巻ノ百五十 本丸の死闘
幸村達は遂に本丸に入った、だがここで幸村は残っている者達に話した。
「大御所殿おられる御殿に行くまでにはな」
「はい、天守閣を」
「あそこにですな」
「入らねばならん」
十勇士で残っている服部と霧隠に話した。
「まずはな」
「だからですな」
「天守閣にですな」
「これより向かう、そしてじゃ」
そのうえでというのだ。
「これからはな」
「はい、そして」
「そのうえで」
「そうじゃ、御殿じゃ」
家康のいるそこに行くというのだ。
「そうする」
「わかりました」
「ではその様に」
「していくぞ、しかしまだ十二神将は残っており」
幸村は彼等のことをさらに話した。
「そしてじゃ」
「はい、さらにですな」
「服部殿もおられますな」
「まだ」
「あの方も」
「大御所殿までの道は険しい」
このことも言うのだった。
「だからな」
「はい、このまま」
「進んでいきましょうぞ」
「それではな」
こう言ってだ、幸村は残った者達と共にまずは天守閣に向かった。だがその天守閣の前に一人の男がいた。
「伊賀十二神将の一人氷刃」
「次はお主がか」
「ここは通す訳にはいかぬ」
こう幸村に言うのだった。
「断じて」
「その断じてを通らせてもらう」
霧隠が出て言った。
「何としてもな」
「そう言うか」
「そしてお主が何としても我等を止めんとするなら」
「それならばか」
「わしが相手をする」
こう氷刃に言うのだった。
「そうするがよいか」
「我が刃は鋭く凍る」
氷刃は霧隠を見据え返した。
「それでもよいか」
「それはわしの霧のことか」
「我が氷に勝てるつもりか」
「そうだと言えば」
「刀を抜くがいい」
これが氷刃の返事だった。
「相手をしよう」
「それではな」
こう話してだ、そしてだった。
二人は闘いはじめた、氷刃は音もなく間合いを詰めると即座に刃を振るうがその刃は霧隠を切った筈だが。
切ったその感触がなかった、それで氷刃は言った。
「霧か」
「如何にも」
霧隠の身体は消えてだ、そのうえで。
声だけがして氷刃の周りは霧に囲まれた、そこで声だけが言うのだった。
「わしのことは知っていよう」
「天下きっての霧の使い手だったな」
「そうだ、だからだ」
それ故にというのだ。
「この霧もだ」
「只の霧ではないな」
「それこそ手元も見えるな」
「確かにな」
実際に手元を見ると全く見えなかった。
「これまでの霧とはな」
「そして」
何かが来た、それはというと。
見えない、それで氷刃はかわして言った。
「気を放ったか」
「刀からな」
「そうしてきたか」
「これならば間合いが離れていてもな」
「攻められるからか」
「如何にも、この刃かわせるか」
「拙者ならかわせる」
これが氷刃の返事だった。
「生憎だがな、そしてな」
「お主もだな」
「そこだな」
氷刃は己の左斜め後ろの方を見た、そうして。
その刃を一閃させて氷の刃を飛ばしてだ、その刃でだった。
霧隠を攻めた、霧隠はその刃をかわして言った。
「わしの居場所はわかるか」
「気配でな」
まさにそれでというのだ。
「わかる、しかしな」
「それでもか」
「かわすとはな」
「拙者だからこそだ」
「それ故にか」
「左様、十勇士でもないとな」
天下の豪傑である彼等でもないと、というのだ。
「かわせなかったわ」
「そうか、しかしな」
「それでもか」
「お主は拙者が倒す」
「そう言うか、あくまで」
「そうだ、そしてだ」
そのうえでというのだ。
「半蔵様にその首献上しよう」
「言うものだな、しかしわしの首安くはないぞ」
これが霧隠の返事だった。
「そしてわしもだ」
「拙者の首を取るか」
「そのつもり、ではな」
「お互いに死力を尽くすとしよう」
「存分にな」
二人で話してだ。そのうえでだった。
二人は氷と霧、刃と刃の闘いを続けた。そうしてお互いに譲らなかった。
幸村達は天守閣に入った、しかし。
入ってすぐにだった、雷獣がいて幸村に告げた。
「申し訳ありませぬが」
「ここはか」
「お通しする訳にはいきませぬ」
「どうしてもというのならじゃな」
「はい」
その通りという返事だった。
「ここは」
「そうか、では仕方ない」
「いえいえ殿、それには及びませぬ」
十勇士最後の者が出た、それは猿飛だった。
猿飛は陽気に笑ってだ、幸村に言った。
「ここはそれがしが」
「引き受けてくれるというのか」
「ささ、殿は早くです」
「大御所殿のところにか」
「行かれて下さい、ここはそれがしにお任せを」
「そうか、ではな」
「はい、それでは」
猿飛は明るく笑って幸村達を行かせた、そうしてだった。
雷獣と向かい合ったところでだ、彼にも陽気な笑みを向けてそのうえで彼にこうも言ったのだった。
「ここは暗い、闘うにしてもな」
「辛気臭いと」
「そう思わぬか」
「言われてみれば確かに。では」
「折角天守閣におるからな」
「それではな」
「一番上に行きますか」
「そしてな」
猿飛は雷獣の申し出に応えて述べた。
「天守閣の一番上で闘おう」
「それでは」
二人共話してそうしてだった。
共に天守閣の最上階にまで一瞬で跳んだ、そしてそこで月明かりをその身に受けつつだった。二人は闘いはじめた。
雷獣は雷をその手から放ってそうしてだった。
猿飛を激しく攻める、猿飛はその雷に対して木の葉を手裏剣の様にして投げて対する。木の葉には気が入っており雷を相殺していた。
それでだ、雷獣も唸って言った。
「お見事」
「そう言ってくれるか」
「木の葉で雷を相殺するなぞ」
「ははは、そこに気を入れておるとな」
それでと返す猿飛だった。
「雷といえどな」
「打ち消せると」
「そういうことよ、しかしわしの最後の戦になるが」
「その戦の相手が私で」
「中々面白いわ」
こう言うのだった、言いつつも木の葉を投げて刀も抜いていた。
「雷を使う、ではわしの木の葉とどちらが強いか」
「そを今より」
「確かにしようぞ」
「そうですね」
雷獣も猿飛のその言葉に応えた。
「これより」
「楽しんでのう」
二人で話してだ、そのうえで。
猿飛は雷獣と闘い続けた、それは激しい一騎打ちで駿府城の天守閣においてこれ以上はないまでのものとなっていた。
天守閣での死闘も激しくなっていたがその間に。
幸村達は遂に家康のいる御殿に入った、御殿の中にも腕ききの武士や忍達がいたが幸村と大助、そして後藤は戦い続け。
先に先にと進んでいた、そうしてだった。
渡り廊下に出た、まさにそこからだった。
「ここを進み終えれば」
「そうすればか」
「はい、あと少しで」
まさにとだ、幸村は後藤に話した。
「大御所殿のお部屋です」
「いよいよか」
「緊張されますか」
「武者震いを感じるわ」
後藤はここで豪快に笑って応えた。
「まさにな」
「左様ですか」
「うむ、だからな」
「ここはですな」
「さらにじゃ」
まさにと言うのだった。
「先に進もうぞ」
「それでは」
「うむ、しかしな」
後藤はここでだ、自分からだった。
一歩前に出てだ、こう言った。
「わしもここでな」
「一旦ですか」
「お別れじゃ」
「ここに残られてですか」
「うむ、貴殿と大助殿に先に進んでもらう」
家康のいる場所にというのだ。
「是非な」
「それでは」
「さて、わしでよいか」
「はい」
返事が来た、そしてだった。
三人の前に神老が出て来た、そうして後藤に応えた。
「それがしもです」
「わしが相手でいいか」
「願ってもないこと」
これが神老の返事だった。
「天下一の槍の使い手とも言われる方との手合わせが出来るとは」
「そう言ってくれるか、ではな」
「これよりですな」
「思う存分死合おう」
「さすれば」
「では後藤殿、我等は」
幸村は傍に大助を置きつつ神老と正対した後藤に応えた。
「いよいよ」
「うむ、その様にな」
「させて頂きます」
確かな声で応じてだった、そのうえで。
二人で先に向かった、そうして。
後藤は槍を構え神老に言った。
「でははじめるか」
「はい、よくぞ生きておられました」
「大坂の戦でか」
「ご無事で」
「あの時わしは死ぬと思っておったが」
「それをですな」
「家臣達に助けられた、わしには過ぎた者達だ」
今は別れている彼等のことも話すのだった。
「わしの様な者にはな」
「いえ、後藤殿だからです」
神老はその後藤に話した、彼も当然ながら身構えている。
「優れた家臣の方々がおられ」
「そうしてか」
「後藤殿をお助けしたのです」
「そうであったか」
「士は士を知るもの」
神老は異朝でよく言われる言葉も出した。
「ですから」
「それでか」
「後藤殿を助けられたのです7」
「そうであったか」
「はい、そしてです」
「わしは生きていてか」
「はい」
そしてというのだ。
「こうして武士としての本文を果たされているのです」
「友の為に戦うことか」
「それこそ真の武士と思われていますな」
「確かに。わしは武士は何かと言われると」
まさにと返した後藤だった。
「やはりな」
「己の為ではなく」
「主の。若しくは友の為に」
「戦うものですな」
「正々堂々と」
「ならば」
「わしは今武士の本分を果たそうとしておるか」
自ら言った言葉だった。
「そうなるか」
「そうかと。それでは」
「うむ、その本分を果たす最後の戦をな」
「しましょうぞ」
神老は手裏剣を出した、後藤は自身の槍でその手裏剣を弾き返した、そうしてそこから渡り廊下に置いて銀の火花を散らす死闘をはじめた。
幸村達はさらに進む、渡り廊下を渡り終えそこからは障子を次々と開けていき部屋から部屋に進んでいった。
しかしふとだった、ある部屋に出ると。
妙に熱い、そして不思議な雰囲気に満ちた袖の長い紅の忍装束を着た女が出た。その女を見てだった。
幸村は鋭い目になってだ、こう言った。
「伊賀十二神将最後の一人か」
「そうだよ、妖花だよ」
妖花は自ら微笑んで応えた。
「あと少しで大御所様のお部屋だけれどね」
「ここから先はか」
「帰ってくれるなら何もしないけれどね」
「帰らぬと言えば」
「だからここに私がいるんだ」
これが妖花の返事だった。
「その時の為にね」
「ではな」
「うん、じゃあ相手をさせてもらうね」
妖花は笑い身構えようとしていた、しかし。
ここでだ、大助が出て来てだった。
幸村にだ、こう言った。
「父上、今度はです」
「お主がか」
「はい」
大助は父に対して冷静な顔で答えた。
「任せて頂きます」
「そうか、しかしな」
「それでもですな」
「わかっておるな」
「死ぬことはですな」
「それはならん」
このことも言うのだった。
「よいな」
「はい、わかっております」
「ならよい、では拙者はな」
「大御所殿の御首を」
「そうさせてもらう」
こう言ってだ、そのうえでだった。
幸村はあえて大助を残して自らは先に進んだ、障子を開けてさらに先の部屋から部屋に進んでいった。
開かれた障子は妖花が一瞥するとそれだけで自然に閉まった、大助は何故そうなったのかすぐにわかった。
「念力か」
「そうだよ、忍術を極めた中でね」
「身に着けられたか」
「それも私の力のうちの一つだよ」
「お見事でござる、しかし」
ここでだ、大助は。
妖花が今閉めた障子を見た、すると正二はまた左右に開きそこからまた閉まった。それで言うのだった。
「それがそれがしもまた」
「出来るんだね」
「この通り」
「そう、貴方も見事なものね」
「それがしも修行の中で身に着けました」
念力、それをというのだ。
「この通り」
「そう、じゃあ私もね」
「手加減は最初から遠慮致します」
「そうさせてもらうね」
こう大助に言うのだった。
「是非ね」
「それじゃあね」
「それでは」
大助は左右それぞれの手に一本ずつ槍を出した、それは父幸村が持っていたものと同じ形の十字槍だった。
その十字槍を手にだ、妖花にあらためて言った。
「この槍の腕もお見せしましょう」
「私もだよ」
妖花は両手に炎を宿らせた、それは燃え盛る紅蓮のものだった。
その紅蓮の炎に己の顔を照らさせつつだ、大助に言うのだった。
「この炎で焼かれなかったものはないよ」
「そしてその炎で」
「闘うね」」
「十二神将筆頭の腕、見せてもらいます」
「それではね」
二人共構えに入った、そのうえで戦に入った。大助もまた戦に入った。
幸村は部屋を進んでいき遂に最後の部屋に着いた、そこに入ると遂にだった。家康が主の座に座っていた。
その家康がだ、自身の前に出た幸村に座したまま悠然として言った。
「よく来たな」
「お久し振りです」
幸村はその家康に礼儀正しく挨拶をした。
「この度は」
「うむ、ここまで来たにはな」
「手合わせして頂けますか」
「そうじゃな、しかしわしはもう七十五」
その歳から答えた家康だった。
「もう幾許もない、だからな」
「それで、ですか」
「わしは代わりに戦ってもらう者を立てたいが」
「その御仁は」
「半蔵」
やはり悠然としたままだ、家康はこの名を呼んだ。
するとだ、幸村の前にだった。漆黒の袖の長い忍装束を着た男が霧の様に出て来た。そうしてだった。
そうしてだ、幸村に対して言った。
「真田殿、この度は」
「服部殿がか」
「お相手させて頂いて宜しいでしょうか」
こう言うのだった。
「この度は」
「若し半蔵が勝てばな」
家康は再び言った。
「わしの首お主にやる」
「それでは」
「そこでお主の勝ちとなる、わしはもう刀も持てぬわ」
歳の為というのだ。
「大坂の戦で力を全て使ってしまったわ」
「だからですか」
「そうじゃ」
それでというのだ。
「もう自ら刀も持てぬ、ではな」
「それがしが服部殿に勝てば」
「この首を取るのじゃ」
そうしろというのだ。
「よいな、あと言っておくがな」
「はい、大御所殿はですな」
「影武者ではない」
このことも言う家康だった。
「わかるな、そのことは」
「気で」
それでわかるとだ、家康は答えたのだった。
「わかり申した」
「そうか、ではな」
「その首頂きます」
自身が勝てばというのだ。
「必ず」
「その様にな」
「では」
服部はまた幸村に声をかけた。
「宜しいですな」
「さすれば」
幸村も応えた、そしてだった。
二人は家康の前で激しい一騎打ちに入った、家康はその二人の勝負を座したまままんじりともせず見守ることにした。
忍術と忍術がぶつかる、そしてだった。
服部が手裏剣を投げると幸村は槍で弾き返す、服部はそれを見て言った。
「お見事」
「貴殿も。今の手裏剣は」
「容易にはですな」
「かわせませんでした」
こう服部に話した。
「到底」
「拙者の手裏剣は違います」
他の者達が使うそれとはというのだ。
「一度に幾つも投げ」
「そしてですな」
「それぞれ複雑な軌跡を描き敵に迫ります」
「左右に曲がり斜めや真下に落ち」
「その速度も様々です」
決して一定ではないというのだ。
「そうしたものですが」
「その手裏剣をですな」
「真田殿は全てかわすか弾かれますな」
「それがし達ならば」
幸村は服部と今度は刀と槍の勝負に入った、服部の剣術を幸村の槍術で受けて立ち互角の勝負を演じている。
「あの手裏剣もでござる」
「防げるのですな」
「左様でござる」
「十勇士、大助殿に後藤殿も」
「そして長曾我部殿と明石殿も」
この度駿府に来た彼等はというのだ。
「誰もが」
「そこまでの武芸を備えておられる」
「だからこそ」
まさにというのだ。
「それが出来ます」
「そうですか、しかし」
「それでもですな」
「それがしは手裏剣だけではなく」
「剣術もありですな」
「左様、そして」
右手は逆手、左手は順手に持った刀で攻めつつの言葉だ。
「さらにあります」
「そしてその術を」
「今よりです」
「使われますか」
「そうさせて頂きます」
こう幸村に言うのだった。
「今より」
「左様でござるか」
「では伊賀忍術の秘奥義の中の秘奥義」
まさにそれをというのだ。
「出しましょうぞ」
「それでは」
「この術ならば真田殿を倒せまする」
服部も自信を以て述べた。
「それを使わせて頂きます」
「ではそれがしも」
「真田殿もですな」
「最後の切り札を出しましょう」
服部が伊賀忍術の秘奥義の中の秘奥義を出すならというのだ。
「そうしましょう」
「それでは」
「これが決着になりますな」
「ですな、それでは」
「勝負!」
二人は一旦間合いを離した、そうして。
二人はそれぞれの最後の切り札を出した、そして激突に入った。
天海はこの時江戸にいた、そのうえで夜の空を見ていた。
その空を見てだ、彼は傍にいる弟子達に言った。
「星が落ちたな」
「はい、今」
「大きな星が」
弟子達も夜空を見ていた、それで師匠に応えることが出来た。
「確かに」
「相当に大きな星ですな」
「これまで天に一際大きく黄色く輝いていましたが」
「その星が」
「まさに太極の如き星であったが」
そこまで大きな星だったがというのだ。
「今落ちた」
「あの星はまさか」
「まさかと思いますが」
「そのまさかじゃ」
これが天海の返事だった。
「そなた達の思った通りじゃ」
「それでは」
「間もなく」
「うむ、あの方がこの世を去られる」
そうなるというのだ。
「そしてな」
「そうしてですか」
「これよりは」
「天下は完全に定まっておる」
夜空の星達を見てまた言った天海だった。
「それでじゃ」
「これからは」
「あの方がおられなくなっても」
「天下の柱は人から法に移った」
そちらにというのだ。
「ならばな」
「もうですか」
「天下は誰かがお亡くなりなっても乱れぬ」
「法が確かなら」
「そうである限りは」
「そうなった、この江戸にしてもじゃ」
今自分達がいる街もというのだ。
「あらゆる結界を張ってきておる、今後はな」
「その結界に護られ」
「そしてですな」
「江戸は栄えていきますな」
「まだ人が集まりだしているばかりですが」
「そうじゃ、この街もじゃ」
これからはというのだ。
「途方もなく大きな街になるぞ」
「そうなりますか」
「この間まで只の草原でしたが」
「そうなる、しかしのう」
空を見続け言う天海だった。
「これでな」
「あの方は」
「間もなく」
「星は様々なものを見せてくれる」
実に、という言葉だった。
「だからな」
「その星が見せるあの方の命運は」
「遂にですか」
「そうじゃ、しかしこれまでな」
天海は悲しんでいなかった、落ち着いている顔で言っていた。
「実に多くのことを成し遂げられた、長生きされて」
「だからですか」
「そうされたからこそ」
「何も思い残すことはないであろう」
遠くを見る目での言葉だった。
「最早な」
「そうですか、最早」
「あの方にこの世の未練はありませぬか」
「左様でありますか」
「そうだと思う、しかし拙僧はな」
天海はここで自分のことも話した。
「もうこれ以上生きてることについてどうも思わぬが」
「いえ、そう言われますと」
「我等も困ります」
「僧正様にはこれからも生きてもらわねば」
「まだこれから」
「そう言うが拙僧はもう百であるぞ」
それだけの歳だとだ、天海は弟子達に笑って話した。
「古稀や米寿どころではないぞ」
「白寿もですな」
「最早」
「そこまで生きて未練があると思うか」
最早というのだ。
「どう思うか」
「ううむ、そう言われますと」
「百歳ともなりますと」
「確かに相当なお歳ですから」
「そこまでとなりますと」
「我等にも」
「そうであろう、実はもうな」
天海自身はというのだ。
「この世に未練はない、しかし天下泰平をさらに確かにする為に働くことは続けていく」
「そのことはですか」
「これからもですか」
「励まれていかれますか」
「そうするとしよう。さて」
ここまで話してだ、天海は弟子達にこうも言った。
「寝る前に座禅を組むか」
「今宵もですか」
「そうされますか」
「学問と修行は続ける」
百歳になったとも言われる今もというのだ。
「そうしてな」
「次の生でもですな」
「それは続けられますか」
「そうじゃ、僧であるならばな」
それならばというのだ。
「この二つを止めてよいのか」
「確かに」
「それはなりませんな」
「では、ですな」
「今宵も」
「座禅を組んでから寝る、そしてな」
さらに言う天海だった。
「朝は早くに起きてな」
「日の出前に」
「そしてまたですな」
「修行をされますな」
「その様に」
「そうじゃ、そして風呂もじゃ」
天海の顔がここで笑みになった、そのうえでの言葉だ。
「入るとしよう」
「お師匠様は毎日入っておられますな」
「風呂には」
「夏も冬も」
「それは欠かさないですな」
「決して」
「うむ、どうも風呂に入るとな」
そうすればというのだ。
「身体によい、そしてな」
「そのせいか、ですな」
「長生き出来ると」
「いつもそう言われていますな」
「うむ、しかも随分と気持ちがいい」
風呂に入ると、というのだ。
「だから贅沢とは思うが」
「風呂はですな」
「毎日入られますな」
「そうしておる、そして屁もじゃ」
天海はこちらのことも笑って話した。
「しておるぞ」
「そちらもですか」
「長生きによいのですか」
「風呂と共に」
「どうもな。まあとにかく学問と修行にじゃ」
それに加えてというのだ。
「風呂もな」
「その三つはですな」
「決して欠かさぬ」
「そうしていかれますな」
「そうする、毎日な」
この三つはというのだ。
「していくぞ」
「はい、それでは」
「我等もお供します」
「座禅に」
「そのうえで寝まする」
「そうしようぞ。一日の最後を座禅で終える」
天海は実に温和な笑みで言った、そこには世で言われている様な怪僧と長寿と学識だけでなく法力からも言われている姿は何処にもなかった。
「よいことじゃな」
「ですな、それでは」
「我等もです」
「そうさせて頂きます」
「その意気じゃ。日々な」
まさにというのだ。
「続けてこそであるぞ」
「確かな僧になれますな」
「僧正様の様に」
「わしなぞまだまだじゃがな」
天海は自分を目指しているという言葉にはこう返した。
「全くな」
「いえ、それは違います」
「僧正様は立派な方です」
「僧侶としても人としても」
「真に天下泰平のことをお考えです」
「そして万民のことを」
「天下泰平になって欲しい」
天海は弟子達にこうも述べた。
「わしの幼い、そして成長してからもですな」
「長くですな」
「そう思われていたのですな」
「まことに」
「そうであった、そしてじゃ」
さらに話す天海だった。
「それが適うのならと思ってな」
「これまでですな」
「学問に励まれ修行を積まれ」
「生きてこられたのですな」
「そうしてきた、しかし欲もまだあり何かと至らぬことも多い」
長く生きてもそう思うばかりだというのだ。
「そうしたわしだからのう」
「だからですか」
「その様に言われますか」
「うむ、そのわしを目指すよりもな」
それよりもというのだ。
「御仏ご自身を見てじゃ」
「そしてですか」
「目指すべきですか」
「その方がよいですか」
「そうじゃ、だからな」
それでというのだ。
「お主達はな」
「お師匠様よりもですか」
「御仏を見て」
「そうして修行と学問に励むべきですか」
「そうするのじゃ」
この言葉は変わらなかった。
「よいな」
「お師匠様がそう言われるなら」
「そうさせて頂きます」
弟子達は素直なままだった、そうして師と共に座禅を組みその日は寝た。天海は星からあることを読んだがそれについて思いつつも天下のことを考えそのうえで己の修行も行っていた。百歳に達していてもそれを続けていた。
巻ノ百五十 完
2018・4・7