目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第85話

 カサンドラは鏡の前で、


「ステファン様ったら、私が何か言うと、照れて渋い顔をするんだから」


 と独り言のように呟いている。


「渋い顔?」


 サリーが興味津々に聞き返すと、カサンドラは少し得意げに笑った。


「そうよ。今だって、大使館へご一緒したいって言ったら、『そんな時間はない』なんて渋い顔したの。でも、私が少し微笑んだら、結局一緒に行くって……。ステファン様って真面目すぎるんだから、商売にも影響しないかしら?やっぱり、私がいないと駄目ね!」


 カサンドラの得意げな言葉に、美代は無意識に目を伏せた。その自信に満ちた口調からは、ステファンとの親密さが滲み出ていて、色々な事が妙に現実味を帯びてくる。駄々をこねるカサンドラと、それに渋々応じるステファンの姿が頭に浮かび、なぜか美代の胸が痛んだ。


「ほら、早くして!ステファン様をお待たせしてるんだから!」


 カサンドラが鏡台の前で立ち上がり、二人を急かす。サリーが「はいはい」と適当に返事をしながら来ているドレスを脱がせた。


 美代は黙って、クローゼットから出したクリーム色のドレスを抱えているが、、頭の中ではステファンの渋い顔と、カサンドラの笑顔が交錯していた。


 馬車では、確かにステファンが待っているのだろう。カサンドラの言う通り、少し苛立った顔で懐中時計を見ているのかもしれない。そして、カサンドラが現れれば、またそのわがままに付き合わされるのだ。美代はそんな光景を想像してしまい、なぜか自分がそこにいないことにほっとしながらも、ほんの少し寂しさを感じていた。


「美代、顔が暗いぞ。お前、まさかカサンドラ様のドレスに嫉妬でもしてんのか?」


 サリーがひそひそ声で耳打ちしてきて、美代は「えっ!?」と声を上げ、慌てて首を振った。


「ち、違います!そんなわけないじゃないですか!」


 顔が熱くなり、美代は必死に否定する。でも、サリーのからかうような笑い声が響き、ますます動揺が隠せなくなる。


 その時、カサンドラが振り返り、


「何!?何か文句でもあるの?」


 と鋭く問う。


 美代は慌てて


「いえ、何でもありません!」


 頭を下げサリーへ、ドレスを渡した。


「じゃあ、お着替えしますか?お嬢様」


 サリーは、カサンドラをからかうように言って、適当に誤魔化した。


 カサンドラは不満げに顔をしかめ、クリーム色のドレスを身に纏った。


 そして、


「扇を取って頂戴!」


 と、ぞんざいに言い放ちドアへ向かう。


 その後ろ姿を見ながら、美代は息をついた。ステファンとカサンドラの関係が何であれ、自分には関係のないことだ。そう言い聞かせようとするのに、心のもやは一向に晴れなかった。


 同じ頃、ステファンは、カサンドラの為に渋々馬車の前で待機していた。


 その脇を、大工達がはしごを持って器用にすり抜けて行く。


「……君達……屋根の点検は中止のはずだが……」


 ステファンは、やや苛つきながら、大工達へ声をかけた。


「それは、お宅の執事さんが、とりあえずって言ったもんで……」


 突然声をかけられたからか、大工は怪訝に答えた。


「……カールが?」


「へぇい、まあ、形だけってことで……執事さんなりに丸く収めたっとことでしょう……」


 ステファンの疑問に、親方のヤハチ──、八代が現れ答えた。


「だが……予定より早く来客が来られて……作業は……」


 作業の騒がしさを、カサンドラが聞きつけたらまた、口うるさい事を言い出すに違いない。


 そうでなくとも、先程まで、ステファンの部屋へ押しかけて来て、大使館へ一緒に同行すると言い張ってきかなかったのだから……。


 なんでも、オーランド商会の仮代表として、大使へ到着の挨拶をするのだとか、居留地の重鎮達にも面談するのだとか、ステファンはあれこれ捲し立てられた。


 更に、何やら重大な役目があるのだとか、カメラの売り込みとはまた異なる企みがあるようで、一歩も引こうとしなかったのだ。


「まあ、あの勢いの良いお嬢さんが、何か文句の一つ二つ言い出すと、旦那さんは言いたいのでしょうが……」


 カサンドラの事を思い出してしまったステファンは、不機嫌になるが、ヤハチ親方が追い打ちをかけるように言った。


「……あっ、まあ、そうなのだが……」


 図星だけに、ステファンも口ごもる。


「……でも、どうやら、馬車の用意をしているということは、お二人で出かけるということなのでしょう?その間に……」


「へぇーーい!親方!その間にどうにか点検を終えちまいますよぉーー!」


 威勢の良い声が響く。


 見習いのこう助──、煌が、ニコリと笑っていた。


「で……、親方?」


 こう助が、何か言い含んだ。


「そう、あの嬢ちゃんと旦那さんは出かけると……そして……その間に、屋敷の中の点検も行っておいたほうが良い……そう、屋敷の中だ……屋敷の中……」


 ヤハチ親方は、口角を上げて挑むようにステファンを凝視した。


「なんですか?それは?屋敷の中と、屋根と、何の関係が?」


 ステファンは不思議そうに親方へ問った。


 その、純朴とも言える問いに、こう助の顔が一瞬、歪む。


「……術が……効かぬ?!」


 ステファンには聞こえないようにヤハチ親方こと、八代へ呟いた。


「……美代様にも効きませんが、この男にも……なのでしょうか?お頭?!」


 八代は焦る。


「そのようだな。八代、引け……」


 こう助は、煌の顔に戻り八代へ命じた。


「ああ、旦那さん、雨漏りしてる所はないか、屋敷の天井や壁に雨染みがないか、見ておくと良いって話で、まあ、時間も取りますしねぇ、必要がないのでしたら……でも、もし、お屋敷の内側まで傷んでいたら大変でしょう?うちは、大工ですから屋根だけでなく、何でもこなせますしねぇ。いや、まあ、それだけの話で、どうぞ気になさらないでくだせぇ」


 わはは、と八代は、ヤハチ親方の顔をして、空々しい言い訳と笑い声をあげた。


「あっ、それは!ちょっと待った!」


 ステファンが勢いよく返事をする。


 煌と八代は、ステファンの慌てようにチラリと顔を見合わせた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?