地面に散らばっていた木くずや瓦礫が消え去り、それどころか、床は傷一つなく輝き、曇りのないガラスが陽光を余すところなく導いている――まるで新築同様に『着飾られた』アラファ教会。リーゼはその姿に満足すると、隣に腰かけ、足を組んだ。
「虚数存在についてですが、それに関して説明するために、『浮雲』の理念を語るのが先ですね。まずメルンは彼らについて、どのような印象を持ってますか?」
「不老不死で、非凡な術の数々を行使する。敵って訳じゃないだろうけど、味方だと呑気に言ってもいられない連中――そんな印象だよ。一部神や、その街の民を救おうとしているのは分かるけど、それにしてはやり口が回りくどい。今回に関しては、リーゼの力を以てしてもかなりヤバい相手だったみたいだけどね」
「そうですね。メルンがこの街に来ていなければ、どうなっていたと思います?」
不穏な響きに、思わずごまかしの笑いが出た。
「その聞き方――単純にリネーハが『総べしの』に滅ぼされるってわけじゃなさそうだ」
「ええ。『浮雲』とは、世界が滅亡する一歩手前を引き止める、この世界に掛けられた祝福でもあり、呪いなのです」
「分からないな。それができるなら猶更早い段階で処置をすべきだ。なぜそうしない?」
「正に医者の街らしい意見ですね。では、例え話をしましょうか。メルン、あなたはナナの親代わりですよね」
「うん。親代わりの二代目だよ」
リーゼはゆっくりと頷く。
「では、考えることがあるでしょう。自分から離れた場所で、ナナがどう生きれるようにするか。ナナを見れば分かりますが、あなたは彼女の傍につき、しかし、今回のリネーハの一件から引き剥がすようなことはしなかった。どうしてですか?」
「まだナナは幼いからね。様々なことから学ぶべきだ」
「『浮雲』が、世界に対して同様の考えを持っている、と言えば納得いただけますか」
私は思わず彼女の目を見ようとして――その表情から、目線を外した。リーゼは、喜びも悲しみも判別のできない顔だった。ただ口の端をすこしきつく結び、嘆息が今にも漏れそうな表情で、彼女の想いは十分に伝わったからだ。
「虚数存在とは、その時間稼ぎと言ってもいいでしょう。人々が自ら学び、自ら理解し、自らを以て自らを救う、そのための最後の猶予――それが虚数存在なのです」
「全くの他人を救うために生まれた――そういうこと?」
彼女は、はっきりと頷いた。一瞬、腹の中から吐き気が戻るように、怒りの言葉が口から飛び出しそうになったが――私は、テジェクやダンヘルグのことを思い出した。
彼らもまた、その存在のことを知っていた。だが、ナナを心の底から愛していた。リーゼに関しても、メルネポーザが彼女を愛していたのは分かることだ。ナナもリーゼも、進んで彼らの犠牲となるほど、自らの街を愛していた。
私とは、違う。炎が消えたあとに湧き上がるぬるい風のように、息だけが漏れた。
「いいよ、続けて」
「ありがとう、メルン」
リーゼの眼差しが、やや気まずく感じた。気恥ずかしいのかもしれない。
「人々は虚数存在によって学び、自ら災厄を鎮めることができるようになりました。神は万能ではなく、ただ隣人でしかない。だとすれば、危機が迫ったとき、自らを救う方法を皆が知っていなければならないのです。『浮雲』はそのために、人の道を外れ、自らを災いとして、あるいは恵みとして扱うようになったのです。――メルン。私は先ほど、あなたがこの街に来なければどうなっていたか、それを聞きましたね」
彼女は安堵したような表情で、その末路を話した。
「リネーハは今頃、なかった街になっていたでしょう。『浮雲』によって」
「これはリネーハに限った話じゃないんだろうね。イェルククも、私がいなかったら、その全てが燃やし尽くされていたんだろう。『浮雲』は辿り得る最悪の結末を切除する存在っていうことになる」
ガンファは無感情に、ふむ、と返した
「自然医療の思想にも似ているな。基本は患者の免疫を高めるため、命に別状がない程度に症状をコントロールするアレだ。咳や熱は、病気の印でもあるが、それに抗う免疫の印でもある。本来であれば、喜ばしい反応なのだろう」
この男はすぐにこういったことを受け入れる。感情をいったん置いといて、客観的な総評に徹する。私がそこまで冷静にいられないのは、当事者に近しいからだろうか。
馬車の中、足を投げ出して、後ろ手をついた。
「それを世界単位でやってるわけだ、『浮雲』が選ばれた派閥だっていうのはあながち間違いでもないと思う」
「虚数存在とは、言うなれば薬にも近い存在なのかもしれないな――着いたぞ、二人とも」
気づけばかなり高くまで登っていたらしい。空を見上げると、ほんの少し、雲がつかめそうな心地がする。街壁はそこまで高くなく、衛兵らしき者もいない。その代わりに扉もなく、外からの立ち入りの一切を拒絶しているようにも思えた。
「『神秘』が排他的なのは知っていたけど、ここまでなこと、ある?」
「エポへの入街は特殊だ。かの一部神が俺達にその資格があるかを判定する。山を登り始めたときから実は始まっていたんだ」
私は思わず口を塞いだ。よく滑る自信のある口だ。ここで入街拒否なんて洒落にもならない。しかし、対するガンファは落ち着き払っている。
「ガンファ、思いっきり悪口言ってたじゃん。やばくない?」
「問題ない。かの一部神はそんな狭い視野じゃない」
かなり自信があるようだ。ガンファに倣って街壁を眺めていると、ナナが礼儀だと勘違いしたのか、手先と足先をぴんと揃えて街壁へと向き直った。
どのくらい待てばいいのかわからないとき、時間は引き延ばされる。私は時間が長く経ったと認識すると同時、隣のナナに耳打ちした。
「ねえ、一部神のご機嫌取りって、今からでも間に合うと思う?」
「メルンさん、黙っててください。今から機嫌を損なう可能性の方が高いです」
「ナナが冷たい――」
すると、街壁の一部が音も立てず、ぐにゃりと渦巻き状に歪み、ぽっかりと新円の穴が空けられた。その向こうには、確かに街が見える。
あれが、口噛の街、エポか。
「はー、入れないかと思ったよ。それにしてもさすが『神秘』、演出も派手だね。長く待たされただけはあるよ」
「いま、ぐにゃって! 壁が粘土みたいに!」
ガンファは咳払いをして、私達の不敬を抑え込んだ。
「感心してないで行くぞ。一部神の気まぐれで閉じられたら敵わん」
街壁を超えた先、『神秘』の者ども。
ここでなら、ナナの心臓に関して、得られることがあるかもしれない。