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第90話

 料理人、ヤシロこと、八代はその様子を見て、内心で術の効果を確認しながら、次の手を考えていた。


「まあまあ、お嬢さん方、心配いりません。少しでも、お役に立てればと、それだけですよ。仲良くやりましょう」


 八代がそう言って笑うと、サリーが鼻を鳴らした。


「仲良く?料理人なら料理だけしてりゃいいだろ。何だよ、その上から目線は」


 サリーの言葉に、八代の目が一瞬鋭く光ったが、すぐに穏やかな笑顔が戻った。


「サリー、いなかった料理人が来たんだ。カサンドラ様もいらっしゃる。美代が一番助かるだろう?そうじゃないか?」


 カールの言い分に、サリーは舌打ちしながら美代に目をやった。


「美代、どう思う? まあ、助かるけどな、料理人が、それも日ノ本の国の料理人が突然現れて……胡散臭くねぇか?」


 美代は言葉を飲み込み、八代をじっと見つめた。


 確かにサリーの言う通りだ。カールの様子はおかしいし、八代が現れるのもどこか不自然だった。


 しかし、ステファンが本当に雇ったのだとしたら、自分たちが疑うのはお門違いかもしれない。それに、料理人が不在の屋敷に新たな人材が現れたのだから、喜ぶべきことだろう。


 そんな思いが頭をよぎり、美代は小さく首を振った。


「わからないけど……カールさんがそう言うなら……ねぇ、サリーさん?」


 美代の言葉に、サリーが呆れたように肩をすくめた。


「お前、ほんとお人好しだな。まぁ、カールさんが、なんかおかしくても、料理人がいるのは確かに助かるよなぁ」


 サリーの軽口に、美代は少しだけ笑顔を取り戻した。だが、心の奥では、カサンドラの名前がちらつくたびに、あのメモ書きの「婚約」や「新居」という言葉が思い起こされてもいた。


「では、昼食の仕込みを……たのむ」


 カールは相変わらずたどたどしく言葉を発し、ヤシロを残して台所から去って行った。


 ヤシロは、カールの命に応えるように、自前のエプロンを腰に巻き紐をギュッと結んだ。


 八代のはずなのに、立派な料理人が立っている。


 美代は、ちらりとヤシロと名乗る男を見やった。


 サリーが作業台にもたれかかりながら、カールのおかしな様子についてまだぶつぶつと文句を言っている中、美代の心は別のところにあった。


 八代は、煌と大工職人としてここに紛れ込んでいるはずだ。それが、料理人として突然の登場した。美代は、どうしても引っかかるものを抑えきれなかった。


「サリーさん、私、ちょっと用事を思い出しました。すぐ戻りますね」


 美代は、サリーに気付かれないよう、八代へ目配せすると、静かに台所を出ようとした。


 サリーは「ああ、行ってこいよ」と適当に手を振るだけで、特に気にしていない様子だ。


「おっと、大工職人さん達への賄いはどうすればよいのかな?カールさんに聞き忘れたな」


 ヤシロは、空々しく声を上げて、台所から出る美代背中へ視線を移し、同じく場を離れようとした。


 その言葉に美代は、自分の思惑が通じたと内心ホッとした。


 廊下へ出た美代は、奥に進み、目立たないように八代がこちらに来るのを待つことにした。


 サリーは上手く誤魔化せた。後は、アリエルが突然現れない事を祈るのみだ。美代の心臓がドキドキと鳴り響き、手が微かに震えている。


 美代は目の前に現れた謎の料理人に、本当に八代なのか確かめ、どうして料理人などに扮しているのか問いただすつもりだった。


 しばらくして、台所から足音が近づいてくる。美代が息を潜めていると、八代であろう料理人が現れた。


 美代は意を決して小さな声で呼びかける。


「八代?だよね……?どうして料理人なんかやっているの?」


 料理人ヤシロは、美代の前に来ると、穏やかな笑み、跪き頭を下げる。


「はい、八代でございます。美代様をお守りするために、料理人ヤシロとしてお側にいることになりました」


「えっと……大工職人だったよね?」


「はい、もちろん、そちらも兼ねております」


 八代の言い分に、美代は一瞬言葉に詰まりながらも、勇気を振り絞って続けた。


「その……突然、料理人として来たから、びっくりしてしちゃって。ステファン様が本当に雇ったの?私、聞いていなくて……。それに八代、料理できるの?あと、大工職人と掛け持ちって?……無理じゃない?」


 美代の言葉は、戸惑いから曖昧になり、質問というよりはただの独り言のようだった。だが、美代の迷いを敏感に察したのか、八代は、跪いたまま、さっと頭を上げた。


「なるほど、この八代を心配してくだすったのですね。さすがは美代様。お優しい方だ。ステファンが雇ったというより、カールが決めたが正しいでしょう。まあ、美代様がご心配することはありません」


 そう八代に言われても、美代の心配は尽きなかった。どう考えても、大工職人と料理人をこなす事は無理だろう。しかし、八代は隠密だ。出来ないことはないと言って良い……はずではある。


「いえ、心配っていうか、その……なんだか急だったから驚いたの。ステファン様から、こんな大事なこと聞いてなくて……」


「ステファン?」


 八代が一瞬、目を細めて美代を見つめた。その視線に、美代は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。なぜかステファンの名前を出した途端、八代の態度に微妙な変化が生じた気がしたのだ。


「ええ、だって、私、メイドとして働いて……ステファン様を見張るわけでしょ?それなのに、ステファン様は、カサンドラ様と一緒に大使館に行かれたり、そのカサンドラ様のメモには、婚約だとか書いてあったりして……」


 美代は思わずカサンドラのことまで語ってしまい、慌てて口を押さえた。八代の眉がわずかに上がり、興味深そうに見ている。


「メモ? 婚約? ほう、それは面白い話ですね。美代様、もしかして、すでにカメラの在処も?」


 八代の声が低くなり、まるで秘密を共有するような親密さを含んでいた。美代は顔が熱くなるのを感じながら、必死に否定した。


「い、いえ! なんでもないの! ただ、カサンドラ様の荷物を片付けてたら偶然、メモを見つけてしまって……私、勝手に見たわけじゃなくて……」


「偶然見つけただけなら、別に悪いことじゃないでしょう? それに、メイドなら秘密のメモくらい見つけるものです」


 八代の言葉に、美代は一瞬言葉を失った。サリーとの会話をどこかで聞いていたのだろうか。それとも、ただの当てずっぽうか。どちらにせよ、その落ち着いた態度に美代はますます混乱してしまう。


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