巻ノ百四十四 脱出
大坂城の天守閣にも火が及びだした、家康は巨大で壮麗なその天守閣が燃えるのを見つつ呟く様に言った。
「あれこそまさにじゃ」
「豊臣家の滅びですな」
「それを示すものじゃな」
「まことに」
こう大久保も応えた。
「それがしもそう思いまする」
「間もなく終わる、そしてな」
「もう大坂の城も大抵です」
「抑えたな」
「後は山里曲輪だけですが」
「その山里曲輪もな」
「多くを抑えました」
「糒蔵だけか」
秀頼のいるそこだと言うのだった。
「後は」
「そうなった様です」
「さて、間に合うか」
「真田は」
「このことは言うでないぞ」
家康は大久保に釘を刺した。
「よいな」
「承知しております」
大久保もはっきりと答えた。
「そのことは」
「ならよい、あと少しでな」
「あの者が来てですな」
「右大臣を助ける、そしてじゃ」
「それをですな」
「わしはあえてじゃ」
「見逃しますな」
こう家康に問うた。
「そうしますな」
「そう決めておった、ではな」
「はい、おそらくすぐに糒蔵から火が出て」
「火薬にも火が点いてな」
「派手に爆発して」
「跡形もなくなるが」
それでというのだ。
「もうそれでじゃ」
「右大臣殿は腹を切られた」
「そうなった」
まさにそれでというのだ。
「その様にな」
「してですな」
「何もせぬ、あと国松殿はな」
秀頼の子である彼はというと。
「斬られたことにせよ」
「そうしますか」
「何ならその辺りの人を殺めでもした悪童の首を刎ねてじゃ」
そうしてというのだ。
「国松殿は死んだ」
「その様にですな」
「してもよい」
「ですか、では」
「その様にしてじゃ」
「右大臣共も国松殿も」
「それでよい、そして修理にはな」
大野修理、彼はというと。
「あの者には褒美をやりたい」
「腹を切らせてですか」
「主への忠義に殉じた武士としてな」
「そうしてですな」
「死なせる、それこそがじゃ」
「あの者への褒美となりますか」
「そうじゃ、ではじゃ」
家康は大久保にあらためて述べた。
「あと一歩な」
「城を攻めていきますか」
「あと千にも真実を話しておく」
秀頼、夫である彼のことをというのだ。
「死んだことになっておるがな」
「実なですな」
「生きておるからそのことは安心せよとな」
「どうも十年共におられて」
「それなりに情が出来ておるな」
「その様でしたな」
「それだけに死んだと思うと悲しむ」
夫であった秀頼がというのだ。
「だからな」
「その様にですな」
「千には話してな」
「安心して頂きますか」
「その様にする、ではな」
「はい、山里曲輪を攻めていき」
「糒蔵にも迫れ、もうそろそろじゃ」
幸村の動きを予想しつつだ、家康は言っていった。
「櫓から火が出て火薬にも火が点きな」
「爆発が起こりですな」
「右大臣殿は死んだことになる、そこで茶々殿も死ぬ」
「茶々殿もですか」
「もう逃げぬわ」
茶々についてはだ、家康はこう見ていた。
「二度の落城があった、その都度父君と母君を失くしてきたのじゃ」
「浅井殿、そしてお市殿を」
「義父の柴田権六殿もな」
三人共家康は知っていて実際に顔を見会わせ親しく話したこともある、家康は三人の誰にも悪い印象は抱いていなかったし今もそれは変わらない。
その馴染みの者達であったからこそだ、家康は彼等のことも思いつつ茶々の身の上を考えて話した。
「親達を失った、ご自身には落城の因縁めいたものがあるかとな」
「思われて」
「それでじゃ」
「もうここで、ですか」
「その様なことが続かぬ様にな」
「ご自身の死を以てですか」
「終わらせよう」
「だからですか」
「茶々殿はここで死ぬ」
家康は大久保に語った。
「だから常高院殿にもじゃ」
「形見の品を授けられたのですな」
「そうじゃ、だからな」
「茶々殿はここで亡くなられますか」
「そうなる、菩提はしかと弔ってもらう」
常高院、そしてお江にというのだ。
「思えば悲しい方であったわ」
「ですな、常に落城に付きまとわれたのですから」
「それも終わりじゃ」
大坂城の落城でというのだ、天守閣はいよいよ火に包まれ紅蓮の柱となろうとしていた。そして山里曲輪もだった。
幕府の兵が殆ど抑え糒蔵にも兵が迫りその中で。
蔵の中にだ、遂に幸村が来た。大助が最初に幸村を見て彼に言った。
「父上、お待ちしておりました」
「うむ、待たせた」
「それではこれより」
「時間はない、急ぐぞ」
「右大臣様をこれより」
「抜け穴がある、そこを通ってな」
そのうえでというのだ。
「木下家の陣地まで出てじゃ」
「そこからですな」
「すぐにじゃ、船を出してもらい」
「海に出て」
「そこから肥後に向かうぞ」
「わかり申した」
「既に国松様は出ておられる」
幸村は秀頼の子である彼のことも話した。
「船にな」
「主馬殿と共に出られて」
「そうじゃ」
まさにというのだった。
「一足先にな」
「肥後に向かわれていますか」
「そして今度はな」
「右大臣様もですな」
「我等もじゃ」
自分達もというのだ。
「外に出るぞ」
「それでは」
こう話してだ、大助はすぐに十勇士達を呼び集めた。皆多少怪我をしているが五体満足であった。
十勇士達は幸村の前に控えて口々に言った。
「来られると信じておりました」
「ご気配確かに感じていました」
「そしていよいよですな」
「これより」
「右大臣様をお救いするぞ」
何としてもと決意していたそれを行うとだ、幸村は十勇士達に話した。
「よいな」
「はい、それでは」
「これよりです」
「我等最後の足止めを行い」
「右大臣様をお助けします」
「それはよい、わしが行う」
毛利がここで幸村達に言ってきた。
「わしと修理殿が最後まで戦う、そうしてじゃ」
「その間にですな」
「貴殿等は右大臣様を逃がしてくれ」
こう言うのだった。
「是非な」
「そうですか、それでは」
「真田殿、よく来られた」
まさにと言うのだった。
「生きておられて何より」
「分け身を使いそのうえで」
「分け身の首を取らせてか」
「暫し身を隠していました」
幸村は毛利にこのことを話した。
「昨日から」
「あの戦の後でか」
「もう落城は必至と見て密かに木下殿の陣に入り」
北政所の兄の家の軍勢にというのだ。
「そしてそこで、です」
「事情をお話されたか」
「既に北政所様からもお話がきていまして」
「それであったか」
「それがしも抜け穴を紹介して頂き」
「そのうえで」
「その抜け穴でここまで来ました」
こう毛利に話した。
「その様にしました」
「それでは」
「はい、これより」
「その抜け穴を使い」
「右大臣様をお助けします」
「わかり申した、ではその間は」
秀頼が逃げるそれまではというのだった。
「それがしと修理殿に任せられよ」
「かたじけない、それでは」
「そして抜け穴でござるが」
「我等が通りきりのいいところで」
「塞がれるな」
「抜け穴は見付かれば終わりでございまする」
敵、この場合は幕府の軍勢にだ。
「ですから」
「そちらも頼み申す」
「ではこれより」
「はい、右大臣様のところに」
「参上します」
こう言ってだ、幸村は秀頼の前に参上しことの次第を述べた。そのうえで秀頼に対して強く言うのだった。
「ではこれより」
「薩摩にか」
「お逃げ下さいませ」
「そうか、腹を切るつもりであったが」
「右大臣様の天命はまだ尽きてはおりませぬ」
「だからか」
「ここはすぐに」
「お主も他の者もそう思っておる様じゃな」
秀頼はここで残っている者達を見た、見れば皆目で秀頼に言っていた。秀頼もそれを見て頷いて述べた。
「わかった、ではな」
「はい、これより」
「出よう、母上」
秀頼は傍らにいる茶々にも顔を向けて誘いをかけた。
「共に」
「いや、妾はここで死ぬ」
茶々は息子の申し出に首を横に振って応えた。
「もうよいのじゃ」
「ですが」
「妾がおると落城してします」
自分がいる城がというのだ。
「そうした運命なのじゃろう、だからな」
「それ故にですか」
「落城の運命はここで終わらせてじゃ。そなたは生きよ」
「それがしを生かす為に」
「そう思ってよい、とにかくじゃ」
「ここで、ですか」
「喉を突いてな」
そうしてというのだ。
「自害する」
「私めがお供をします」
大蔵局は茶々に寄り添う様にして秀頼に話した。
「ですから右大臣様はお気遣いなく」
「薩摩にというのか」
「先に国松様も向かっております故」
「そこで生きよというか」
「はい、そうして太閤様の血を残して下され」
「そうか、では」
「お急ぎ下さいます様」
こう言ってだ、大蔵局は秀頼を積極的に逃がした。そうしてだった。
秀頼は幸村達と共に茶々達に別れを告げるとそのうえで幸村の案内を受けて十勇士、大助と共に城を後にした。そのうえで。
秀頼が抜け道から出たのを見送ってからだ、茶々は大野や毛利、大蔵局達残った者達に対して厳かに告げた。
「これまでご苦労であった、ではな」
「これよりですな」
「妾は喉を刺してじゃ」
そうしてというのだ。
「自害する、そしてじゃな」
「はい、我等もまた」
「お供致します」
「冥土でも共にいましょう」
「大坂の者同士で」
「済まぬな、妾は悪い主であった」
落城にまで追いやってしまった、そうした主だったというのだ。
「実にな、しかしじゃ」
「それもこれで、ですか」
「終わりであり」
「そうしてですか」
「冥土では」
「もう落城もないであろう、それだけは嬉しいことじゃ」
最後に静かな笑みを浮かべてだった、茶々は用意された小柄を両手に持ち己の喉に突き刺した。そうしてだった。
大蔵局が涙を流しつつ介錯をしその大蔵局も他の女御衆もだった。
自害していき侍達もそうした、それから。
最後に残った大野と毛利は向かい合ってそれぞれ笑みを浮かべて最後に話をした。
「これまでよく働いてくれた」
「修理殿こそ」
「わしは何も出来なかったが」
「いえ、これまで戦えたのは修理殿のお力あってこそ」
「そう言ってくれるか」
「そのお働き冥土でも忘れませぬ」
「有り難き言葉、ではな」
大野は自らだった、腹を切り。
毛利も同時にそうした、二人が腹を切った傍らにいる秀忠に言った。
「これで終わりじゃ」
「父上、どうもです」
「茶々殿と修理、大蔵局に女御衆がじゃな」
「その様です」
「そうじゃな、見事な最期であったとじゃ」
「伝えますか」
「現にそうであろう」
燃え盛る糒蔵を見つつ話した。
「今見た通りな」
「確かに」
秀忠は父のその言葉に頷いて応えた。
「見事でした」
「では後はじゃ」
「戦の後始末ですな」
「うむ、それをするとしよう」
「それが終わってからですな」
「わしは駿府に戻る、それで江戸じゃが」
家康は秀忠がいる幕府のあるその街のことをここで尋ねた。
「そろそろよい街並みになってきておろう」
「はい、ようやく。城の方も」
「それは何よりじゃ。あの地から天下を治めていくからのう」
幕府としてはというのだ。
「あの街は栄えねばならぬ」
「ですな、しかし最初はです」
秀忠にしてもだった、最初江戸を見て思ったことは家康と同じだった。それで今はその時のことを懐かしんで話した。
「今の様になるとは」
「とてもじゃな」
「思いませんでした」
「もう何もない草原だったからのう」
「それが今はそれなり以上の街並みになっており」
「城もじゃな」
「見事な城になろうとしています」
こう家康に言うのだった。
「大坂の城に勝るとも劣らぬ位の」
「それは何よりじゃ、ではな」
「その江戸城からですな」
「天下を治めよ、よいな」
「はい、それでは」
「天下泰平がようやくはじまる」
まさに今からというのだ。
「戦の世はこれで完全に終わるからな」
「この度の戦で」
「そうじゃ、もう大坂城もなくなる」
天守閣は今も燃え盛っている、その天守閣がどうなるのかは言うまでもなかった。
「そして幕府を脅かす者もな」
「後は民の信頼を繋ぎ止めていれば」
「幕府は長く続くぞ」
「ではそのうえで」
「泰平を守っていくのじゃ、よいな」
「畏まりました」
秀忠は家康に確かな顔で応えた、そうして戦の後始末の後彼は江戸への帰路についた。だがその途中にだ。
己に親しい者達にだ、こう漏らした。
「天下はこれより泰平になるな」
「この度の戦も終わり」
「そうして遂にですな」
「泰平の世となりますか」
「いよいよ」
「そうじゃ、しかし泰平になれば政も変わる」
それの在り方もというのだ。
「泰平の政はやはり王道じゃな」
「正しい政ですな」
「民や国と向かい合いそうして治める」
「異朝の尭や瞬の様な」
「そうした政ですな」
「そうした政では謀はいらぬ」
秀忠はこう言うのだった。
「謀ではなくな、国や民と向かい合って治め」
「そして安らかにし豊かにする」
「そうした政が必要ですな」
「そこに謀はいらぬ、だからじゃ」
秀忠は自身の周りにいる者達が皆彼にとっては心から信頼出来る者達であることを確認してからまた言った。
「本多上総介はな」
「やがてですか」
「遠ざけられますか」
「そうされますか」
「あの者は謀が多過ぎる」
それで幕府でも辣腕を振るっている、父の本多正信と共にこと謀においてはお家芸と言えるまでだ。
「それは乱世では止むを得ぬが」
「泰平になればですな」
「いりませぬな」
「必要なものは王道であり」
「謀ではありませぬな」
「うむ、わしは謀は好かぬ」
この辺り律儀即ち人を騙したり嘘を言ったりすることを嫌う秀忠らしかった。
「だからな」
「やがてですか」
「時が来ればですか」
「上総介殿は遠ざけられますか」
「その様にされますか」
「民に謀なぞ使っては正しい政ではない」
間違ってもというのだ。
「民は敵ではない、泰平の世を楽しませる者達ではないか」
「その民達に謀を使うなぞ」
「お門違いもいいところですな」
「だからですか」
「上総介殿はやがて」
「そうする、このことを言っておく」
今の時点でというのだ。
「時が来れば頼むぞ」
「わかり申した」
「それではです」
「その時は我等上様の手足となり」
「働きます」
「その時だけなく常に頼むぞ」
王道、その政をする時にもと言うのだった。秀忠は泰平の世が訪れるならもう謀はいらぬと考えていた。
家康もそれは同じだった、それで大坂を陣払いし都から駿府に戻る時にこうしたことを言った。
「後は法を確かに定めてな」
「そうしてですな」
「天下を治める」
「まずは法を定める」
「そうしますか」
「武家、公家、禁中にも諸法度を定め」
そうしてというのだ。
「無論寺社や民にもな」
「全てですな」
「法を定め」
「その法から天下を治める」
「そうしていきますな」
「法によって治めるのじゃ」
天下をというのだ。
「無論将軍家もじゃ」
「武家だからですな」
「法の中にある」
「そうしていきますな」
「天下人が法を守らずしてどうする」
それこそという言葉だった。
「それでは天下に示しがつかぬであろう」
「ですな、確かに」
「だから余もだ」
将軍である秀忠自身もというのだ。
「諸法度は守る」
「武家のですな」
「それも」
「これは天下の法である」
「誰も例外ではないですな」
「天下人よりも法は上にある」
強い声で言う秀忠だった。
「むしろ天下人こそ法を守るべではないか」
「第一にですな」
「全ての武家に先駆けて」
「まず諸法度を守る」
「そうされますな」
「その所存だ、どうも諸法度は天下を縛ると言うものがいるやも知れぬが」
諸大名を抑え付ける、そうしたものだとだ。
「それは違う、天下に法を定めてな」
「秩序を作りですな」
「天下を泰平にしその天下も民も護る」
「そうしたものですな」
「法なくして天下は成らぬ」
決してという言葉だった。
「王道を歩むならまず法じゃ」
「それをしかと定め」
「それを以て治めるべきですな」
「法によって天下も民も護る」
「それが幕府の役割ですな」
「それを徹底していく、だから謀をこれでもかと働かせる者はな」
本多正純、彼の様にだ。
「これからはいらぬ」
「あくまで、ですな」
「法を進める者が必要で」
「正しき政が出来る者」
「そうした者を用いていきますな」
「そうしていくとしよう」
是非にと言う秀忠だった、そうしてだった。
彼は江戸へと戻っていった、彼は戦を勝って終えたがそれで終わりではなくむしろそれからを見て考えていた。
戦は終わった、だが多くの者はそこからこれからのことを考えていた。それは家康や秀忠だけではなかった。
秀頼は抜け穴から出た、するとすぐに木下延俊が出てきて彼を迎えてきた。
「よくぞご無事で」
「うむ、源次郎達に助けてもらった」
「真田殿、お見事なお働きでした」
木下は秀頼の傍らにいる幸村に抱き締めんばかりにして歩み寄り彼に篤く礼を述べた。
「これでそれがしも忠義を果たせました」
「豊臣家恩顧としてですな」
「はい、それでなのですが」
「これよりですな」
「船を用意しております」
木下は幸村にこのことも話した。
「ですから」
「すぐにその船に乗り」
「瀬戸内の海に出て下さい」
「そしてですな」
「海に出ればすぐに加藤殿の船がありますので」
「その船に移り」
「そこから肥後に入られて下さい」
まずはこの国にというのだ。
「そしてです」
「それからですな」
「薩摩に逃れて下され」
「それでは」
「既に国松様は昨日のうちに別の船で」
「肥後に向かわれていますか」
「そうされています、主馬殿と共に」
治房、彼と共にというのだ。
「そうされています」
「国松様も主馬殿もご無事ですか」
「昨日それがしが送らせて頂きました」
他ならぬ自分自身がとだ、木下は幸村に答えた。見れば妹である北政所に実によく似た顔立ちである。
「ですから」
「ご無事なのもですか」
「しかと言えます、では」
「はい、これよりですな」
「真田殿もお乗り下され」
秀頼が乗るその船にというのだ。
「そして肥後から薩摩に」
「わかり申した、では」
ここでだ、幸村は今も共にいる十勇士達それに大助も見て述べた。
「この者達も」
「おお、ご子息の大助殿にですか」
「我が家臣であり義兄弟である者達です」
「十勇士ですな」
「この者達も激しい戦でありましたが生き残りました」
それも全員だった、どの者も身体のあちこちに傷を負っているが五体満足で目や耳を失っている者もいない。
「この様に」
「それで、ですな」
「はい、この者達も薩摩に連れて行きたいのですか」
「無論です」
木下の返事は即座のものだった。
「天下の豪傑である十勇士も揃っていれば」
「それで、ですな」
「はい、鬼に金棒です」
幸村に加えて彼等もいればというのだ。
「ですから」
「それでは」
「どうぞ薩摩まで落ち延び下され」
「そしてそこで、ですな」
「右大臣様をお護り下さいますよう」
「それでは」
「すぐにお乗り下され」
船にとだ、そうしてすぐにだった。一行は変装をしたうえで密かにその用意された船に乗り込んでだった。
海に出た、秀頼は海に出るとすぐに幸村に尋ねた。
「ではじゃな」
「はい、間もなくです」
幸村はすぐに秀頼に答えた。一行は船底にいてそこで話をしているのだ。
「加藤殿の船に移り」
「そうしてじゃな」
「まずは肥後に入ります」
「あの国にか」
「そしてです」
肥後に入りそうしてというのだ。
「それからはです」
「薩摩と言っておったな」
「そこで過ごして頂きます」
「そうか、そうしてか」
「そこで生きられて下されることになります」
「わかった」
秀頼は一言で答えた。
「ではな」
「はい、その様に」
「余は思えばな」
ここでこうも言った秀頼だった。
「天下のことを知らなかった」
「そう言われますか」
「長きに渡って城から出なかった」
大坂の城、そこからだ。
「それで世も知らなかった、それではだ」
「天下人としてですか」
「至らぬという他ない、天下人であられるのは」
その者はというと。
「大御所殿であったのだ」
「そう言われますか」
「最初からな、だからな」
「天下はですか」
「最初から余は天下人ではなかった」
茶々が言っていた様にというのだ。
「そのうえで敗れた、ならばな」
「最早ですか」
「天下は望まぬ」
船の中でだ、秀頼はこのことを幸村に言った。
「二度とな」
「そして薩摩で」
「静かに暮らそう」
「そうされますか」
「もう余は死んだ」
そういうことになっているからだというのだ。
「ならばな」
「それでは」
「薩摩まで宜しくな、それでじゃな」
「はい、薩摩に入られても」
「そなた達がおるか」
「そこでもお供致します」
幸村は秀頼に畏まって述べた。
「その様に。主馬殿もおられますし」
「国松がおってだな」
「そしてやがて明石殿も来られましょう」
「あの者も生きておるか」
「星は落ちておりませぬ」
明石の星、それはというのだ。
「ですから」
「あの者も来てくれるか」
「そして長曾我部殿もどうやら」
「あの者の星もか」
「落ちたと思いましが落ちかけたところで」
そこで、というのだ。
「それがしも驚きましたが」
「空に残っておったか」
「そして後藤殿も」
「おお、あの者もか」
後藤もと聞いてだ、彼を何かと頼りにしていた秀頼は思わず喜びの顔になった。そうして喜びの声で話した。
「生きておるか」
「どうやら大和の方に落ち延びられましたが」
「生きておるか」
「その様です」
「それは何より、ではな」
「やがてですな」
「薩摩に迎えたいのう」
「はい、時が来れば」
「そうしたいな」
「わかり申した、ではまずは」
「肥後に入りじゃな」
「そこから落ち着いて薩摩に入りましょう」
「その様にな」
秀頼は幸村の言葉に船の中で頷いた、そうしてだった。
一行は海に出て少し経ってから大きな船の前に出た、その船に乗り込むのは夜でしかも変装しながらだった。
その船に乗り込んだ、その時に木下家の者達が言ってきた。
「お元気で」
「薩摩に行かれてもあちらでお幸せに」
こう言ってだ、秀頼達を篤い礼で以て送り出した、そしてだった。
大船にいる加藤家の者達も秀頼を篤く迎え入れて言った。
「ようこそ生きておられました」
「この船に乗られたならもう大丈夫です」
「海から行きますので」
「海にには人の目もありませぬ」
「もう心配は無用です」
「肥後まで行けますぞ」
「済まぬな」
秀頼は加藤家の者達にも応えた。
「それではな」
「はい、これよりです」
「船は肥後に向かいます」
「それではです」
「ゆうるりとして下され」
「真田殿もご子息も家臣の方々も」
幸村だけでなく大助そして十勇士の者達にも話した。
「ご安心して下され」
「肥後まで入られて下され」
「そしてです」
「城まで入られて下され」
「かたじけぬお言葉。それでは」
幸村が応えてだ、そしてだった。
「お願い致します」
「我等は豊臣恩顧の家です」
「そのことは忘れていませぬ」
「常に何かあればと思っていました」
「その時が来たのですから」
加藤家の者達は口々に言った。
「ここで動かねばです」
「何が豊臣恩顧の家なのか」
「だからこそです」
「ここはです」
「動いたまでのこと」
「礼には及びませぬ」
こう言ってだ、彼等は礼はよしとしてだった。
船は瀬戸内から肥後に向かった、だがその間船は揺れることもあったが秀頼はその揺れについて話した。
「この揺れは何じゃ」
「はい、これは波です」
「波というのか」
「海は大層この波で揺れまして」
幸村は秀頼に船の中で話した。
「この様になり申す」
「そうなのか」
「何、この程度では何もありませぬので」
「安心してよいか」
「はい」
秀頼に確かな声で答えた。
「それは。ただ」
「ただというと」
「我等は誰もそうではないですが」
こう前置きして秀頼に話した。
「問題は酔うかどうかです」
「酒を飲むのか?」
「いえ、船の揺れに酔うかどうか」
「そのことが問題か」
「左様です」
こう秀頼に話した。
「ここで問題は」
「ううむ、わからぬな。酔うというと」
秀頼は実は船にも乗ったことがない、それで幸村の今の言葉がわからずそれで彼に対していぶかしむ顔になり言った。
「酒でな」
「酔うとですな」
「余はそちらで何度も酔ったことがあるが」
「それとは別の酔いであります」
「そうなのか」
「酔いは酔いでもです」
「船で酔うのか」
「揺れで」
幸村は秀頼に確かな声で話した。
「そうしたものです」
「そうなのか」
「はい、左様です」
「ううむ、酔いがあるやも知れぬか」
「その時はお気をつけを」
「わかった」
秀頼は船酔いについて知らないまま幸村に応えた。
「ではな」
「はい、船酔いのこともですな」
「頭に入れた。それではな」
「これより肥後に向かいますので」
「そこから薩摩に入りな」
「これからの生を過ごされます様」
「そうする」
幸村に再び答えそうしてだった。
大坂城を落ち延びた秀頼は九州の南に落ちていった、彼は死んだことになっていたがその実は違っていた。
巻ノ百四十四 完
2018・2・21