巻ノ百二十一 天下人の器
服部は既に大和まで来ていた、そこで大坂や周りを観させている十二神将達の話を聞いていた。
東大寺、その裏にいてそこでだ。彼は話を聞いていた。
「そうか、ではな」
「はい、続々とです」
「大坂に人が入っております」
「そうなっていてです」
「やがてはです」
「後藤殿や長曾我部殿といった大身の方々もです」
「文を受け取られたそうですし」
それでとだ、十二神将達は服部に話していた。
「あの方々が動かれるのもです」
「時間の問題です」
「そして必ずです」
「大坂に入られるでしょう」
「わかった、そしてな」
服部か彼等にさらに問うた。
「九度山はどうじゃ」
「真田殿ですな」
「そして十勇士達」
「ご子息もおられますな」
「あの御仁はどうか」
こう十二神将達に問うた。
「もう動かれたか」
「いえ、まだです」
「文は届いた様ですが」
「まだです」
「まだ動きはありませぬ」
「間もなくと思いますが」
「今は」
今の時点ではというのだ。
「動かれていませぬ」
「九度山からは」
「今のところですが」
「まだ」
「わかった、しかしな」
それでもとだ、服部は彼等に言うのだった。
「わかるな」
「はい、必ずですな」
「あの御仁も大坂に入られますな」
「大坂から文が届き」
「そのうえで」
「そうなる、今にもな」
それこそというのだ。
「真田殿に文が届いているであろう」
「そしてですな」
「いよいよですな」
「あの方も大坂に入られ」
「幕府に槍を向けられますか」
「そうなる、出来ればな」
ここで服部は己の望みも述べた。
「豊臣家とも戦はしたくないしな」
「それにですな」
「真田殿ともですな」
「戦はしたくない」
「左様ですな」
「うむ、大御所様は戦をされたくない」
家康の他ならぬ本音だ。
「出来るだけ穏健にじゃ」
「大坂を手に入れられ」
「豊臣家は他の国に移って頂く」
「そうしてことを済ませる」
「それだけでよいとですな」
「今もお考えですな」
「だからまだじゃ」
戦が避けられないこの時点でもというのだ。
「茶々殿とのご婚姻もじゃ」
「まだですな」
「大御所様はお考えですな」
「左様ですな」
「そうなれば何の問題もない」
茶々が家康の正室となれば家康は秀頼の義父となる、千の父が秀忠であるので秀頼は二代の将軍の子となりしかも家康から見て孫の婿であり義理の子でもあるという強い絆になるというのだ。
「右大臣殿に何かする理由もな」
「一切ない」
「お子なのですから」
「そうなられるので」
「だからまだお考えであるが」
それがというのだ。
「茶々殿はな」
「ああしてですな」
「意地を張られ何もわかっておられず」
「兵も集められて」
「天下の浪人達も」
「長曾我部や後藤殿も手強いが」
しかしというのだ。
「やはりな」
「真田殿ですな」
「あの御仁ですな」
「知勇兼備であられる」
「まことの武士であるあの方ですな」
「強いというものではない」
幸村のそれはだ。
「知略もあり忍術まで使える方じゃ」
「しかもその下の十勇士達は一騎当千」
「そうした猛者揃いです」
「若し戦うとなると」
「恐ろしいことになりますな」
「幕府としても」
「だからじゃ」
それ故にというのだ。
「何とかな」
「真田殿の大坂入りは」
「それだけはですな」
「防ぐ」
「そうしますな」
「若し九度山を出ればな」
幸村主従にそれを許せばだ。
「幕府はさらに厄介な敵を抱えることになる」
「それも特にですな」
「厄介な敵ですな」
「幕府にとっては」
「智勇共に」
「そうじゃ」
だからこそというのだ。
「真田殿とその家臣、それにご子息は」
「何としても大坂に入れぬ」
「我等が手を尽くし」
「そのうえで」
「実は後藤殿や長曾我部殿にもそうしたいが」
苦い顔でだ、服部は彼等のことも話した。
「しかしな」
「伊賀もですな」
「何かと人手が足りませぬ」
「真田殿だけでも厄介ですが」
「他の御仁ともなりますと」
「そうじゃ、後藤殿や長曾我部殿になると」
彼等程の人物を止めるには、というのだ。
「やはりな」
「半蔵様か我等でないと」
「到底ですな」
「止められませぬな」
「どうしても」
「そうじゃ」
その通りだというのだ。
「真田殿は御主達全員を向かわせてな」
「十勇士にですな」
「そしてご子息の大助殿に真田殿ご自身となりますと」
「どうしても」
「手が一杯ですな」
「都におられる後藤殿、長曾我部殿は板倉殿が受け持たれるが」
京都所司代である彼がというのだ。
「しかしな」
「それでもですな」
「確かな御仁でないと止められぬ」
「到底」
「後藤殿もまた一騎当千の天下の豪傑」
服部は彼のそのこともよくわかっていて言うのだった。
「だからこそな」
「我等のうちの誰かでないと」
「それは難しいですな」
「どうにも」
「拙者が行きたいが」
九度山のことは十二神将達に任せてというのだ。
「何とか後藤殿化長曾我部殿かどちらかをな」
「止めたいところですが」
「半蔵様もですな」
「これよりですな」
「大坂に行かねばなりませぬな」
「そうじゃ」
それ故にというのだ。
「あの城事態を見張らねばならぬ」
「左様ですな」
「だからこそですな」
「半蔵様は行けぬ」
「九度山にも都にも」
「そのどちらにも」
「若し大坂でこれまで以上におかしな時があれば」
その時はというのだ。
「拙者がすぐに大御所様にお伝えする」
「その為に大坂に行かれる」
「そしてあの地面を見張られる」
「そうされますな」
「大坂は拙者でないとな」
それこそというのだ。
「見張れぬとな」
「大御所様がお考えで」
「実際にその通りですな」
「今のあの地を万全に見張れるとなると」
「幕府の忍で半蔵様のみです」
「半蔵様しかおられませぬ」
「他の伊賀者、甲賀者は天下に散った」
彼等も家康の命を受けてだ、そうしているのだ。
「大坂にもそれぞれ相応の数が行くしな」
「大坂の伊賀者は半蔵様の采配で動かれる」
「そして甲賀は甲賀で」
「そうして動き」
「それで、ですな」
「拙者は大坂に行く」
九度山にも都にも行けずにというのだ。
「ではな」
「はい、それでは」
「九度山は我等にお任せ下さい」
「是非共」
「そうされて下さい」
「ではな」
こう話してだ、服部は九度山のことは十二神将に任せ自身は大坂に向かった、大坂を離れた場所から見るとだった。
城の周りの民達の動きがあわただしかった、服部はそれを見て周りにいる伊賀者達二こう言った。
「わかるな」
「はい、民達がです」
「戦を避けようとしております」
「おそらく近くの山に逃れてです」
「難を避けますか」
「苦労をかけるのう」
民達にとだ、服部は苦い顔で呟いた。
「民達には」
「全くです」
「戦になればです」
「難儀をするのは民達です」
「このことは変わりませぬな」
「だから戦はな」
それはとだ、服部は周りの者達にさらに話した。
「大御所様も避けたかったのじゃ」
「民に難儀はさせぬ」
「それが天下人の務めですな」
「そこはやはり」
「必ずせねばなりませぬな」
「だからじゃ」
家康もそう考えていたからだというのだ。
「何とかな」
「大坂はですな」
「戦をせずに手に入れたかった」
「大御所様としては」
「そうだったのですな」
「そしてそれはな」
家康の考えはというのだ。
「正しい、大坂を手に入れるのは幕府の天下が泰平に治まるのに欠かせぬものであろうともな」
「それで戦になるのならば」
「例え後で大坂が手に入ろうとも」
「民に迷惑がかかっては」
「本末転倒ですな」
「茶々様は意固地で誇りばかり強い方じゃ」
服部は今度は大坂城を見た、慌てる民達の真ん中に堂々たる姿を見せている。特に天守閣がそうだ。
「何もわかっておられずご存知ないうえでな」
「それ故にですな」
「あくまで天下人として大坂におられ」
「今の状況を招かれた」
「戦を」
「それでどうして天下人か」
服部はこうも言った。
「民を無闇に巻き込んでな」
「全くですな」
「あの方はその時点で天下人の器ではない」
「そうなりますな」
「民を無用な戦に巻き込んだ時点で」
「天下人は地位や誇りでなるものではない」
服部は言い切った。
「そこに心があってこそじゃ」
「天下人の心が」
「それがあってこそですな」
「天下人になれる」
「そうしたものですな」
「室町幕府を見よ」
先の幕府をというのだ。
「六代殿はどうであられた」
「あまりにも暴虐で酷薄で」
「観闇に血を流され」
「そして、でしたな」
「遂に赤松家に弑されました」
「あの方には誇りも地位もあられた」
そして力もだ、義教には確かにそうしたものは全て備わっていた。この頃はまだ室町幕府もそれなり以上の力があったのだ。
「だがな」
「お心がなかった」
「あまりにも暴虐で酷薄であられ」
「血を流され続けた」
「そうした方だったと言われていますな」
「天下人には仁の心も必要じゃ」
まさにその心がというのだ。
「しかしな」
「室町の六代殿には仁がおありでなく」
「そしてそれ故にですな」
「次は自分と思われた赤松家に弑された」
「そうなりましたな」
「そうじゃ、室町の六代殿は仁がなく」
そしてというのだ。
「茶々殿はな」
「誇りばかりであられ」
「民のことも目に入っておられぬ」
「そうした方ですな」
「民は去る」
戦から逃れる為にというのだ。
「そこではっきりと見るわ」
「大坂からですな」
「豊臣家が治めるべき民が」
「民達が去りますか」
「そして残るのはな」
民達が去ってというのだ。
「何があるか」
「何もありませぬな」
「大坂の城と兵達は残りますが」
「そうしたものだけです」
「肝心の民がおらぬ」
「そうした家になりますな」
「民が去り何の天下人か」
腕を組み忍の覆面の中で瞑目しつつだ、服部はこうも言った。
「天下人は民を、天下を治めるものじゃ」
「切支丹のこともですな」
「あの者達は国も民も脅かします」
「だから幕府も禁じたのですが」
「それでもですな」
「茶々様はわかっておられぬ」
「それはないと勝手に思い込んでおられますな」
伊賀者達も口々に話す。
「あの方は」
「全く以てなりませぬな」
「あの方は、そして豊臣家はもう」
「天下人足り得ませぬな」
「その心がないからじゃ」
服部はまたこう言った。
「おそらく茶々殿は今戦のことしか考えておられぬ」
「そして勝つと」
「そのことだけをですな」
「考えておられ」
「民のことなぞもう」
大坂城、彼女がいるその城の周りにいる彼等のこともというのだ。
「一切ですな」
「考えておられず」
「そしてですな」
「お目にも」
「入っておられぬわ」
見れば大坂の城の動きは周りの民達と同じく慌ただしい、だがそれは戦への備えに対してであり逃げる為ではなく民達を見てもいなかった。
「わかるな」
「どう見ましても」
「もう兵達ばかり見ていて」
「そしてです」
「民達のことは」
「皆戦に巻き込まれぬ為に逃げようとしているのに」
「それを一切見ておられませぬ」
城の動きからもそれは明らかだった。
「民達も誰一人城に入りませぬ」
「逃げる先を他に求めています」
見れば誰も城に助けを求めていない、皆山の方に逃れてそのうえで難を避けようとしている。
「民達の心も豊臣家にはない」
「そうもなっていますな」
「それに誰も気付いていない様ですが」
「大坂の民達は」
「しかし動きに出ておる」
その民達の心がというのだ。
「はっきりとな」
「それが見える様では」
「最初からですな」
「天下人になり得ていない」
「そういうことですな」
「そうじゃ、豊臣家は既にじゃ」
まさにというのだ。
「天下人でなくなっておるのじゃ」
「太閤様一代でしたか」
「所詮は」
「そうした家でしたか」
「大納言殿がおられてな」
秀長、彼がというのだ。
「そして関白様がおられれば、せめて関白様がな」
「おられれば」
「豊臣家は天下人でいられた」
「左様でしたか」
「そうであった、しかし右大臣様だけでは」
秀吉が死んだ時にまだ六歳だった彼がだ。
「ご幼少では何も出来ぬ」
「それでは実質的な主は茶々様となられ」
「その茶々様があれでは」
「もう、ですな」
「豊臣家は天下人ではないですな」
「そうじゃ、我等は今それをはっきりと見ておる」
その目でというのだ。
「豊臣家が何故天下人でなくなったのかをな」
「民が見えていない」
「目の前の民達ですら」
「それではですな」
「天下人ではありませんな」
「この戦は幕府の勝ちじゃ」
服部はこうも言った。
「はっきりわかるな」
「はい、実に」
「あの有様ではです」
「例え大坂に百万の兵がいようとも」
「幕府は勝ちます」
「必ず」
「よいか、我等にその理由もないしじゃ」
服部は忍の者達に強い声で告げた。
「民達には一切じゃ」
「危害を加えぬ」
「そうしてはなりませぬな」
「何があろうとも」
「戦見物で出て来る民達もな」
本朝の戦では常だ、民達は近くで戦が起こるとそれを見に来るのだ。このことを咎める者は一人もいない。常識だからだ。
「一切じゃ」
「気にせずですな」
「姿を見せない様にする」
「そして見られてもですな」
「構うな、ですな」
「民は見ておるだけじゃ」
目の前で起こっている戦をだ。
「相手にも何も言わぬ、こっちにもな」
「だからですな」
「手出しすることはありませぬな」
「それも一切」
「放っておいていいですな」
「只でさえ戦から逃げておるし家も焼かれる」
こうしたことが避けられないからだというのだ。
「ならばな」
「ここは、ですな」
「これまでもそうでしたが」
「民達には構わない」
「それも一切」
「そうせよ。わかったな」
「はい」
周りの忍の者達も答えた、そしてだった。
彼等は大坂を見張り続けた、民達は次から次にと逃げ出そうとしている。秀頼はその様子を天守の最上階から見てだった。
傍らに控える大野にだ、こんなことを言った。
「民達が逃げていくのう」
「はい、戦を避けて」
「悲しいことじゃ」
こう言うのだった。
「この前まで夜でも城まで声が聞こえる程だったに。それにな」
「その民達を騒がせ戦を起こすことが」
「悲しい」
このこともいうのだ。
「あの者達がどれだけ難儀するかと思うと」
「そう思いますると」
「無念じゃ」
秀頼はこうも言った。
「実にな」
「それでこそ天下人。ですが」
「ここに至ってはな」
「避けられませぬ」
その戦をというのだ。
「最早」
「そうであるな」
「ですから」
それ故にというのだ。
「ここはです」
「覚悟を決めてな」
「戦いましょう」
「戦いそして」
「勝ちましょうぞ」
その戦にというのだ。
「何としても」
「わかった、しかしな」
秀頼は大野の方を見て彼に言った。
「余は戦は」
「これまでは」
「知らぬ、兵法の書を読み馬に乗ったことはあるが」
それでもというのだ。
「戦そのものはな」
「はい、ですから」
「今の様にじゃな」
「天下から浪人達を集めております」
そうしていることをだ、大野は秀頼に話した。
「その数十万に至ります」
「十万か」
「はい、これだけの数があれば」
あえて強くだ、大野は秀頼に話した。
「必ずです」
「勝てるか」
「ご心配は無用です」
秀頼にこうも話した。
「必ずや」
「そうか」
「はい」
主を安心させる為にあえてこう言うのだった。
「お任せ下さい、我等だけでなく」
「天下の豪傑達もじゃな」
「集まっています」
その彼等もというのだ。
「後藤殿や長曾我部殿、それに真田殿」
「真田というと」
「はい、お父上はもうお亡くなりになっていますが」
「確か子が」
「以前それがしがお話しましたが」
「真田源次郎だったな」
「その御仁と家臣の方々とご子息が」
その彼等がというのだ。
「来てくれるかと」
「そうなのか」
「文も送っています」
「もう届いておるか」
「九度山の方におられますが」
その九度山にというのだ。
「既に」
「左様か」
「はい、真田殿は伊賀者達が見張っているでしょうが」
「それでもじゃな」
「必ずや来てくれます」
こう言うのだった。
「ですからご安心を」
「そなたが言うのならな」
秀頼は優しい、そして鷹揚な笑みで大野に応えた。家臣には優しく常にその心を労わる主なのが秀頼だ。
「間違いない」
「有り難きお言葉」
「戦のことはな。しかしな」
「民達はですか」
「家を去る、これは気の毒じゃ」
天守から見つつ言うのだった。
「やはりな」
「戦の常です」
「そうじゃな、しかしな」
「しかしとは」
「その苦労を助ける為に」
ここでこう言った秀頼だった。
「逃れている間の飯や戻ってきた時に家を建て直す為の銭を置いておくか」
「戦には」
「戦にも使うがな」
それでもというのだ。
「豊臣の銭はまだまだ多いであろう」
「はい、十万の兵を迎え一年養っても」
それでもとだ、今度は大野の末の弟である大野治胤が応えてきた。
「まだ十分にです」
「銭があるな」
「左様です」
「ではじゃ」
それならとだ、秀頼は治胤に応えまた言った。
「銭を出してやれ」
「そうされますか」
「民を苦しめるのは悪じゃ」
「そしてその悪をですか」
「償うのも人のすべきことじゃ」
だからだというのだ。
「その様にせよ、よいな」
「わかり申した」
「戦の時ですから」
ここで言ったのは大野の上の弟の治房であった。
「やはり銭は」
「戦にじゃな」
「全て使うべきかと」
「そうじゃな、しかし余るのならな」
「それならですか」
「そうしてもよかろう」
こう考えてだというのだ。
「だからな」
「その銭はですか」
「民達に回せ。よいな」
「そこまで言われるのなら」
治房も主の考えをわかってだ、己の考えを収めそのうえで応えた。
「その様に」
「戦は一年もあれば終わるであろうしな」
秀頼はこうも言った。
「だからじゃ」
「それで、ですか」
「民達のことも忘れてはならん」
秀頼はまたこう言った。
「だからじゃ、わかったな」
「さすれば」
「ではな、そして戦はな」
「はい、そのことですが」
ここで大野がまた応えた。
「それがしが上様をお助けしましそして」
「天下の豪傑達がか」
「揃い」
そのうえでというのだ。
「戦いますので」
「わしはどうするか」
「ここで、です」
大坂城でというのだ。
「ゆうるりとです」
「見ておけというのか」
「そうされて下さい」
「主としてじゃな」
「左様です、十万の兵にです」
「天下の豪傑達が集まりじゃな」
「必ず勝てますので」
だからだというのだ。
「ご安心を」
「そうか、ではな」
「はい、全てはお任せを」
「わかった、そしてこれは言っておくが」
「何でしょうか」
「余は決して誰も恨まぬ」
秀頼はこうも言った。
「これまでもそうであったし今もそうであるしな」
「これからも」
「誰も恨まぬ」
こう言うのだった。
「よいな」
「誰もですか」
「お主達もそうであるし」
大野達に対して話した。
「無論義父上もじゃ」
「内府殿も」
秀忠のことだ、幕府では将軍であるが朝廷での官位は内大臣であるので大坂ではこう呼ばれているのだ。
「そしてですな」
「前右府殿も」
こちらは家康だ、今は源氏長者になっているが前の官位からの呼び名だ。
「あの方も」
「そう言われますか」
「義祖父様ではあるし」
それにというのだ。
「あの方はいつも余を案じてくれておる」
「はい、確かに」
大野もそのことをわかっていて言う。
「あの方は天下はご自身にあると思われていても」
「それでもな」
「奥方様のお夫君であられ」
「余が幼い頃随分と可愛がってくれた」
秀頼はその時のことを今も覚えているのだ、幼かったあの日々のことを。
「余がもの心ついた時に父上が身罷られた」
「残念ながら」
「そうなりました」
「上様もその時を覚えておられますか」
「太閤様が亡くなられた時を」
「うむ、忘れられぬ」
父の死、それは秀頼にとっても大きなことだった。幼い頃だったのでその時は何かよくわからなかったにしても。
「そして父上がおられなくなってな」
「お傍にですな」
「常に前右府殿がおられ」
「そのうえで慈しんでくれた」
「そうでしたな」
「そのこと忘れられぬ」
決してというのだ。
「その時のことはな」
「それで、ですな」
「今もですな」
「前右府殿のことは覚えておられ」
「そのうえで」
「わかっておる」
家康が自分についてどう思っているのかをだ。
「余に奥との間に子をもうけてな」
「そのお子をですな」
「豊臣家の次の主として」
「大坂以外の国で国持大名となって頂く」
「無論お父上であられる上様も」
「その様にですな」
「そう考えておられる、そしてそれがな」
まさにというのだ。
「余に一番よいとな、しかしな」
「ことここに至っては」
治房が言ってきた。
「最早」
「そうじゃな」
「戦は避けられませぬ」
「そうなればじゃな」
「ご母堂様が」
即ち茶々がというのだ。
「止められませぬので」
「だからじゃな」
「はい」
こう秀頼に答えた。
「どうしても」
「余もじゃ、何か言おうとすれば」
秀頼も二十歳を超えている、それだけに分別は備えてきている。それにそもそも学識もあるし考えもある。
それでだ、こう言うのだ。
「母上はな」
「その前にですな」
「言われて」
「そうして」
「何も言えぬ」
大坂の主である筈の彼でもというのだ。
「残念ながらな」
「そして、ですな」
「今に至りますし」
「これからも」
「そうであろう、母上は余も止められぬ」
服の袖の下で腕を組み大野達に述べた。
「だからな」
「それで、ですな」
「このままもご母堂様が好きなだけ言われて」
「大坂は動きますな」
「そうなる、余が母上を止められれば」
秀頼は幼い頃に父の秀吉を亡くしそうしてどうしようもなくなっていた、そうしてこう言ったのだった。
「この様になっていなかったが」
「今申し上げても」
「それでもです」
「あの方のあまりにもご気質の強さを思いますと」
「そうじゃな、特に修理よ」
秀頼はここで大野、三兄弟の長兄を見て述べた。
「お主は母上にな」
「はい、それがしは」
実際にとだ、大野は秀頼に答えた。
「茶々様には」
「母上は大蔵局が乳母であられた」
大野の母の彼女がというのだ。
「その絆でじゃな」
「小谷でも北ノ庄でも一緒でした」
二つの城が落城したその時もというのだ、実際に大野はその命の危機がある時も茶々そして彼女の妹達と共にいた。
「そして他の時も」
「常にじゃな」
「共にいてです」
「そのことがあって」
「どうしてもです」
実際にとだ、大野は秀頼に答えた。
「そのことは」
「そうであるな」
「兄上は」
治房がここで兄を見つつ秀頼に話した。
「そのことは」
「どうしてもじゃな」
「はい、ですから」
「大坂にはおらんな」
茶々を止められる者はというのだ。
「誰も」
「残念ですが」
「どうしたらよいか」
苦い顔で言うばかりだった、秀頼も。
「果たしてな」
「今に至りますし」
「どうしても」
「ご母堂様は」
「義祖父様から婚姻の申し出があったな、何度も」
秀頼もこのことを知っているのだ、それで今言ったのだ。
「そうであるな」
「はい、しかしです」
「ご母堂様は常に断られ」
「それも強く」
「その為にです」
「そうであるな、余も思うに」
秀頼は大野三兄弟にさらに話した、実は弟がもう一人末にいるが徳川家の下で旗本になっていて大坂にはいない。
「申し出を受けてな」
「前右府殿のご正室になっていれば」
「それで、ですな」
「万事上手くいっていた」
「そうであっただろう」
こう三兄弟に話した。
「やはりな、しかしな」
「残念ながら」
治房が言ってきた。
「その様にはなりませんでした」
「母上が断り続けてな」
「強くお勧めして」
「義祖父上のご正室になっていれば」
「何の問題もなく」
「大坂の民民も今の様にはならずな」
戦から逃げる様なことにもならずというのだ。
「そしてな」
「豊臣の家も」
「安心して大坂を出てな」
そしてというのだ。
「余は義祖父上にとってはじゃ」
「はい、孫姫様のご夫君であられ」
「しかも義理の子となります」
「血はつながってませんがこれ以上はないまでに強い絆です」
「それで豊臣も安泰だったが」
それでもというのだ。
「ことここに至っては仕方ないのう」
「はい、実は大坂に馳せ参じて来られる浪人の中には明石殿がおられますが」
「その明石という者は確か」
「切支丹です」
大野はこのことを話した。
「幕府が何としても認めぬ」
「それには確かな訳もあるな」
「太閤様の頃から」
まさにその頃からというのだ。
「ありました」
「そうであったな」
「あの者達は民を海の外に売り飛ばしたりします」
「そして奴婢として使うな」
「しかも教えを利用し」
民を害するだけでなくとだ、大野は秀頼に剣呑なものを語る顔で話していく。
「そのうえで本朝をも」
「乗っ取ろうとじゃな」
「してもきます」
「だからじゃな」
「どうしてもです」
「幕府も認めぬが」
「茶々様はそうではなく」
それでというのだ。
「明石という者も」
「よいとじゃな」
「言われまして」
大坂城の実質的なかつ絶対の主である彼女がというのだ。
「それで、です」
「決まったか」
「はい」
そうだというのだ。
「その様に」
「そうであるか」
「これもです」
「危ういな」
「はい、切支丹を認めるとのことで城に入ってもらいますが」
「しかしな」
「それがです」
まさにというのだ。
「幕府にとってはです」
「絶対に認められぬこと」
「ですから」
それでというのだ。
「どうしてもです」
「明石という者はか」
「城に入れるべきではないですが」
それでもというのだ。
「それがし達がそう思っても」
「それでも母上がな」
「決められましたので」
「そうなったか」
「はい、こうなっては」
どうしてもというのだ。
「どうしようもありませぬ」
「母上を余も誰も止められぬ」
秀頼は難しい顔のまま言った。
「それ故にな」
「この様にです」
「なっておりますし」
「どうしようもです」
「そうじゃな、そして最早こうなっては」
どうしてもというのだ。
「どうしようもないな」
「戦です」
「それが避けられませぬ」
「こうなっては」
「そして戦になれば」
「勝つしかないな、では待とうぞ」
その戦の時をだ、こう言ってだった。
秀頼は大坂の状況を見ていた、民達はとにかく必死に逃げようとしていた。その為の準備に勤しんでいた。
秀頼はそれを見て苦しいものを感じていたがだ、それでも。
今は仕方なくだ、戦の用意をさせていた。そしてだった。
兵達もだ、こう話していた。
「いよいよじゃな」
「戦じゃな」
「そうじゃな」
「はじまるのう」
「そうじゃな」
こうした話をしていた。
「いよいよな」
「その時じゃな」
「間もなくな」
こう話していた、そしてだった。
戦の時は近付いていた、それはもう間もなくだった。
巻ノ百二十一 完
2017・9・1