巻ノ八十二 川の仕掛け
昌幸は徳川方の軍勢が城から逃げ出し榊原が彼を逃がす為に自ら後詰となり戦っているのを城の櫓から見た。そのうえでこう家臣達に言った。
「流石は徳川四天王のお一人じゃな」
「はい、見事な戦ぶりです」
「隙がありませぬ」
「ここは下手に攻められませぬな」
「攻めては返り討ちに遭いますな」
「うむ、後詰は攻めぬ」
榊原が率いる彼等はというのだ。
「そうする、しかしな」
「それでもですな」
「策はある」
「そうなのですな」
「そうじゃ、後詰はあえて攻めぬが」
しかしというのだ。
「よいな」
「はい、敵は逃げております」
「そのまま算を乱して」
「それではですな」
「また源次郎がやってくれる」
幸村、城の外で戦う彼がというのだ。
「それでまた敵に一泡吹かせようぞ」
「わかり申した」
「それではです」
「まずは敵を逃がし」
「そのうえで」
「敵が安心したところでじゃ」
まさにそこでというのだ。
「源次郎がやってくれるわ」
「ですな、源次郎様ならばです」
「必ずやってくれます」
「では後はですな」
「あの方にお任せしますか」
「そうするとしよう」
こう言ってだ、昌幸は榊原の後詰にはあえて積極的に攻めなかった。そうして徳川方の軍勢を逃がさせた。後は幸村に任せることにして。
秀忠は己の軍勢を必死に逃がさせた、自ら馬に乗ったうえで彼等に声をかけた。
「急げ、味方を見捨てずにじゃ」
「はい、何とかですな」
「今は」
「退くのじゃ、今は死ぬべき時ではない」
だからこそというのだ。
「逃げよ、そして傷付いた者は見捨てるでない」
「わかっております」
「味方を見捨てては武士の恥」
「その様なことはしませぬ」
「そのことは」
「そうせよ、川があるがな」
秀忠はこのことにも言及した。
「踏ん張りじゃ」
「渡ってですな」
「難を逃れるのですな」
「そうせよ」
絶対にというのだ。
「よいな」
「確かあの川の名は神川でした」
旗本の一人が秀忠に言ってきた。
「この辺りの川は厄介です」
「前の戦の時もじゃな」
「我等は痛い目に遭っております」
「その話は彦左衛門から聞いた」
大久保、その彼からだというのだ。
「随分やられたそうじゃな」
「はい、ですから」
「敵が攻めてきてもか」
「対することが出来る様にすべきかと」
「わかった」
秀忠は旗本のその言葉に頷いた。
「それではな」
「備えをしたうえで」
「川を渡ろうぞ」
そこをというのだ、こう話してだった。秀忠は兵を励ましつつ逃がした。兵達はその彼の心を知り有り難く思いつつだった。
神川に向けて逃げていた、だが。
幸村はその彼等の動きを見てだ、彼の軍勢に言った。
「ではな」
「はい、いよいよですな」
「次の手に移る」
「そうしますな」
「そうするとしよう」
実際にというのだ。
「今よりな」
「はい、わかり申した」
「では今より法螺貝をあげます」
「そうしてあちらに知らせます」
「そうせよ、敵は逃げるのに必死じゃ」
幸村の目には彼等のその動きがはっきりと見えていた、既に彼の周りには十勇士達が戻って来て揃っている。
「だからな」
「そこが、ですな」
「狙い目ですな」
「そうじゃ、では法螺貝を吹け」
こう命じてだ、実際に法螺貝を吹かせた。幸村は法螺貝のその声を聞いてまずは一旦瞑目してから言った。
「また多くの者が死ぬ」
「はい、そうですな」
「どうしてもですな」
「避けられぬことですな」
「戦ですから」
「そのことは」
「致し方ない、戦は恐れぬが」
しかしとだ、幸村は十勇士達にも述べた。
「やはり人が死ぬことを考えるとな」
「心にきますな」
「我等とて同じです」
「うむ、だからつい瞑目をした」
こう十勇士達に話した。
「弔いの気持ちでな」
「左様ですか」
「それは殿らしいですな」
「敵にもそうしたお心を向けられる
「倒した、倒す相手にも」
「そうじゃ」
こう言う、そして法螺貝の音が終わるのを聴いたのだった。
徳川方の軍勢は神川を渡ってそのうえでさらに逃げていた、秀忠はその状況を見つつ周りの者達に問うた。
「後詰はどうじゃ」
「はい、榊原殿も下がられました」
「今こちらに向かっておりまする」
「お怪我はないとのことです」
「ならよい、あ奴には苦労をかけた」
秀忠はこのことに自責の念を感じつつ言った。
「全く以てな」
「そう言われますか」
「実にな、しかしあ奴の踏ん張りのお陰でじゃ」
秀忠は今も軍勢を見ている、そのうえで言うのだった。
「我等もここまで逃げられた」
「そうですな、後はです」
「川を渡るだけです」
「全軍川を渡り安全な場所まで退き」
「そこで、ですな」
「態勢を立て直しもう一度攻める」
城をというのだ。
「よいな」
「はい、今日は油断しましたが」
「小さな城ですし」
「あらためて油断せず攻めれば」
「必ず攻め落とせますな」
「そうなる、そして父上の軍勢に合流するぞ」
秀忠はこう考えていた、そして川を渡る時も用心して具足で身を固め武器を持っている兵達を見ていた。このままいけると思っていた。
だがその時だった、何と。
川の流れが急になった、しかも水の量も違う。これまでとは全く別もののその勢いと量の水によってだった。
川を渡っていた兵達が断末魔の声と共に流されていく、秀忠はそれを見て唖然となった。
「な、今度は何じゃ」
「まさかこれは」
「水攻めですか」
「真田が川の水をせき止めていて」
「それを流したのでしょうか」
「そういえば妙にじゃ」
ここで秀忠もはっとなった。
「川の水の量が少なかった」
「はい、勢いもです」
「川の幅にしては少なかったです」
「ではこれは」
「やはり」
「また真田の策か」
秀忠はこのことを認めるしかなかった。
「何という者達じゃ」
「ここはどうされますか」
「それで」
「川の流れが弱るまで渡るな」
すぐにだ、秀忠は全軍に命じた。
「そして川が元に戻ってからじゃ」
「それからですな」
「あらためて渡る」
「そうしますか」
「まだ渡っておらぬ者達は守りを固めよ」
こうも命じた。
「こうした時にこそ来るぞ」
「ですな、それでは」
「今は守りを固め」
「そして川の流れが元に戻れば」
「その時に」
「渡るぞ、しかし真田め」
秀忠の顔が変わった、今度は忌々しげな表情で歯噛みしていた。
「ここまでやってくれるとはな」
「想像以上でしたな」
「まさに」
「うむ、このことは忘れぬ」
こうも言った。
「決してな」
だがそう言っても何もならなかった、彼は残った軍勢が川を渡ってから全軍を集結させ陣を組みなおした。そしてその夜は守りを固めさせて動かなかった。
昌幸は城でその報を聞いた、そのうえで笑みを浮かべて言った。
「全て上手くいったわ」
「左様ですな」
幸村も城に戻っていて父に応えた。
「今日は」
「うむ、そして明日からはな」
「敵は今日の様にはですな」
「攻めて来ぬ」
こう幸村に言った。
「だからな」
「はい、こちらも今日の様な攻めはですな」
「せぬ、守りを固めておるわ」
徳川方もというのだ。
「だからな」
「積極的には攻めず」
「守りに専念する、しかし相手に隙があればな」
「その時はですな」
「御主が攻めよ」
「では城の外にですか」
「おれ、よいな」
「わかり申した」
幸村は父の命に確かな声で応えた。
「そうさせてもらいます」
「十勇士達と共にな」
「その様に」
「それでじゃ」
昌幸はさらに話した。
「このまま敵を足止めしてな」
「動かさぬのですな」
「我等はそうする」
「そうすればですな」
「内府殿の戦もわからなくなると思う」
「思う、ですか」
「既に治部殿の方で怪しい御仁がおる」
こう言うのだった。
「それも幾人かな」
「まさか」
「いや、そのまさかじゃ」
こう幸村に言った。
「今も各地に忍達を放っておるが」
「あの者達から聞くと」
「金吾殿や毛利家の吉川殿等がな」
「既にですか」
「内府殿と通じているやも知れぬ」
その彼等がというのだ。
「だからじゃ」
「あちらの戦は、ですか」
「わからぬやも知れぬ」
「そうですか」
「普通に見れば互角じゃ」
家康と石田、それぞれが率いている兵達はというのだ。
「数はな、しかしな」
「寝返りや戦わぬ者がいれば」
「そこで違う」
そうなるというのだ。
「内府殿が勝つやも知れぬ」
「そして内府殿が勝たれればな」
「一気にですな」
「大坂に入られるであろう」
「そうなれば」
「戦は終わりじゃ」
昌幸は幸村に言った。
「その時にな」
「では我等がここで中納言殿の軍勢を引き付けても」
「意味がない」
まさにというのだ。
「負けじゃ、我等の」
「そうなりますな」
「しかしな」
「それでもですか」
「我等が生き残る策は用意してある」
昌幸は敗れた先にことも考えていた、そうしてそのうえでだった。幸村に対してこうしたことも言ったのだった。
「あれをな」
「ではそうなっても」
「よい、元より我等が勝てばな」
「その時は兄上を」
「そう考えておったからな」
だからだというのだ。
「よい」
「そうでしたな」
「ではよいな」
「はい、何があっても生き残りましょう」
「源三郎もわしもな、そして源次郎」
昌幸は幸村にここでこうしたことを言った。
「御主は武士として生きたいな」
「はい」
「では時として待つこともわかっておれ」
「待つこともですか」
「そうじゃ」
それもというのだ。
「わかっておれ」
「そうですか」
「うむ、御主の顔の相を見るとじゃ」
実際に幸村のその顔を見て話す。
「御主が目指す、歩く道で大きなことをする」
「だからですか」
「その時が来るまで待つこともな」
「覚えておくことですか」
「そうじゃ、特にじゃ」
昌幸はさらに言った。
「耐えねばならぬ時はじゃ」
「耐えるべきですか」
「御主はそれをわかっているが」
「それでもですな」
「念を押しておく、待つべき時は待て」
こう言うのだった、我が子に。
「そしてそのうえでじゃ」
「時が来れば」
「思う存分働け、よいな」
「わかり申した」
幸村は父に強い声で応えた。
「そのことは」
「確かに言ったぞ、では後はな」
それはというと。
「ここで戦うぞ」
「そうしますか」
「うむ、後は強くは攻めぬであろうが」
「敵を翻弄して」
「戦う、よいな」
「ではそうして足止めしましょうぞ」
秀忠の軍勢をというのだ、そして実際にだった。
昌幸と幸村は城を囲んで今度は迂闊に攻めようとしない秀忠の軍勢に奇襲も仕掛けていた。だが流石に秀忠もだ。
守りを固め攻めようとしない、そのうえで全軍に言うのだった。
「慎重にじゃ」
「はい、今はですな」
「一気に攻めず」
「徐々にですな」
「攻めていくのですな」
「そうせよ、痛い目に遭ったからのう」
それだけにというのだ。
「ここはな」
「迂闊に攻めずに」
「慎重にですな」
「少しずつ攻めていく」
「そうしますか」
「そうせよ、必ず攻め落とす」
上田城を怒りに満ちた目で見つつだ、秀忠は言った。
「あの城をな」
「ただ、です」
ここで榊原が秀忠に謹言した。
「あまり時をかけられては」
「そうか」
「はい、殿の軍勢とです」
「合流出来ぬな」
「遅参となります」
「ではか」
「それがしが思いますに」
榊原は秀忠に強張った顔で述べた。
「もうそろそろ」
「この城から離れてか」
「はい、上がりましょう」
中山道から都の方にというのだ。
「そうしましょう」
「わかった、ではな」
秀忠も遅参が気になった、それでだった。榊原の言葉に頷きその上でこう言った。
「囲みを解いてな」
「そのうえで」
「上がろうぞ」
都の方にというのだ。
「そして父上の軍勢と合流しよう」
「そうしましょうぞ」
「すぐにな」
こう言ってだ、秀忠は慌てて城の囲みを解いて上洛を再開した。昌幸は黄色い徳川家の軍勢の動きを見て言った。
「ようやくじゃな」
「はい、十日ですか」
「十日かかりましたな」
「足止め出来ましたな」
「十日程」
「充分じゃ、それではな」
勝った、だからだというのだ。
「満足しよう」
「さすれば」
「それで戦の結果はな」
家康と石田のそれはというと。
「近いうちに報が来るか」
「そろそろですな」
「ではそれ次第で、ですな」
「今度はどうするかが決まりますな」
「それが」
「うむ、しかしこの度の戦伊賀者も甲賀者も出なかった」
その彼等はというのだ。
「特に伊賀の服部半蔵と十二神将はな」
「噂に聞く、ですな」
「伊賀忍軍の棟梁と上忍の十二人」
「まさに鬼神の如き強さだとか」
「そう聞いていますが」
「あの者達は出なかった」
その彼等はというのだ。
「内府殿に従っておったか」
「そしてですな」
「そのうえで、ですな」
「戦の場に赴いた」
「そうなのですな」
「そうじゃな、あの者達が来ても退ける自信があったが」
それでもというのだ。
「伊賀者はあちらか」
「そして甲賀者もですか」
「あちらに行っておりますな」
「内府殿の方に」
「そうされていますな」
「そうじゃな、それも幸いしたか」
昌幸は冷静な顔で述べた。
「この度は」
「若し伊賀者や甲賀者がいてです」
「服部殿と十二神将もいれば」
「その時はですか」
「この様に容易には」
「やはりいきませんでしたか」
「わしと源次郎、そして十勇士がおるが」
だがそれでもというのだ。
「それでも一人足りぬわ」
「十二神将で手が一杯ですな」
「頭数で考えてみますと」
「どうしてもそうなりますな」
「そこは」
「うむ」
その通りとだ、昌幸は家臣達に答えた。
「そうなる」
「やはりそうですか」
「そうなりますか」
「服部殿の相手をする者がいない」
「あと一人欲しかったのう」
昌幸はその時のことを考えて述べた。
「若し伊賀者達がおればな」
「ですな、確かに」
「その時のことを考えますと」
「伊賀者、甲賀者がいなかったのは幸いでした」
「我等にとって」
「その場合は攻め落とさせぬにしてもな」
それでもだったというのだ。
「より苦しい戦になっておった」
「ですな、間違いなく」
「そうなっていましたな」
「それが幸いでした」
「只の軍勢だけで」
「そうであった、若し再び伊賀者甲賀者達と戦う時があれば」
その場合についてもだ、昌幸は述べた。
「我が真田忍軍とじゃ」
「十勇士にですな」
「あと二人程必要ですか」
「そうなりますか」
「真田家が一つになって戦うならばな」
その場合からだ、昌幸は話した。
「源三郎と源次郎、わしでいけるが」
「家が分かれていますと」
「その場合はですな」
「この度の様に」
「その場合は」
「その時が問題じゃ」
あくまで冷静に言う昌幸だった。
「どうするかな」
「やはり人ですな」
「人を育てるべきですな」
「その時に備えて」
「そうしておきますか」
「そうするか、しかしこの度の戦は終わった」
あらためてだ、昌幸は言った。
「だからな」
「はい、それでは」
「これで、ですな」
「まだ戦は続きましょうが」
「とりあずはよしとしますか」
「そうしようぞ」
微笑んで家臣達に言った。
「今はな」
「わかり申した」
「ではささやかながら宴を開きましょう」
「源次郎様と十勇士達も呼び戻し」
「そのうえで」
「兵達にも飲ませよ」
酒をというのだ。
「よいな」
「はい、それでは」
「その様にしましょう」
「また戦になるやもですか」
「今はとりあえず」
「その様にな」
こうしてだ、昌幸は幸村達を呼び戻し宴を開いた。しかしその夜に昌幸と幸村は城の窓から星を見てこう言った。
「将星が落ちたな」
「はい」
二人で言い合った。
「あれはな」
「どなたの星でしょうか」
「格別大きくはない」
その星はというのだ。
「では誰か」
「それですな」
「内府殿ではない」
昌幸はこのことはわかった。
「しかし非常に優れたな」
「そうした方ですな」
「果たして誰か」
昌幸は眉を厳しくさせて言う。
「それが問題じゃな」
「まさか」
幸村はその落ちる星を見つつ言った。
「義父上が」
「有り得るな」
「やはりそうですか」
「うむ、刑部殿は業病であられるしな」
「そのこともありますか」
「そしてこの戦に全てを駆けておられた」
「だからですな」
幸村も応えて言う。
「あの方は」
「有り得る」
「そうですか、しかし」
「それでもだな」
「戦で死ぬことは避けられぬもの」
人がだ。
「ですから義父上が亡くなられても」
「受け入れるか」
「そうするしかありませぬ」
こう昌幸に言うのだった。
「その時も」
「そうか、わかった」
昌幸も幸村のその言葉に頷いて応えた。
「あの御仁なら恥ずべきことをされぬ」
「最後まで」
「そうした方じゃ、だからな」
それ故にというのだ。
「そのことは安心してな」
「そうしてですな」
「戦の報を聞こう」
「あちらにも忍を送っていますな」
「何かあればな」
「すぐにここまで戻って」
「伝えてくれる」
幸村にこのことも話した。
「だから安心せよ」
「わかり申した」
「おそらく今日大きな戦があった」
「では明日にでも」
「報が届く」
放っている忍達からというのだ。
「それを待って今はな」
「ここにいますか」
「そうしようぞ」
こう言うのだった、そして実際にだった。昌幸は夜明け前に起こされてその報を聞いた。そのうえでこう言ったのだった。
「わかった」
「あの、しかし」
「敗れたからか」
「はい、お言葉ですが」
報を届けた忍は落ち着き払っている昌幸に驚いた顔で言うのだった。
「この度のことは」
「大変だというのじゃな」
「我等が敗れましたので」
「わかっている、しかしだ」
「それでもですか」
「落ち着いてな」
そうしてというのだ。
「ことにあたる、では源次郎にもじゃ」
「あの方にも」
「このことを知らせよ」
忍の者に対して告げた。
「よいな」
「はい、それでは」
こうしてだ、昌幸だけでなく幸村も報を聞いた。それは関ヶ原において石田達が敗れ大谷が死んだというものだった。
朝になりだ、幸村は朝飯の前に昌幸のところに赴き言った。
「報は聞きました」
「そうか」
「立派なご最期だったとか」
「自ら腹を切られてな」
「最後まで勇敢に戦われたうえで」
「あの御仁らしいな」
「見事な戦ぶり、ご最期だった」
幸村は瞑目する様にして言った。
「それがしも話を聞いてです」
「よかったと思っておるか」
「生きていて欲しかったのは事実です」
義父である彼にだ。
「しかしです」
「武士として見事に戦った」
「それならば」
「いいか」
「はい、それがしあの方を義父に持ち果報者です」
「天下一の義父殿じゃな」
「そう思っておりまする」
実際にというのだ。
「よかったです」
「そうであるな、それでじゃが」
「はい、これからはですな」
「源三郎の仕事じゃ」
それになるというのだ。
「あ奴には思う存分働いてもらおう」
「それでは」
「我等は大人しくしておるぞ」
「そうしてですな」
「時を待つとしよう」
こう言ってだ、昌幸は幸村と共に身を慎みはじめた。関ヶ原でのことは忽ちのうちに天下に伝わり一旦は戦の場から逃げ延びた石田もだ。
捕まり都の四条河原で安国寺恵瓊や小西行長達と共に処刑されることになった。だが彼はこの時も堂々としておりだ。
小西にだ、こう言ったのだった。
「わしは死ねばな」
「そしてあの世に行ったらか」
「まずは桂松に謝る」
大谷、彼にというのだ。
「こうなったことをな」
「そうするか」
「あ奴の助けを借りたというのに」
それでもというのだ。
「こうなったからな」
「頭を下げるか」
「そうする」
こう言うのだった。
「全く以て不甲斐ない」
「そしてそのうえでか」
「あ奴がまたそうしたいというのならな」
「その時はだな」
「また共にやっていきたい」
死んでからもというのだ。
「是非な」
「あ奴ならな」
「間違いなくか」
「応えてくれるわ」
小西は石田に笑って言った。
「だからな」
「このことはか」
「安心せよ」
これが小西の石田への言葉だった。
「あ奴についてはな」
「そうか」
「それでじゃが」
小西は石田にあらためて問うた。
「御主先程喉が渇いたと言っていたな」
「うむ」
「では少し周りに頼んでみてはどうじゃ」
こう石田に言うのだった。
「最後の頼みとしては」
「敵であってもか」
「武士でもな、どうじゃ」
「そうじゃな、それではな」
石田も頷いてだ、実際にだった。刑場に向かって歩くその中で彼を監視している武士達にこう言ったのだった。
「喉が渇いた、何かあるか」
「水か何か」
「うむ、何かあるか」
「柿がありますが」
旗本と思われる者が石田にその柿を出して言ってきた。
「如何でしょうか」
「柿か」
「左様です」
「遠慮する、御主が食べよ」
石田はその武士に微笑んで言った。
「それは美味いが身体を冷やし痰によくないからな」
「だからですか」
「今は遠慮する」
「今といいますが」
その武士は石田の言葉に怪訝な顔になり返した、少し苦笑いにもなって。
「貴殿はもう」
「磔にされるというのじゃな」
「そうなりますが」
「それはわかっておる、しかしな」
「しかし?」
「わしは捕らえられる前に腹を壊した」
このことから言うのだった。
「餓えて野の草を無理して食ってな」
「そうだったのですか」
「それで反省した、如何なる時もな」
餓えていても磔にされる時もというのだ。
「己の身は大事にすべきじゃ」
「左様ですか」
「そのこと、そうじゃな」
少し考えてだ、石田はあらためて言った。
「源次郎殿にお話してくれるか」
「真田殿に」
「そうじゃ、あの御仁にな」
こう言うのだった。
「そうしてくれるか」
「それが最後のお願いですか」
「喉のことはよい」
「いえ、そちらは柿がお嫌でしたら」
それならというのだった。
「水を持って来ます」
「そうしてくれるか」
「磔にかけられるまでまだ時がありますので」
「済まぬのう」
「最後まで礼は忘れるな」
武士は石田にこうも言った。
「殿のお言葉ですから」
「内府殿のか」
「左様です」
「流石は内府殿じゃな」
石田は家康のその心を知り微笑みもした。
「お見事じゃ」
「そう言われますか」
「ではその水有り難く受け取ろう」
「そして飲まれてですか」
「末期の水としよう」
まさにそれにというのだ。
「是非な、そしてな」
「真田家のご次男にですな」
「伝えてくれるか」
「はい、最後の最後までですな」
「己の身を大事にされよとな」
「その様に」
「桂松の娘婿であった、それにな」
それに加えてというのだ。
「あの御仁は悪い御仁ではない」
「だからこそ」
「見事な方、必ず天下一の武士になられる」
幸村自身が目指す様にだ。
「それならばな」
「最後の最後まで」
「御身を大事にされよと」
「そしてですか」
「生きられて死なれよとな」
「わかり申した、では確かに」
「伝えてくれるか」
「お約束します」
「それでよい、もう思い残すことはない」
石田は満足した顔で言った。
「では行こう」
「水は持って来ますので」
「ではな」
石田は小西や安国寺恵瓊達と共に磔となった、そうして世を去った。そして彼が最後に話した武士はあえてだった。
上田に向かうことにした、だがその夜だ。
昌幸と幸村はまた星が落ちたのを見てだ、二人で話した。
「三つか」
「はい、治部殿とですな」
「小西殿、安国寺殿じゃ」
「左様ですな」
「後はな」
「はい、仕置ですな」
「そうなる」
こう幸村に言った。
「治部殿についた大名達のな」
「では我等は」
「間違いなく仕置の対象となる」
昌幸は言い切った。
「それも中納言殿はお怒りじゃ」
「だからですな」
「重いやもな」
その仕置がというのだ。
「切腹も出るやも知れぬ」
「切腹ですか」
「しかし本当にそうなると思うか」
「それはありませぬ」
幸村は昌幸の自身への問いに即座に答えた。
「内府殿は余計な血は好まれぬ方」
「そうであるな」
「首を切るにしても一度でされる方です」
「それは既に終わった」
「治部殿達のそれで」
「ではな」
「中納言殿も無体な方ではありませぬ」
律儀で父家康以上に穏健な人物として知られている、それと共に実は陰謀を好まぬ性質であるとも言われている。
「ですから不快に思われていますが」
「我等をな」
「命までは奪いませぬ」
「そうであるな」
「それに兄上がおられます」
袂を分かった筈のその兄信之がだ。
「父上の策通りに動かれれば」
「それでじゃ」
「我等は命だけはですな」
「助かる、命があればな」
「また何か出来ますな」
「そうなる、ただ御主はな」
幸村、彼自身にはこう言った。
「何があろうともじゃ」
「それこそですか」
「うむ、あの者達と離れてはならぬ」
「義兄弟達とは」
「十勇士とはな」
その彼等はというのだ。
「決して離れてはならぬ」
「例え何があろうとも」
「御主の武勇と智略、そしてな」
「あの者達の武勇もあれば」
「必ず何かが出来てじゃ」
昌幸はさらにだった、幸村に言った。
「出来る時が来る」
「必ずですか」
「そうじゃ、だからな」
「それ故に」
「御主達は離れてはならん」
こう強く言うのだった。
「よいな」
「わかり申した、では」
「死ぬ時と場所は同じだと誓い合ったな」
「十一人で」
「ならばそれを貫け」
「常に共にあるのですな」
「御主達はな」
まさにというのだ。
「わかったな」
「さすれば」
「ではじゃ」
ここまで話してだ、昌幸は一旦言葉を止めた。そしてそのうえであらためてだった。幸村に言ったのだった。
「では寝るか」
「今宵は」
「寝ることも大事じゃ」
「心身を休めることも」
「そうじゃ、だからな」
「今は休もうぞ」
「さすれば」
幸村も応えてだ、そうしてだった。
幸村達は今は眠った、戦は石田達の磔で終わった。しかし彼等の戦はまだ続くことがわかっているからこそ今は休み次の戦に備えるのだった。
巻ノ八十二 完
2016・11・16