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第79話

 ヤハチ親方とこう助を含む職人たちは、明らかに不機嫌なカサンドラの態度に気圧されつつも、不満げに顔を見合わせている。


「カサンドラ様、ご予定より早いご到着で驚きました。彼らは、屋根の点検を頼んでいる者達で、ちょうどその打ち合わせ中でして……」


 カールが丁寧に説明を始めると、カサンドラは扇子をパタリと閉じた。


「まあ!私が来るって分かっているのに、こんな下賤な者たちを今頃集めているなんて冗談でしょう?私のために、準備は整えておくべきじゃないの?」


「ですから、お知らせくだすった日時までにと思いまして……」


 カールは、到着予定日が異なっている事を、カサンドラへそれとなく伝えた。


「ああ、自家用船で私が先に来たから、予定より早く到着してしまったのかしら?荷物は、一般客船で運ばせたから、到着したら取りに行ってちょうだい」


 悪びれた様子もなく、カサンドラはカールを顎で使うが、はっとすると、その緑色の瞳を輝かせ、一点を見つめる。


 カサンドラのアーモンド形の瞳は、ステファンの姿を捉えていた。そして、薔薇色の頬を更に染め、足早に歩み寄った。


「ステファン様!お顔を拝見したくてお邪魔しましたの!」


 言って、玄関ポーチに佇むステファンの腕に自分の腕を絡ませ、にっこりと笑う。


 カサンドラの言葉に、ステファンは苦笑いを浮かべつつも、腕をそっと引き抜こうとした。しかし、カサンドラはそれを許さず、さらに強くしがみつく。


 職人達はその様子を見て、小さく舌打ちし、呆れたように肩をすくめた。


 その時、カサンドラの視線がステファンの背後、玄関ホールに立つ美代に落ちた。


 何事が起こったのかと、トレーを手に持ったまま立ち尽くす美代を見つけたカサンドラの目が一瞬細まる。


「あら、あれは何?現地人のメイド?ステファン様、あの様な者を屋敷に置いてるのですか?」


 その口調は軽蔑に満ちていた。美代が小さく身を縮めると、カサンドラはさらに畳み掛ける。


「まあ、汚らしいわ。現地人を奴隷として働かせてるのなら、まだ分かるけれど……。表に出てくるメイドだなんて!」


「カサンドラ嬢、彼女は奴隷なんかじゃない。美代さんは──」


 ステファンが声を荒げて反論しようとした瞬間、カサンドラは扇子を開き、言葉を遮った。


「あら、ステファン様。どうか怒らないで。私はあなたのお仕事を手伝いに来たのよ。そう、新型カメラの売り込みのお手伝い!つまらないことで気分を害さないでちょうだい。私はここで、しっかりとカメラを売るつもりなの。今、オーランド商会が全力を注いでいる商品ですもの!」


 カサンドラは熱く言うと、何食わぬ顔でステファンの肩に手を置き、屋敷の中へと足を踏み入れた。


 ステファンはその態度に呆気にとられつつも、美代を振り返る。


 美代はトレーを握り潰さんばかりに力を込め、唇を噛んでうつむいていた。


「美代さん、大丈夫だよ。彼女の言うことは気にしないで」


 ステファンが優しく声をかけると、美代は小さく頷いたが、その表情は曇ったままだった。


 カサンドラの軽蔑の言葉が、美代の心に刺さっているのは明らかだった。


 一方、玄関先に残された職人たちは、カサンドラの登場でさらに不機嫌さを募らせている。


 ヤハチ親方が低い声で呟いた。


「異国人の嬢ちゃんが来やがったせいで、なおさら話がややこしくなりやしたね……。旦那さん、どうする気だい?」


 続いて、こう助が鼻で笑いながら言う。


「親方、あの女、俺たちをゴミみたいに見やがった。日ノ本の国の女中なら話が通じると思ったのに、とんだ邪魔が入ったよ」


 ステファンは職人たちの不満と、カサンドラの横柄な態度に挟まれ、頭を抱えたくなっていた。


 カサンドラは、すでに屋敷の中に入り、騒ぎを聞きつけ駆けつけて来たアリエルに付き添われている。


「お茶を頂きたいけれど、どうやら、朝食の用意が出来ているようだわね」


「で、では、朝食を!食堂へ御案内します」


 横暴な態度のカサンドラに、やや、腰が引けつつもアリエルはメイド長として、食堂へ先導した。


 食堂へと向かう足音が響き渡り、


「美代!早く準備なさい!」


 アリエルが威厳を保ちつつ、美代を責める。


 その声に、美代ははっとして、朝食を乗せたトレーを持って向かった。


 この光景に、ステファンは目眩を覚えていた。


 どうやらカサンドラは、国元で、ステファンが新型カメラを売り込む事を耳にしたようだ。手伝うと称し居座るつもりらしい。


 そのカサンドラに侮辱されながらも役目を果たそうとしている美代の姿には、胸が張り裂けそうで言葉が出なかった。


 おそらく、食堂でもひと悶着あるだろうと、ステファンは、職人達を残し、慌ててカサンドラを追った。


 ステファンが食堂に入ると、カサンドラはテーブルに並んだ朝食を見て、鼻で笑っていた。


「これが朝食?お粗末すぎるわね。この屋敷、いえ、ステファン様には、もっと洗練されたものが似合うのに!それに、私が来るんだから、もっと豪華にすべきだったんじゃない?」


 その言葉に、美代の空のトレーを握る手がわずかに震えた。


 ステファンは我慢の限界を感じ、声を低くしてカサンドラに言い放つ。


「カサンドラ嬢、これは美代さんが心から作ってくれたものだ。これ以上、侮辱するのはやめてください」


 カサンドラは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに笑いものだというように扇子で口元を隠した。


「まあ、ステファン様ったら。真剣に怒るなんて珍しいわ。現地人にそんな価値があるとは思えないけど……」


 カサンドラの態度は変わらず、何食わぬ顔で椅子に腰を下ろし、美代が作ったスクランブルエッグを一口食べた。


「ふうん。食べられなくはないわ。でも、上品さが足りないわね」


 この高圧な態度に、ステファンは拳を握り締める。


 美代は黙って台所に戻ろうとしているが、その面持ちは酷く消沈しきっていた。


 屋敷の中は、一気にぎくしゃくとした空気に包まれた。


 ステファンはカサンドラの態度に苛立ちつつも、美代をこれ以上傷つけたくないという思いで胸が締め付けられる。


 職人たちとの交渉、カサンドラの我儘、そして美代の正体——、全てが絡み合い、ステファンの頭を混乱させた。


 窓の外では、朝陽が屋敷を照らし始めている。しかし、その光は、この屋敷に渦巻く不穏な空気を和らげるにはあまりにも弱々しいものだった。

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