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第88話

 広間の大扉が開かれると、すでに大使と数人の書記官が待ち構えており、ステファンの到着を静かに見守っている。大使は恰幅の良い中年男性で、穏やかな笑みを浮かべながらステファンに近づいてきた。


「ステファン君、予定通りに到着だね。さすが時間に厳しい」


 大使の穏やかな声に、ステファンは丁寧に会釈した。


「大使閣下、お待たせして申し訳ありません。早速ですが、新型カメラの進捗についてご報告を……」


「まあまあ、その前に紹介してくれないかね? この美しいお嬢さんは誰だい?」


 大使がとってつけたような笑みをカサンドラ向ける。


 とたんにカサンドラはステファンの腕を離し、一歩前に出て優雅にドレスをつまんで挨拶した。


「初めまして、大使閣下。私はオーランド商会の長女、カサンドラと申します。ステファン様のサポートとして、本日は同行させていただきました」


 ステファンは、カサンドラのオーランド商会との繋がりを協調する自己紹介に一瞬目を丸くし、すぐ顔をしかめた。


 カサンドラが言った「サポート」という言葉がすでに不吉な響きを帯びている。しかし、大使はカサンドラの自己紹介に目を輝かせ、手を叩いた。


「ほう、オーランド商会のお嬢さんか! 確かにその名は耳にしたことがある。素晴らしい商会だよ。ステファン君を支えるとは頼もしいね」


「大使閣下、お褒めにあずかり光栄ですわ。ステファン様の新型カメラの売り込みも、私が一緒ならもっと成功しますわよ。居留地の重鎮たちにも、私がご挨拶に伺いますし」


 カサンドラが得意げに語るのを聞き、ステファンは内心で冷や汗をかいた。大使が興味を示しているのは良いが、カサンドラがこれ以上話を広げるのは危険だ。ステファンは慌てて口を挟む。


「大使閣下、カサンドラ嬢は確かに商会のお嬢様ですが、私の仕事に直接関わるわけでは……」


「何ですって?! ステファン様、私がいなければ、カメラだって日の目を見なかったかもしれないんですのよ!」


 カサンドラがステファンを遮り、さらに声を張り上げた。大使は二人のやり取りを面白そうに見つめ、軽く笑いながら手を振る。


「いやいや、仲が良いね。ステファン君、彼女の情熱は素晴らしいじゃないか。オーランド商会の助力を得ることができれば、確かに大きな成果を上げそうだ」


 ステファンは内心で「仲が良いわけがない」と叫びたかったが、大使の前で感情を出すわけにはいかない。彼は渋々頷き、話を仕事に戻そうとした。


「では、大使閣下、今後のカメラの販売についてご説明を……」


 だが、カサンドラはここで止まらない。彼女は突然、大使に向かって更に進み出て、目を輝かせながら宣言した。


「大使閣下、実は私、ステファン様と婚約を予定しておりますの! そのための婚約パーティーを、近々開きたいと考えております。ぜひ皆様をお招きして盛大に祝いたいですわ!」


 一瞬、大使館の広間に静寂が広がった。ステファンは言葉を失い、カサンドラを二度見する。大使は目を丸くし、驚きと喜びが入り混じった表情で口を開いた。


「婚約! それは素晴らしい! ステファン君、君もなかなかやるじゃないか!」


「ち、違います! 大使閣下、これは……」


 ステファンが慌てて否定しようとするが、カサンドラはすでに大使の手を取り、嬉しそうにまくし立てていた。


「ステファン様ったら照れ屋なんです。でも、私には彼が必要ですし、彼にも私が絶対に必要ですわ。婚約パーティーは、オーランド商会と大使館の絆を深める良い機会にもなりますし、カメラの成功も祝えますわよね?」


 大使は笑いながら頷き、ステファンの肩を叩いた。


「ステファン君、幸せ者だね。こんな素敵なお嬢さんが支えてくれるなんて」


 ステファンは顔を引きつらせながら、カサンドラを睨みつける。彼女は無邪気に微笑み返すが、その瞳には「これで逃げられないわよ」という確信が宿っていた。


 広間には大使の笑い声と書記官の拍手が響き、ステファンはただ立ち尽くすしかなかった。


「カサンドラ嬢、後で話が……」


「ステファン様、後でなんて言わないでください。大使閣下が喜んでくださってるんですから、決まりですわ!」


 カサンドラの勝ち誇った声が響き、ステファンは頭を抱えたくなった。彼女の我儘がここまでエスカレートするとは予想だにしていなかったのだ。大使館での仕事が、カメラの売り込みどころか、カサンドラの突飛な宣言で完全に狂わされてしまった。


 馬車での苛立ちが可愛く思えるほど、ステファンの忍耐は限界に近づいていた。しかし、カサンドラはそんなステファンの気持ちなどお構いなしに、次なる計画を口にし始めた。


「大使閣下、パーティーの日取りは近日中に決めますわ。ステファン様と相談して、完璧なものにしますから!」


 ステファンはただただ、渋い顔で天を仰ぐしかなかった。


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