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第89話


 大使館でのこの騒ぎを知らぬ、ステファンの屋敷では、隠密が扮した大工職人達が活発に動いていた。


 ある者は、屋根に登り修理が必要か確認する素振りを見せながら屋敷の間取りを探り、ある者は、庭の剪定作業に勤しみながら、屋敷の立地を確認しする。そんな中、八代は──。


「あっ!執事さんちょうどよかった!」


 カールを捕まえ、ステファンから言われたこと、屋敷の内部の確認と修理を頼まれたと告げていた。


「そうゆうことですので、あっしらは、御屋敷の中にもお邪魔させてもらいやす」


「……ステファン様が、そのようなことを?しかし、こちらは、来客中で……」


「いやぁ、確かに旦那さんはおっしゃいましたぜ?こちらは、言いつけに従うだけで……」


 戸惑うカールの姿に、ヤハチ親方は、口角を上げて薄ら笑う。


「……屋敷に立ち入らせる……ステファンの部屋へ案内する……」


「ステファン様……の……部屋……」


 呟くように答えるカールの表情はどこか、とろんとしている。


 その有り様に、ヤハチ親方は、八代の顔へ戻った。


「……どうやら、術にかかったようだな……」


 ふっと八代は、カールを見下したように笑ったが、同時に首を捻る。


「……この執事、敏腕そうに見えるのだが……それでいて、術にあっさりかかった。ならば、異国人にも我らの術は通用するということだ」


 つい呟いてしまうほど、八代の頭の中は、混乱しきっている。カールは簡単に術にかかったのに、ステファンはなぜかからなかったのだろうか?


「ああ、では、ステファン様のお部屋へ……」


 カールが踵を返した。


 八代は、即座に小さく指笛を鳴らし配下の隠密達を呼ぶ。


 反応してやって来た者達へ八代は目配せし、皆は、黙ってカールの後に続いた。


 そして台所では、ようやくカサンドラの荷物の片付けを終えた美代とサリーが座り込んでいた。


 疲れ切った体を引きずりながら台所へやって来た二人は、ほっとしながら息をつき、紅茶を淹れている。


 サリーがため息をつきながらカップへ紅茶を注ぐ。


「ったく、カサンドラ様の荷物って、どんだけあるんだよ。オレ、もう腕が上がらねぇよ」


 サリーは愚痴をこぼすと、美代は小さく笑って頷いた。


「本当に……でも、なんとか終わってよかったですね。頑張ってくれてありがとうサリーさん」


「何だよ、ありがとうって。労るようなこと言うなよ。恥ずかしいって」


 サリーが笑いながら美代のカップへ紅茶を注ぎ終える。美代はそっと手をカップに添えるが、カサンドラとステファンが大使館へ出かけた後の屋敷は、大工職人がいるはずなのに、どこか静かすぎる気がした。


 その時、コホンと咳払いが聞こえる。


 美代とサリーが同時に台所の入り口へ目をやると、カールの姿があった。


 いつも通りの冷ややかな執事の姿に、二人には、緊張が走る。


 お茶を飲んで怠けていると思われるかもと、サリーも美代も持っているカップを慌てて作業台に置いた。


「二人ともここにいたのか。ちょうどよかった」


 カールは振り向くと、紹介すると言って男を台所へ招き入れた。


 カールの後ろに続く男の姿に、美代の眉がわずかに寄った。日ノ本の国の人間だ。


「カールさん、お疲れ様です。……あの、その方は?」


 美代が遠慮がちに尋ねると、カールはどこかぼんやりとした表情で答える。


「新しい料理人だよ。美代、お前も困るだろう……。これから、厨房で働く」


 その言葉に、サリーが首をかしげた。


「料理人? 急にどうしたんだよ。カールさん、なんか様子がおかしくねぇか?」


 サリーの鋭い指摘に、美代もカールをよく見つめた。確かに、いつもはきびきびとした動きと明晰な口調のカールが、今はどこか焦点の合わない目をして、言葉もたどたどしい。なにより、困るだろうと、美代を心配してくれている。


 カールはサリーを無視するように、男を台所へと招き入れた。


「こちらで準備を始めてくれ……」


 カールの声に、男は静かに頷き、台所に足を踏み入れる。


 瞬間、チラリと美代と目が合った。


 鋭い相貌──。それは、八代のものと、とても似ている。


 いや、八代だ。


 男は、八代に雰囲気が似ているではなく、八代だった。


 突然現れてと怪訝な視線を向けるサリーのことなど気に留めることもなく、八代は「よろしく」と、一言添えて頭を下げた。


「俺は、ヤシロって言います。居留地の方々も良く利用される日ノ本グランドホテルで料理人をしていました。以後お見知りおきを。美味しいものをお出ししますよ」


 八代がわざとらしく明るい声で挨拶する。だが、美代はその笑顔にどこか違和感を覚え、胸のざわつきが収まらない。


「あの、カールさん、本当にステファン様が? 私たちには何も聞いてないんですけど……」


 美代が不安げに尋ねると、カールは一瞬動きを止め、ゆっくりと首を振った。


「ステファン様が……そう言ったんだ。間違いない……美代、お前ばかりに負担をかけたくないからな」


 その言葉に、サリーが立ち上がり、カールに近づいた。


「カールさん!なんか変だぞ!急に美代のことを心配して!」


 サリーの言葉に、カールは一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐにぼんやりとした表情に戻り、サリーへ静かにするように言いつけてくる。



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