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第七十七話

「のどかなものだね」

 私の言葉に呼応するように、牧場の牛が鳴き声を上げた。柵に頬杖をついて眺めると、牧草を食んでいた牛と目が合う。牛はしっかりとした肉付きをしており、この不毛の山で育っているとは思えないほど、肥沃だ。

「ここが夏の間は畑になるの? 信じられないね。すっかり家畜用じゃん」

「ええ、冬は作物の育ちが悪いのでこうやって再利用を行っているんですよ」

「それにしたってだよ、カルシャイチャ。短い間の家畜って聞いていたから、牛のような大型の家畜は難しいと思ってたんだ。でも、ハウゼで見られる肉牛よりも、こいつらは大きく育ってる。これも『神秘』の術が原因なわけ?」

「そうですね。これがエポの『神秘』、口噛です。物を変容させる、一言で言えば単純ですけど、単純なものほど汎用性に富んでいるもの。この牛たちは『神秘』の術により、少ない食料、少ない年月で育つように変容しています」

「なるほどね。だから牛の数も少なくていいわけだ。昨日、この街の腸詰を食べたけど、もしかして今なら生肉も出回ってるかな?」

「残念なことに、去年の分の腸詰から先に消費しなければなりません。日持ちをさせることが難しい部位を除き、売られているのは去年製造された腸詰や干し肉です」

「メルンさん、生肉が欲しかったんですか?」

 ナナが不思議そうな顔をして聞いてくる。

「ナナはやれ干し肉、やれ腸詰――保存用に加工された肉が大好きだったね。まあ、腸詰は私も好きなんだけれどさ。だとして、旅で数年近く干し肉ばっかり食べてると、生肉を焼いて食べる、って行為に憧れるんだよね。せっかく街に滞在してるんだから、美味しい物食べたいじゃん」

「うーん、ガンファさんが作ってくれるご飯、美味しいと思いますけどね」

「ガンファの料理は美味いよ。これは物に対しての憧れなんだよ」

 ちらりとガンファを見るが、いつも以上に表情がない。いや、我慢してるのか。

「ごめんなさいね、エポでは難しいかもしれないです」

「いや、こちらこそごめんね。街には街の事情がある。一介の旅人のわがままを気にすることはないよ」

 私は、軽くつま先立ちをして、エポの街を見回した。このように見渡せば、端から端までが分かってしまうくらいの小さな街。それでもそこそこの人口はあるように見える。

「それに、そのおかげで食糧事情にはかなり余裕があるんでしょ。私達にとってもありがたいよ。食料がないって言われたら、ここをすぐに発たなきゃいけなくなるからね」

「そう言っていただけるとありがたいです」

 口噛をナナに行うことができれば、心臓がそもそも必要なくなるかもしれない。しかし巫女は具体的な方策はないと言っていた。そこまで都合のいい術ではない、ということだ。

「で、秘匿とされる『神秘』の術だけど、すんなり教えてくれる、ってわけにはいかないよね」

「はい。ハルキュイネ様が許し、同胞同然のあなた方とは言えど、今日明日で教えるわけにはいきません。これは規則というより、心の問題ですね」

「まあ、分かってたことだ。地道に信頼を積もうかな」

「長い滞在になりそうですね、メルンさん!」

「加工肉食べ放題だからってテンション上げないでよね、ナナ。私達の路銀だって限りがあるんだし。でしょ? ガンファ」

「そうだな」

 ガンファは、こちらの呼びかけに顔も向けない。先ほどから街並みを見渡してはぴたりとその目線を止めて、何かをじっと見つめているようだった。しばらくはそっとしておいた方がいいだろう。

「しかし、秘匿されているわけでもない文化に関しては、お話することはできますよ」

「文化か」

「はい。エポの民の信頼を得る上でも知っておいて損はないと思いますよ」


 エポの街は、見ての通り、自然にできた街ではなく、この場所に意義を見出してできた街なんです。エポに由来する最初の民たちは、その他の『神秘』に漏れず、火を信仰する者でした。この火山を祈り場とし、地上から足繁く通い――一部神ハルキュイネ様の祝福を受けてからは、この土地に住まい、生きとし生ける時間を火の残り香の下で過ごすこととしたのです。

 しかし、人が増えていくにつれて、ハルキュイネ様の与える祝福だけでは、衣食住がうまく成り立たないようになりました。当然のことです。ここは見ていただいている通り、不毛の地。そして、周辺からも隔絶された街。他の『神秘』も拒絶や独立によって、その秘匿を守ることは多いですが、エポのそれは望まぬものであったでしょう。

 その結果の一つが、畑と牧畜の効率化になります。自給自足をするしかないこの土地でエポの民はハルキュイネ様の力を借りて、術を編み出しました。それが口噛です。元はハルキュイネ様の御業であった口噛を、人が扱えるほどにまで程度を落とし、その研究は日々進められていきました。

 ここ十数年での口噛の発展は凄まじいものです。それも偏に巫女を通じて、ハルキュイネ様が授ける噛跡の祝福のおかげ。民達は、祝福を以て、口噛を強力なものに改良。人手の足りなくなってきたエポを支えるために、世話がほとんど必要ない動植物の開発に成功し、食材の長期保存にも成功しました。貧困を余儀なくされていたエポは、今や完全に自立した街になったのです。

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