──そして、ステファンは足重に自室へ戻った。
薄闇の庭、月明かりの下で聞いた美代の言葉が頭を離れない。
「妃候補……三門家の娘……」
ステファンは思わず口にしていた。
美代の穏やかな笑顔と、隠された重圧が交錯する。
心もとさからふと望んだ窓。率先し、はつらつと動く美代の掃除姿が思い起こされる。
迷いを振り切るかのように、ステファンは、側に置かれる机の上へ目をやった。
カールが置いたのだろう。カメラが入る小箱がある。
その瞬間、ステファンは眉を寄せた。
「これは問題になるのだろうか?」
美代の姿をカメラで撮影した。
試し撮りのつもりだった。しかし、美代は妃候補。ゆくゆくは、帝に仕え、側近くで控える立場になる。
それなのに、宮中の最も奥に控えるであろう人物を無断で撮影してしまった。
不敬罪──。
ステファンの脳裏に不吉な言葉が過るが、さて、美代は本当に妃候補なのだろうか。
出会った時の状況からは、そうとは思えない。
だが、隠密が現れ、喋る猫シロが現れと、普通では考えられない状況がある。
何より美代が嘘をつくとは思えなかった。
困惑に流されるステファンの耳に、カーンとこぎみ良い鐘の音が飛び込んで来る。
からくり時計が時を告げたのだ。
夜が更けているという知らせに、ステファンは戸惑いながら息を吸うと、明日を迎え、カサンドラ嬢を迎える準備に取りかかるべきと自身に言い聞かせる。
そんな迷いを知ってか、窓からは、月光が遠慮がちに差し込めていた。
一方、闇に紛れた四郎は、居留地を抜け出し路地へ紛れ込んでいた。
墨で染まった黒い毛が柔らかな月光を吸い込み、まるで影そのものになっている。
「よし、黒いお陰で憲兵にも見つからなかった!美代ちゃんのこと、煌ちゃんに早く知らせないと!」
くんと鼻を鳴らし、煌の所在を確かめるべく、四郎は臭いを手繰った。
その瞬間、どこに潜んでいたのか野良犬が現れ、吠えられる。
「わぁっ!犬!」
四郎は慌てて民家の塀へ飛び乗った。
野良犬の鳴き声のせいで、誰かに見つかったとしても、四郎は只の猫扱いになるだろうが、願わくば邪魔立てされる様な事に巻き込まれたくなかった。
一刻も早く、美代がステファンに妃候補だと告げたことを、煌へ伝えなければならない。
けたたましく鳴く野良犬の声に、四郎はやや身震いしながら、塀の上を器用に進んで行く。
夜は何事もないかのように更けて行き、空に昇った月が、ただ静かに輝いている。
四郎は、懸命に煌の臭いをたどりながら歩んだ。
野良犬の鳴き声は聞こえなくなり、路地から一辺して、レンガ造りのお屋敷が立ち並ぶ瀟洒な雰囲気に変わった。
「……うーん。多分合っているはずなんだけど……。これって、煌ちゃんは、美代ちゃんの家にいるってことなのかなぁ?」
四郎は、自分の鼻に確信が持てない様だった。
美代はステファンの屋敷にいる。それなのに、どうして美代の屋敷、三門家方面から煌の臭いがするのか。
「あれ?別の臭い……。うーん。ひょっとして、
煌は、蕎麦屋から
「……だよね、きっと。
とにかく、自分の鼻が掴んでいる臭いを信じ、四郎は通りを進んだ。
そして、一軒の屋敷の門前で立ち止まる。
「うん、間違いない。
四郎は、門扉の隙間から中へ潜り込んだ。
敷地内、レンガ造りの屋敷の車寄せには、明々と灯りがともり、二頭立ての馬車が待機していた。
すると、玄関のドアが開き、賑やかな話し声が聞こえる。
「じゃあ、八代、お願いね。
派手な
「あっ、三門様だ。また、お出かけするんだな……」
四郎は、呟きつつ馬車に引かれないように慌てて、その場を離れる。
鞭打つ音が響いた──。
小気味良い蹄の音に、カラカラと車輪が回転する音が重なりあう。
さっと、黒い影が過り、静かに門扉が開かれた。
八代が頭を下げている。
馬車は悠々と通りすぎ、屋敷を後にした。
「八代ちゃん!」
現れた八代に、四郎は声をかけた。
小さなそれに反応した八代が目を凝らす。
「八代ちゃん!ここだよ!」
「四郎?」
気がついた八代の足元へ四郎は駆け寄った。
「大変なんだ!煌ちゃんに早く知らせないと!」
尋常ではないその慌て様に、八代は黙って四郎を抱き上げ、玄関へ向かって歩みを早める。
「お頭、四郎から報告があるようです」
玄関ホールには、煌と美代の振りをしている
「……
煌は直ぐに何か察したようで、切れ長の目が鋭く光った。
「ここで聞く話ではないのだろう。場所を移す……」
一言言うと、煌は身を翻した。
その後を、四郎を抱いた八代が続き、
三門様──、つまり、
隠密の八代が
お陰で、屋敷は物音ひとつしない。
「客間へ……」
廊下に八代の声が響き、煌も頷いた。