──こうして、何事もなかった様に朝日が昇り、明けを迎える……。
昨夜起こった事を包み隠そうとしているように、ステファンの屋敷は霧に包まれていた。
廊下に並ぶ窓からは、消え入りそうな淡い光が差し込み、静寂が流れている。
カールを筆頭とする使用人達は、まだ朝の始動を行っていないようで、屋敷は物音一つしなかった。
そんな静けさの中、ステファンは、スッキリとしない目覚めを迎え、乱れた髪を書き上げながらベッドから抜け出した。
机の上に置かれた、カメラ入りの小箱が、カーテンの隙間から細く差し込める朝の光を受けて鈍く光っている。
ステファンは箱に目をやり、昨夜の事を思い返した。
美代に聞かされた事、それがどれほどの意味を持つのか、やはり、答えを見いだせない。
妃候補という重い言葉が脳裏をかすめ、胸が締め付けられた。
もし、美代がここにいることが宮中に知られたら? いや、それ以前に、美代が本当に妃候補なのかどうかさえ、確信が持てない。
美代のほがらかな笑顔と、どこか儚げな佇まいからは、そんな重大な立場にある人物とは思えなかった。
だが、喋る猫や隠密の存在は、ただならぬものを感じさせる。
ステファンはベッドの端に腰を下ろし、両手で顔を覆った。
頭の中を整理しようと試みるが、考えは霧のように散らばり、まとまらない。
美代の言葉を信じるべきか。それとも、自分の直感に従い、話に疑いを持つべきか……。
どうあれ、小箱の中にあるカメラで美代を撮影してしまった事は、今後何かを引き起こすかもしれない。
廊下から、微かな物音が聞こえてくる。皆が朝の支度を始めたのだろう。屋敷も少しずつ目を覚ましつつあるようだ。
ステファンは立ち上がり、窓際に近づいた。
カーテンを開けると、外の霧が徐々に晴れ始め、庭の輪郭がはっきりと見えてくる。
昨日、美代と一緒に剪定した庭の姿は、見慣れたものとは異なり、スッキリと整えられている。
果たして、妃候補が剪定をしたり、窓拭きに新聞紙が役立つと知っていたりするのだろうか。そう、台所でサンドイッチも作った。
そうだ。美代は、台所に立ち入り、使用人小屋を利用している……。これは、構わないのだろうか?問題はないのか?
混乱から心が乱れるばかりのステファンは、戸惑いから逃れるように大きなため息を付いた。
ステファンは、しばらく窓の外を見つめていた。
霧が薄れていく庭の向こうに、朝陽が淡く顔を覗かせている。
まだ頭の中は整理しきれていないが、このまま立ち尽くしていても仕方がない。気持ちを切り替えるように、手早く着替えると、部屋を出て、階下の食堂へと向かった。
廊下を進み、階段を下りてると、微かな音が聞こえてくる。
鍋が軽く鳴る音、ナイフがまな板を叩くリズム。そして、ほのかに漂うバターの香り。
ステファンは眉をひそめ、足を止めた。
明らかに朝食の準備だ。
カールとアリエルが調理をすることはない。サリーは、常に寝坊する。この時間から働くことはあり得ない。
料理人は辞めているので、台所に立つ人間はいないはず。
不思議に思いながら、裏方へ続く細い廊下に足を踏み入れ、台所のドアをそっと開けた。
そこには、見慣れた背中が立っていた。美代だ。
手慣れた様子でフライパンに卵を割り入れている。
作業台には、切りそろえられたパンと、スクランブルエッグが皿に盛られ並んでいた。
「美代さん……!?」
ステファンが思わず声をかけると、美代は振り返り、柔らかな笑みを浮かべる。
「あっ!おはようございます、ステファン様!少し早く起きてしまったので、朝食を作りました」
その言葉に、ステファンは瞬間固まった。
妃候補と名乗った美代が、こうして台所に立ち、朝食を作る姿は、あまりにも日常的だからだ。
昨夜の重々しい会話が夢だったかのように思える。
しかし、目の前の光景は確かに現実で、美代はフライパンを軽く傾け、出来上がったスクランブルエッグを手際よく皿に移して作業台に運んでいる。
「異国の料理は、あまり知らないので……簡単なものですけど……。サンドイッチは、さすがに、飽きちゃったと思うので……。あっ!スープも作りました!」
ステファンは、驚きつつも椅子を引き、腰を下ろした。
テーブルには、パンとスクランブルエッグが並び、大鍋が湯気を発している。
台所には、質素ではあるがちゃんとした朝食が用意されていた。
「ステファン様……。これは、異国の食事になっていますか?」
美代は、おずおずと尋ねながら、ステファンを見つめた。
「ええ!立派な朝食ですよ!美代さん!」
「よかった!では、食堂にお持ちしますね!ステファン様は、食堂で待っていてください」
鍋の蓋を開けて中を確認しながら、美代はどこかうれしそうに言った。
「いや、別にここでも構いませんよ。運ぶ手間が省けるでしょ?」
「え?!でも、ここは台所ですよ!ちゃんと、食事するお部屋があるのですからそちらで召し上がってください!」
むきになる美代へ笑いかけ、ステファンは、用意されていたスプーンを手に取り、スクランブルエッグを口に運んだ。
ふわっとした食感と、バターの優しい風味が広がる。
素朴だが、どこか懐かしい味わいだった。
「美味しい……!本当に、美代さんが作ったのですか?!」
「はい。家では毎食調理しています。でも、異国の料理を作るのは慣れてなくて……」
言い淀む美代に、ステファンは再び胸がざわつく。
妃候補という立場と、こうして台所に立つ姿が、どうしても結びつかないのだ。
ただ、その不自然さこそが、逆にステファンに美代の存在を特別なものに思わせた。
「あーー、あーー」
足元から小さな声がする。
ステファンは、何事かと声の主を探した。
「美代ちゃん、お喋りが過ぎるよ!」
作業台の下から四郎が顔を覗かせる。
「え?!シロ?それはどうゆうことなんだ……というより、シロ!白くなっている?!」
四郎を見つけたステファンが叫んだ。
「うるさいなぁ!いつまでも、黒いままではいられないでしょ?!ゆうべ、美代ちゃんに洗ってもらったんだ!」
「美代さんに?」
ステファンは目を丸くして四郎を見つめた。
昨夜の黒かった毛並みは、元の白さに戻り、窓からは差し込める光を受けて輝いている。
月光の下で影そのものになっていたのが嘘のようだった。
驚くステファンへ四郎は、ふふんと鼻を鳴らしながら得意気に胸を張る。
ステファンは、訝しげに四郎をじっと観察した。
白から黒へ、そしてまた、白に……。
それは、四郎の意思ではないはずだ。確か命令だと言っていた様な気がする。
やはり、ここでも、隠密の影がちらつくが、そういえば、四郎は隠密猫だから喋るのだと美代が言っていた。
ステファンは、昨夜の記憶を必死で思い出す。
とにかく、美代の周囲は普通ではない。
再び、妃候補という言葉が過り、ステファンは無意識にスプーンを握る手に力を込め、
「四郎……、余計なこととはなんだい?美代さんは、喋ってはいけないのかい?」
と、問い詰める。
四郎の耳がピクリと動き、ステファンに鋭い視線を向けた。
「うるさいなぁ。なんだっていいじゃないかぁ!」
小さな下をペロリと出して、四郎はステファンを見下す素振りを見せてくる。
続けて、四郎は作業台の上にピョンと飛び乗り置かれてあるパンに鼻を近づけた。
「うーん、なんだか美味しそうな匂い!」
四郎は、パンの端にかぶりつく。
「あっ!シロ!」
ステファンは、慌ててパンが乗る皿へ手を伸ばすが、すでに四郎は、パンをくわえて作業台から軽々と飛び降りていた。
「もう!あたい、腹ペコなんだから!パンぐらいいいでしょ?!」
四郎は、ふてくされたように鳴く。
「シロちゃん!だめだよ!それはステファン様の食事なんだから!」
美代は血相を変え、ガス台から目を離すと、四郎を注意した。
四郎は悪びれた様子も見せず台所の隅に移動してパンにかじりつく。
「シロちゃん、お腹減っているのは分かるけど、人のものを横取りするのは良くないわ」
ステファンのパンが失くなったと、美代は躍起になっている。
「もう、美代ちゃん!余計なことには気がついて……。ゆうべ伝えたでしょ?とにかくね、ペラペラ喋らないで!」
四郎は、ふてくされたように美代を一瞥すると、すぐにパンを食べ始める。
ステファンは、このちょっとした騒ぎに引っ掛かりを感じていた。
あきらかに、四郎は誰かの指示を受けている。
それは、やはり、隠密だろうか?
夢中になってパンを食べている四郎をじっと見つめるが、ステファンの疑問は広がるばかりだった。