「でも……それって、カサンドラ様の大事なことかもしれないじゃない?私が見てしまって、知ってしまうって……良いのかしら?それを見てから、なんだかステファン様とカサンドラ様の仲が、気になってしまって……」
美代の声が小さくなるにつれ、八代は静かに笑った。その笑顔は優しげだが、どこか底知れないものを感じさせる。
「ステファンとあのカサンドラとかいう令嬢ぶった女がどんな関係か、ですか?美代様、ずいぶん気になるんですね。もしかして、カサンドラとやらとステファンが仲良くしてるのが面白くないとか……」
「えっ!? ち、違います! そんなこと……!」
美代が慌てて否定すると、八代は肩をすくめて笑いを抑えた。
「冗談ですよ、美代様。顔、真っ赤ですよ。ステファンなど、不甲斐ない異国人の事など、ほおっておきなさい。カサンドラに振り回されている今こそ、カメラの在処を掴むのです。我らが始末いたしますが、メイドの方が、側に近づけます。そして、情報はあればあるほど良い。そこだけです。申し訳ございませんが、ステファンの様子を探っていただけませんでしょうか?」
八代は、深々と頭を下げた。美代は目を丸くした。自分が、隠密の様に動くことができるのだろうか。八代の言葉はかなり重くのしかかって来た。
「あ、あのね、八代?じゃあ、ステファン様をどうやって見張ればいいの?」
正直、美代には分からなかった。メイドとして潜入しろと言われても、ステファンの様子もどのように探れば良いのか……。
美代は、八代へ不安な気持ちをぶつけた。
「美代様、どうかご安心を。屋敷のどこにカメラがあるか探るだけです。おそらく、ステファンの部屋でしょう。掃除をする振りをして、チラリと各部屋の様子を見ておいてください。カサンドラが絡むと、ステファンは、途端に渋い顔になり、おろおろします。その隙だらけの今が絶好の機会かと……」
八代が神妙に言うと、美代は無意識に頷いていた。
言うように、ステファンがカサンドラに振り回されている姿は、確かに想像できた。そして、なぜかその光景は少しだけ、モヤモヤとした気持ちになり、胸を締め付けるような気がした。
「わかったわ……。御屋敷がバタバタしている今、私も頑張ってみる。でも、婚約って本当なのかな。私には関係ないけど、新居を探すって……ステファン様は、ここから引っ越してしまわれるのかしら?なら、その前に……カメラのことを突き止めないといけないわよね……」
美代が呟くと、八代は一瞬目を細め、じっと見つめた。
「引っ越す……。それは、当人たちにしかわからないですね。とにかく、美代様は、あまり余計なことはお考えにならず、そう、美代様が見聞きしたことを私に教えてくだされば良いだけです」
「結局、私、ただのメイドでいいの……?なんだか、混乱してきた……」
美代が、これからのことに戸惑い首を振ると、八代はたちまち、心配そうな顔をした。
「ただのメイドでよろしいのですよ。まあ、私の言い方も悪かったですね。あまり難しく考えないでください。ああ、あとは、やはり、カサンドラには気をつけたほうがいいかもしれないですね……」
八代の言葉に、美代は一瞬考え込んだ。
美代はカサンドラの通訳兼話し相手を務める予定であることを思いだす。
それは、ステファンが決めた事で、メイドでいるべきではなさそうな口振りだった。
八代は、美代にメイドを望み、ステファンは通訳として居るように望んでいる。
「……八代、私、やっぱり、どうすれば……」
美代が、自分の立場とやるべきことの責任に押しつぶされそうになっていると、
「わあーー!!なんだよ、それっ!」
台所の方からサリーの声が響いてきた。
「……台所で何があったようです。美代様、ひとまず今は戻りましょう」
八代は、怪訝な顔をしつつも、料理人ヤシロに戻り、さっと台所へ向かった。
美代も、取り残されてはと、八代の後を慌てて追った。
「おお!美代!見てみろよ!」
台所へ戻った美代へサリーの弾けた声が降りかかる。
四郎を抱いた煌が、こう助として裏口に立っていた。
「あっ!すみません!庭で剪定作業してたら、猫が出てきて。お屋敷の猫かなぁと思って連れて来たんです……」
「あーー、職人!残念だが、ちがうんだよーー!ここには、猫も犬もいない。でも、その猫、かっわいいなぁ。美代!俺達で飼おうぜ!お前の部屋なら、バレないって!どうだ?!」
サリーが、瞳を輝かせながら、美代へ言う。
「えっ?サリーさん?シロ……いえ、そ、その、白い猫を私達で?」
サリーの発言に美代は驚きを隠せない。
どうやら、作業の邪魔になると、こう助が、この屋敷の猫と思いメイドへ渡しに来たらしい。
しかし、四郎は、勝手に出入りしている。今更何をと、美代は思うが、さすがに、料理人ヤシロとして現れた八代の飼い猫、そして、隠密猫であるとも言うわけにもいかない。
「かっわいいなぁーー!なあ!美代、そう思うよなあ。きっと、迷い猫だ。行く先はないなら、俺達で面倒見てやろうぜ!」
「サリーさん、猫好きなんですか?」
美代は、四郎もだが、八代に煌までいるという事に、戸惑っていた。
もしも、二人が隠密だとわかってしまえばどうなるのか。
そして、職人の振りをしてここに潜入しているのに、堂々と現れて良いのだろうか?
そんな事を感じつつ、美代は、どう受け答えすべきか困りきった。
そこへ、にゃーと、四郎が弱々しく鳴いた。
「うわっ!美代!この白いのは、腹が減ってるに違いない!よし!ミルクをやるぞっ!」
台所は一瞬にして騒がしい空気に包まれた。
サリーの「ミルクをやるぞ!」という威勢のいい声が響き、美代は目の前の光景にただただ呆然とする。
四郎は、煌の腕の中で気怠そうに目を細め、時折小さく「にゃあ」と鳴いてみせる。その鳴き声が、まるで場を和ませようとする計算ずくの演技のように美代には思えた。
「サリーさん、ちょっと待って! 飼うって……! ステファン様にだって許可をもらわないと……」
美代は慌ててサリーを止めようとするが、声はどこか弱々しい。内心では、四郎がただの迷い猫ではなく、八代や煌と繋がっている隠密猫だという事実が頭をぐるぐると駆け巡っている。こんな状況でサリーが四郎を飼うと言い出すとは……。どうやって誤魔化せば良いのか。
「許可? んなもん、後でいいって! ほら、見てみろよ、この白い毛! ふわっふわだぞ! カサンドラ様だって、こんな可愛い猫見たら絶対許すって!」
サリーは目を輝かせ、四郎を煌から受け取ると、まるで宝物でも扱うように抱き上げた。四郎はされるがままにサリーの腕に収まり、ちらりと美代の方を見て一瞬だけ目を光らせる。まるで「この状況、利用できるぞ」と言わんばかりの鋭い視線に、美代は思わず背筋がぞくりとした。
「サリーさん、でも、猫を飼うって大変ですよ? ご飯とか、トイレとか……それに、この屋敷、忙しいし……」
美代はなんとか話を逸らそうと必死に言葉を紡ぐが、サリーは聞く耳を持たない。
「大丈夫だって! オレが面倒見る! 美代は、部屋を貸してくれれば良いから!」
サリーは四郎を抱えたまま、美代へ笑いかける。
「飼ってくれるんなら助かるよ! こんな可愛い猫、庭でウロウロしてたら放っとけない! そうだ!メイドのお姉さんたちが飼うなら、俺も時々遊びに来ていいですか?」
こう助の言葉はあまりにも自然で、まるで本当にただの職人見習いのような軽快さだった。だが、美代にはその裏に隠された意図が透けて見える気がした。煌は、こうやって屋敷に堂々と出入りする口実を作ろうとしているのだ。
「遊びに来る? いいぜ! ついでにこの猫の世話も手伝えよ!」
サリーが豪快に笑い、こう助も「へい、了解!」と調子を合わせる。
美代は二人のやり取りを横目で見ながら、胸のざわつきが収まらない。八代が料理人として、煌が職人として、そして四郎が猫として——隠密たちがこんなにも堂々と屋敷に居座ろうとしているなんて、どう考えても普通じゃない。
その時、料理人ヤシロが、静かに台所の作業台に冷蔵庫から出した野菜を置いた。
「昼の賄い、大工の皆さんには簡単なものでいいかな? それとも、せっかく日ノ本グランドホテルの元料理人が来たんだ、ちょっと凝ったものを出した方が良いかい?」
八代の声は穏やかで、まるで本当にこの屋敷に馴染もうとしているかのようだった。だが、美代はその言葉の裏に、どこか場をコントロールしようとする意図を感じ取った。
「凝ったもの? おお、いいね! ヤシロ、てめぇ、どんな料理作れんだ?」
サリーが四郎を抱いたまま興味津々に八代に詰め寄る。八代はにこりと笑い、まるで舞台の役者のように自然に答えた。
「日ノ本グランドホテルで鍛えた腕だ。魚の焼き物から、煮込み、揚げ物まで、何でもござれだ。居留地の方々に喜ばれた肉料理も得意だよ。メイドのお嬢さんたちは、昼に何が食べたい?」
その言葉に、サリーが
「マジかよ! すげぇな!」
と目を輝かせる。