?」

 あえて夫に問うた、正室である彼女だからこそ出来ることだ。それも二人きりになっているからこそである。

「もうね」

「うむ、小竹もおらぬしな」

「それじゃあね」

「わしの跡はな」

「あの方だね」

「だからああ言ったのじゃ」

「そうだね、頼むとだけね」

 北政所も応えて言う。

「そういうことだね」

「うむ」

「そうだね、多分ね」

「御主もわかるか」

「あたしは政のことはわからないよ」

 だからこれまでも言ってこなかった、あくまで家で夫と共にいて生活を支える女房に徹してきたのである。

「それでもね」

「感じるな」

「それなりにね」

「やはりそうか」

「そしてだね」

「うむ、わしもな」

 わかるからだというのだ、秀吉も。

「だからじゃ」

「そう言ったんだね」

「確かに拾が天下人であって欲しいが」

「まずはだね」

「あ奴には長く幸せに生きていて欲しい」

 父親としての願いだ、秀吉は父として秀頼のことを愛し案じているが故に家康達にもそう言ったのである。

「何としてもな」

「だからだね」

「わしはそう言ったのじゃ」

「あの子が生きて欲しい」

「末永くな」

「あたしもそうしていくよ、けれどね」

「問題があるな」

 秀吉はこのこともわかっていた。

「佐吉とな」

「あの子はわかっていてもね」

「素直で生真面目過ぎる」

「そのせいでかえってね」

「自分を追い詰めていってしまう」

「本当に生きにくい子だよ」

 北政所は彼のことを幼い頃から知っていたのでこう言うのだった、その顔には慈しみと残念に感じるものがあった。

「何かとね」

「己を曲げず引っ込めぬからな」

「だからね」

「これからが心配じゃ」

「そうだね」

「そしてな」

「あの人だね」

 北政所は今度は複雑な顔になって夫に応えた。

「何といっても」

「極めて強情でな」

「気も強くてね」

「そして全くの世間知らずじゃ」

「そして言い出したら聞かないから」

「困ったことじゃ」

「どうしたものかね」

 難しい顔でだ、北政所も言う。

「本当に」

「御主の言うことも聞かぬしな」

「それどころかね」

「対抗心を燃やしてじゃな」

「どうにもならないよ」

「そうであろうな」

「あたしは別に嫌いでもないし憎くもないけれど」

 しかしというのだ。

「あの人は違うね」

「そこがな」

「困ったところだね」

「うむ、拾を必死に護るであろうが」

「何もわかっていなくて知らなくてはね」

「そしてその二つに気付かぬではな」

「どうしようもないね」 

 夫にもこう言う。

「やっぱり」

「ここは桂松に頼みたいが」

「あの娘もね」

「だから竹千代殿に言ったのじゃ」

 話がここに戻った。

「あの様にな」

「内府殿だったら約束を守るよ」

「律儀殿じゃからな」

「天下のね」68

「だから大丈夫じゃが」

「それをあの人はわかるかね」

「難しいのう」

 秀吉はわかっていた、このことも。

「非常にな」

「あたしにどうにか出来れば」

「しくじった、何とかしておくべきだった」

 秀吉は後悔も口にした。

「動けるうちにな」

「御前さんあの人には甘かったからね」

「ついついな」

「子供を産んでくれたしね」

「そしてな」

「何よりもだね」

「市様に瓜二つじゃ」

 秀吉は信長の妹であり天下一の美女と言われたこの姫の名前を出した。

「当然と言えば当然じゃが」

「成長するにつれてそうなったね」

「そうじゃ、見れば見る程な」

「だからだね」

「ついつい甘くしてじゃ」

「何とか出来なかったね」

「佐吉とあ奴はな」

 この二人はというのだ。

「何も出来なかったわ」

「二人が誤らないといいね」

「そうじゃな、しかし拾は託した」

「それならだね」

「後は任せる」

 そうするしかないからだ、秀吉は言った。そしてこの話をしてから数日後だった。秀吉は遂に世を去った。

 幸村がその話を聞いたのは夜だった、夜ということもあり。

 すぐに屋敷の縁側に出て空を見た、そのうえで十勇士達に言った。

「二年後に大きな戦になるやもな」

「大きな、ですか」

「戦に」

「星を見るとな」

 それがわかるというのだ。

「長い戦になりそうもないが」

「しかしですか」

「前から殿が言われている様にですか」

「戦ですか」

「それが起こりますか」

「そう出ておる、すぐに父上と兄上にお伝えしよう」

 国にいる彼等にというのだ。

「文を書いてな」

「では」

「その様にしましょう」

「是非です」

「このことを」

「そうしよう、手は打つのならだ」

 それならというのだ。

「全て打つべきだ」

「全てですね」

「打ちそのうえで」

「動いていく」

「そうしていきますか」

「全ては当家が生き残る為だ」

 幸村は考える顔で十勇士達に答えた。

「是非な、武士として恥ずべきこと以外はな」

「全てですな」

「手を打つ」

「そうしますか」

「何もかもを」

「そうする、あと拙者が思うに」

 幸村は十勇士達にまた言った。

「若し内府殿が天下人になられてもな」

「それでもですか」

「あの方はですか」

「そうじゃ、無体はされぬ」

 それはないというのだ。

「お拾様にもな」

「そうですか」

「別にですか」

「そうしたことはされない」

「そうなのですか」

「そうした方ではない」

 家康の人柄を見てのことだ、幸村も家康を見ていて彼の人間性をよく知っていてそれでこう言うのである。

「決してな」

「確かに、内府殿はです」

「律儀な方ですし」

「正道を歩まれる方」

「しかも無闇な血を好まれぬ方」

「ならば」

「天下人になられれば大坂じゃ」

 この地だというのだ。

「大坂は望まれる」

「あの地をですか」

「お拾様のお命ではなく」

「大坂をですか」

「大坂は要地じゃ」

 幸村は言った。

「都、奈良に近く海から西国の何処にも行けるな」

「はい、瀬戸内の海から」

「四国も山陽も行けます」

「九州にも行けます」

「川に海とです」

「船を使えば何処にでも」

「そしてそれ故に人もものも集まりやすい」

 幸村はこのことも言った。

「あそこを押さえれば西国は容易に治まるからな」

「天下を治めるには大坂ですか」

「あの地を押さえる必要がある」

「だからですか」

「逆に言えば豊臣家も大坂にいればな」

 そうすればというのだ。

「力を保てる」

「だからですか」

「内府殿は何としてもですか」

「大坂を求められる」

「そうなのですか」

「そうじゃ、豊臣家が大坂を失えば」

 その時はというと。

「天下をとても保てなくなる」

「では只の一大名ですか」

「そうなりますか」

「豊臣家が大坂を失えば」

「他に領地はお持ちでも」

「その領地を治めるだけのじゃ」

 まさにそれだけの、というのだ。

「大名家になる」

「天下人ではなく」

「それだけですか」

「大坂におらねば」

「まさにそれだけの」

「だから内府殿は大坂を望まれるであろう」

 天下人になればというのだ。

「何としてもな」

「豊臣家ではなく、ですか」

「大坂ですか」

「あの地を求められる」

「左様ですか」

「豊臣家は滅ぼされぬ」

 幸村は言い切った。

「それは望まれておられぬ」

「求められるのは地であり」

「家ではない」

「そうなりますか」

「何度も言うが豊臣家は大坂から去るとじゃ」

 それでというのだ。

「天下人でなくなるからな」

「そして内府殿は天下人として、ですか」

「確かになられれる」

「そうなりますか」

「その様に」

「うむ」

 まさにというのだ。

「大坂じゃ、要は」

「だからこそ太閤様も天下人になられ」

「大坂に入られた」

「そして城を築かれたのですか」

「あれだけの城を」

「そういうことじゃ、大坂城もな」 

 この城もというのだ。

「内府殿は欲しいであろう」

「天下の為に」

「何としても」

「そうなる、しかしな」

「しかし?」

「しかしといいますと」

「このことを豊臣家がわかり」

 そしてというのだ。

「受け入れるか」

「そのことが、ですか」

「問題である」

「そうなのですな」

「さて、どうなるか」

 幸村は深く考える顔で述べた。

「これからな」

「それが問題ですな」

「ではどうなってもいい様にですな」

「手を打っておく」

「真田家が生き残る様に」

「そうしていかねばな」

 幸村は秀吉の死からすぐにだった、これからのことを考えてだ。そのうえで真田家がどうして生き残るべきかを考えていた。そのうえで動こうとしていた。



巻ノ七十五   完



                    2016・9・30


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