素直に返事をして、アリエルの後を追った。
食堂では、そのカサンドラが優雅に紅茶を飲みながら、遅れて現れたサリーに次々と、言いがかりのような指示を出していた。
ステファンはその様子を横目で見つつ、内心の苛立ちを抑えきれずにいる。
「ちょっと、この紅茶、ぬるいわ。もう一度淹れ直してちょうだい。それと、馬車の荷台に最低限の荷物があるから、すぐに私の部屋まで持って来て。荷物をほどいて、ドレスのシワも伸ばして頂戴。ステファン様のお手伝いをするのだから、私だってきちんと準備しないと」
サリーが、面倒臭そうに、お辞儀をして、カサンドラの機嫌を取っている。
一連の台詞は、ステファンの鼻についた。
何故そこで、仕事に繋げるのかと言い返したい心情を押さえ込み、ステファンは、ひたすらカサンドラが投げかけてくる視線から逃れた。
「サリー、カサンドラ様の荷物を、お部屋にお運びしなさい……」
食堂に現れたアリエルが、サリーへ命じた。
その後から、美代が食堂に入ってきた。
カサンドラの視線が美代に注がれ、軽蔑のこもった笑みを浮かべる。
「あら、現地人のメイドね。私の前に現れるなら、ちゃんと手を洗って来てるでしょうね?野蛮人は手など洗わないでしょう?なんだか、私のドレスが汚れそう」
美代は黙って頭を下げたが、その手が小さく震えているのがステファンには分かった。
カサンドラの理不尽な態度に、ステファンの我慢が限界に達する。
「カサンドラ嬢、いい加減にしてください。美代さんはメイドとしても、立派に働いてくれているが、あなたの案内を受け持ってもらう方なのです。したがって、美代さんを侮辱するのは、当家に対する侮辱でもあるのですよ」
ステファンの声は低く抑えていたが、その中に怒りが滲んでいた。カサンドラは一瞬驚いたように扇子を止めたが、すぐに笑いものだというように肩をすくめた。
「ステファン様ったら、また怒ってるわ。私はただ、その子がちゃんと役に立つようにアドバイスしてるだけなのに。じゃあ、現地人ちゃん、私のドレスの裾を整えてちょうだい。できるかしら?」
美代が無言でカサンドラのドレスの裾に手を伸ばすと、カサンドラはわざとらしく足を動かし、美代の手を払いのけた。
「あら、こんな簡単なこともできないなんて、やっぱり現地人には無理なのかしら?」
その言葉に、ステファンは、カサンドラの前に進み出た。
「もうやめてください、カサンドラ嬢。美代さんにこれ以上無礼を働くなら、あなたにはここにいてもらう必要はありません。カメラの売り込みだろうと何だろうと、私には関係ない。彼女を傷つけるような人は、この屋敷に必要ないんです」
ステファンの言葉は鋭く、カサンドラの表情が一瞬凍りついた。扇子を握る手が止まり、言葉に詰まったようだった。
しかし、すぐに気を取り直したように、扇子をパタリと閉じ、立ち上がる。
「ステファン様、随分と熱くなってるわね。まあいいわ、私だって意地悪したいわけじゃないもの。少し休憩したら、お仕事の話をしましょうか」
カサンドラはそう言って席を立ち、アリエルに案内されながら食堂を出て行った。
ステファンはその背中を見送りつつ、美代に視線を移す。
「美代さん、すまなかった。彼女の言葉を気にしないでくれ」
美代は小さく首を振ったが、その目には涙が滲んでいるように見えた。
「ステファン様……ありがとうございます……」
美代の表情がわずかに和らいだのを見て、ステファンは胸を撫で下ろす。だが、この屋敷に渦巻く複雑な状況が、さらに深まっていく予感を拭えなかった。
「ステファン様。私、カサンドラ様の通訳とお話相手をお受けしてますから……頑張りますね」
作り笑いだろう、笑顔を向けて来る美代の姿にステファンは苦しさを覚えた。
行き掛かり上の口実だった。しかし、そうでもしなければ、カールに美代の通行証を用意させる事は出来ない。
ステファンは、浅はかだったと、目の当たりにしたカサンドラの美代への仕打ちに怒りを覚え、後悔する。
美代も、始めからちゃんとゲストとして扱っておけばよかったものの、何がどうなって、ここの使用人になってしまったのか。
ステファンは、困惑の表情を浮かべ美代にかける言葉を探した。
とにかく謝罪しよう。あそこまでカサンドラに侮辱的な扱いを受けたのだから。
ステファンは、慎重に口を開いた。
「美代さん、無理しなくていいんですよ。頑張るだなんて……。これ以上、カサンドラ嬢のわがままに付き合う必要はない」
ステファンは穏やかに、だが力強く言った。美代をこれ以上傷つけたくないという思いが滲み出ていた。
美代は一瞬目を伏せたが、すぐに顔を上げて首を振る。
「いえ、ステファン様。私、ちゃんとやります。通訳だって、お話相手だって、私にできることなら……。約束しましたから!」
その言葉に、ステファンは息を呑んだ。美代の瞳には、確かに不安や疲れが宿っている。それでも自分を奮い立たせ、明るく振る舞おうとしていた。
その純粋な優しさと強さに、ステファンは言葉を失った。美代の笑顔が、霧に包まれた朝の庭のように儚くも美しいものに思えて、胸が熱くなるのを抑えきれなかった。
「……美代さん、あなたは本当に……」
ステファンが何か言いかけたその時、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
アリエルが再び現れ、息を切らせながら食堂の入り口に立った。
「美代!いつまでそこにいるのです!カサンドラ様の荷物を解きなさい!サリー一人では手が回らない。早く来なさい!」
アリエルの声には苛立ちが混じっていたが、その奥にはカサンドラの気まぐれに振り回される疲れも感じられた。
「アリエル。お前は何をしているんだ?サリーとお前で行えば良いだろう?美代さんにばかり頼るべきではない!」
ステファンが、美代をかばう。
「お言葉ですが、私は客室の用意を行っております。カサンドラ様が滞在するお部屋は、ドレッシングルームだと仰って……別に寝室を用意しろと……」
アリエルの言葉には困惑が見え隠れしているが、ステファンの言葉へのイラつきも十分感じ取られた。
「なんだそれは?!つまり、一人で客室を二部屋使うということか?!」
信じられないとばかりに、ステファンはアリエルを責め立てた。
「……なにしろ、たってきのお荷物だけでもかなりの量で、まだ追加のお荷物が運ばれて来るようですから……確かに、お召しかえ様のドレッシングルームが一部屋必要になります……」
アリエルも、かれこれ我慢の限界にいるのだろう。ステファンへ、現状を捲し立てた。
ステファンも、聞かされた事に唖然として何も言い返せないでいる。
「はい!アリエルさん。すぐに行きます!」
美代が、元気に返事をした。
やる気になっているのが、はた目にも分かる程、気力が満ちている。
「い、いや、美代さん?!」
アリエルの様子から、カサンドラの、たってきの荷物というのは、かなりの量のはず。ステファンは、カサンドラが到着した時の馬車を思い出した。
確かに、馬車の荷物置き場には、トランクが山積みされていたような気がする。
いくらサリーがいるとはいえ、荷物を解く事は、大仕事になるはずだ。しかし、美代は、ステファンとアリエルの慌て具合などお構いなしで、やりがいが出来たとばかりに張り切っているように見えた。
美代はステファンに軽く会釈すると、アリエルの後を追って食堂を出て行った。
その背中を見送りながら、ステファンはため息をつく。
自分が美代をこんな状況に巻き込んでしまったことへの後悔が、再び胸を締め付けていた。