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第80話

 ──カサンドラを乗せてきた馬車を馬屋へ案内したカールが、玄関先に戻って来た。


 カールは、拗れた職人たちとの交渉を続けるべく、重々しい足取りでヤハチ親方に近づいた。


 ステファンの指示を受け、一旦作業を中止にすると反発は大きくなるだろう。


 なんとかこの場を収めようとするカールの背中には、執事長としての責任感と疲労がにじんでいた。


「親方、申し訳ありませんが、どうでしょう?今日のところは最低限の点検だけ済ませていただいて、その後の予定は改めて調整するということで……。報酬も配慮しますので、どうかご協力ください」


 カールの声は落ち着いており、威厳を保ちつつも妥協を求める意志が込められている。


 ヤハチ親方は腕を組んだまましばらく黙っていたが、やがてため息をつき、渋々頷いた。


「まぁ、そこまで言うなら、仕方ねぇか。今日のところは、点検だけで手を打つよ、執事さん」


「ご協力、感謝いたします」


 カールが深く頭を下げるが、職人たちは不満げな顔をした。


 誰かの舌打ちも聞こえたが、カールはそれを無視し、準備に勤しむ職人たちを見る──。


 こうして、どうにか屋敷の屋根修理を口実に、職人に扮した隠密達は潜入に成功した。


 皆が、屋根の点検を行う準備をしている隙に、四郎に導かれ、煌は裏庭を駆けている。


 ステファンから作業の中止を告げられ、煌の内心は焦りを隠せなかった。


 どうにか話はまとまったものの、ステファンが舞い戻り、再び中止を告げるとも限らない。美代みよと直接会うこともなく帰る羽目になっては、話にならない。


 カサンドラの突然の到来も厄介だ。屋敷内は当然のことながら、煌達、隠密達も混乱し、諸々の計画を狂わせつつあった。


「四郎、急げ!美代は、おそらく一人で耐えられる状況ではない」


 煌の声には苛立ちと心配が混じり、鋭い目が前方を睨んでいた。四郎は、白い毛並みを揺らしながら、速度を早める。


「分かってるよ、煌ちゃん!美代ちゃんは、台所にいるはずだ。とにかく会わないとね!」


 二人は裏庭の茂みに身を隠しながら、台所へのドアにたどり着く。


 煌が、そっとドアを開けると、作業台やガス台など異国風の機材が目に飛び込んで来た。


 そして、そこにはトレーを手に持ったままうつむく美代の姿が……。


 カサンドラの侮辱的な言葉が心に重くのしかかっているのは明かで、その表情は暗く沈んでいるように伺えた。


「美代!」


 煌が声をかけると、美代はハッとして顔を上げた。


「煌ちゃん……?どうしてここに?」


 見習い小僧の格好に変装している事に驚いたのか、煌が現れた事に安堵したのか、美代は小さく呟く。


「屋根の修了ということで、どうにか潜り込んだ。四郎から聞いている。妃候補だと喋ってしまったんだな?」


 煌の言葉に、美代は唇を噛み、目を伏せた。


「ごめんなさい……。私、ついステファン様に話してしまって……。それに、カメラのことも何とかしないと……」


「美代!今はそれどころじゃない!カサンドラとかいう女が来て、状況がややこしくなってる。私と八代でステファンを抑えるから、お前は何もしなくていい!」


 煌の力強い言葉に、美代は小さく微笑んだ。四郎がそっと美代の足元に近づき、白い尻尾を振る。


「美代ちゃん、大丈夫だよ。煌ちゃんと八代ちゃんがいるからさ。なんとかなるよ!」


「美代、あの女のことは気にするな。所詮、異国人だ……」


 元気付けようと、煌は美代へ言葉をかける。


「……うん。だけど……私、カサンドラ様の通訳のお仕事があるの。通訳として、通行証を発行してもらえるから……。そしたら、家に帰れる……」


 今にも涙をこぼしそうになりながら、美代は煌へ、ここでのこれからの立場を訴えた。


「通訳?!なんだそれは!美代心配するな!お前の通行証は、私達が用意する!」


 煌は、美代が通訳として働くと聞いて、信じられないとばかりに肩を怒らせた。


「……でも、煌ちゃん……」


「大丈夫だ。職人に紛れて抜け出せば良いだけだ。その為にも、数日は修理事で、ここへ通わねばならん。居留地入り口の憲兵を油断させるためにな……。だから、美代、数日間なんとか堪えてくれ」


「うん、わかった。でも、上手く行くのかなぁ。それに、私……ステファン様と、カサンドラ様を案内するって決まっちゃってるし……」


 美代は、煌の話を聞いて少し落ち着いたようだったが、ステファンとの決め事を持ち出して、一人心配している。


「もう!美代ちゃん!どこまでお人好しなんだよ!ステファンなんか、放っておきなよぉ!」


 四郎が、苛つきながら美代に注意する。


「ああ、四郎の言う通りだ!勝手に連れ去り、女中として使い、挙げ句、あんな女の相手をさせるなんて!ステファンめ!異国人めがっ!」


 煌の憤りは、完全に、異国人への反感に転じていた。


「そうだよっ!ステファンって、勝手だよ!美代ちゃんと、あたいを撮影するし。あっ!美代ちゃんと、口付けまでしちゃてるし!!」


 四郎の発言に、美代は、言ってくれるなとばかりに、きゃっと小さな悲鳴を上げ、さっとうつむく。


「そ、そうだった!ステファン!!あいつ!!」


 煌は、たちまち真っ赤になり、玄関ホールで起こった偶発的事故への怒りをあらわにした。


 うつむく美代も、頬を染め、自分の胸の鼓動がうるさく鳴ることに動揺している。


「あ、あれは……たまたま、だから……もう、忘れて……!!」


 たどたどしく言葉を発する美代に、煌は、怒り心頭だった。


 ステファンの諸行に怒っているのか、美代の弱々しい態度に怒っているのか、はたまた、異国人への怒りなのか、もはや、分からなくなっている。


 そこへ、廊下を早足で歩む音が響いて来た。確実にこちらへ向かっている。


「煌ちゃん!誰か来る!」


「四郎、撤退だ!」


 煌と四郎は、即座に台所から出た。


 去り際、煌は美代へ、心配はいらないと言い残して。


 その自信に満ちあふれた力強さに、美代は、落ち着きを取り戻した。


 もう、一人ではない。煌と八代がいる。


 カサンドラ嬢は、確かに手強そうだが、煌達隠密が潜入している以上、どうにかなるような気がしてきた。


 その時、台所へ、アリエルが飛び込んで来る。


「美代!何してるのです!カサンドラ嬢のお世話をしなければなりません!早く来なさい!」


 メイド長らしく、威厳を持って美代に指示を出すアリエルだったが、実のところ、カサンドラに手を焼いていた。正直、誰でも良いとばかりに、美代を呼びに来たのだ。


「さあ!行きますよ!」


 アリエルの声に、美代は一瞬戸惑ったが、


「はい、アリエルさん。分かりました」


 素直に返事をして、アリエルの後を追った。



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