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第八十一話

 口噛の儀の開催日がやってきた。ロコを探すのに、全ての時間を費やしたが、その姿どころか痕跡の気配すら得ることは叶わなかった。隠されたこの『神秘』の街は、いわば大きな密室だ。それなのに足跡一つ見かけてはいない。まるで最初からいなかったかのようだ。ナナへの秘匿は――数日と持たせられなかった。帰ってくるべき本人がいないのだから、当然だったが。

「『浮雲』か――」

 祭儀の火は煌々と燃え盛り、私達を見下ろしていた。岩山にも似た祈り場の天辺から炎がゆらゆらとその背を伸ばし、噴火というよりは蛍の光を連想させる。

「かの者の干渉があったとすれば、容易く見つかるわけはない――だが、ここまでとは」

 ガンファは、炎の先、陽炎が示す先を見つめていた。

「『浮雲』の者が行ったことだ。世界に対して害を為すわけではないだろうが――」

「だからって黙って見過ごすわけにもいかないよね」

 ガンファは、ゆっくりと頷いた。

「それに、エポの民の偽装ということもあり得る。『神秘』であれば――『浮雲』が抑止力となり得ること、知っていてもおかしくはない」

「なんにせよ、推測の域を出ないね。頼りになるのはあの日の痕跡だけだ」

 今、できることはない。私の口から漏れた言葉は、言外にそれを認めるものだった。

 祈り場から、カルシャイチャを含んだ巫女の使いが六人、左右へと別れながら、ゆるく円を作る。その中央へと、巫女が一歩一歩を踏みしめるように、呼吸と呼応するように進んでいく。荘厳な雰囲気ではあるが、私は元よりこういうのに敬意を払えない質だ。そこにロコの一件が加わっているものだから、この緩慢な祭儀には、有難みより苛立ちが大きく勝った。

「『我らがハルキュイネ。変わらずの印を。転変の礎となるその御口を』」

 巫女が仰々しく手を広げ、天へと力を希う姿は、神事よりも密やかで、暗いものを感じる。当然、こんなものは『神秘』に慣れていない私の浅はかな感想だけれども、その予感は確かな輪郭をもって顕現した。

「うわ、わ――」

 強く握り込まれた手から、ナナの畏怖が伝わる。

 炎の端、景色を歪めていた陽炎が、空気を、世界を歪め始めた。ゆらゆらと揺らめくだけに留まっていたはずの錯覚は、ぐにゃりぐにゃりと、いずれぐるぐると渦を巻き始めていった。

「ハルキュイネ――」

 苦々し気なガンファの声が聞こえた。

 密度を高めた歪みは、そのまま人の形へと変わっていった。光を曲げ落とし、歪んだ景色が血管のように身体中を巡っている。その双眸が開かれることはなく、私達がその目の位置すらわからないとしても、かのハルキュイネには関係がない。口が、開かれる。

「『噛跡を、新たな身に』」

 ハルキュイネの口が閉じられる。

 カチン、と音が響く。歯の音だ。歯牙が振り下ろされた音だ。

「きゃあああああ!」

 悲鳴が鋭く響いたかと思うと、その混乱は瞬く間に伝播した。

 何事だと騒ぐ者や、様子を確認しようとする者。かと思えば一目散に逃げ出す者――。

 只事ではない。私は腰のマスクに手をやった。

「やばい気配がする――」

 マスクを着けた途端に、背筋や首筋、あらゆる筋に、百足が這い回ったかのような感覚がして、思わず身体が強張った。

 カルシャイチャからの話では、口噛の儀とは、ハルキュイネからの祝福である噛跡を赤子に与える儀式とのことだった。詰まる所、赤子の体質を変容させる、ということになるだろうが、それだけのことで、こんなおぞましい気配はしない。

「『統べしの』の気配に、ほんの少し似てる」

「ろくでもないことだけは伝わった」

 ガンファは入り乱れる群衆の中を、するりと水が流れるように、容易く抜けていく。普段から口うるさく自然がどうのと言っているだけはあって、この程度の人混みを『自然』に動くことなど、彼にとっては造作もないのだろう。

「ナナは少し離れてて。何かできそうだったら、任せるよ」

「了解です!」

 ナナをその場に置いて、私もガンファの後ろをついていく。人の群れはガンファから左右へと割れ、後ろへと流れ去っていく。彼の動きを水に例えたけれど、こうしてこの背中を頼りにしていると、水を避けるための石壁に似た心地だ。ひたすらに進んでいくと、ぽっかりと人のいない空間に出て、ようやく悲鳴の理由がわかった。

 そこには赤い服を纏った人間が立っていた。司祭にもよく似た格好だが、肌は全て隠されており、骨格からして男性だということが読み取れる程度。顔を確認しようにも。頭巾が取り付けられており、その全貌を見るには能わない。というよりも、この認識の出来なさは何らかの術が行使されていると見た方がいいだろう。

 彼の足元には、子供が倒れていた。生きてはいるが――いやしかし、無事とは言い難い姿だ。倒れているその顔には口がいくつも出来ており、ぱくぱくと空振りをしたり、唇を震わせながら涎を垂らしていたり――その目は虚ろで、意識が保たれているかは怪しい。

 特徴的なのは、その首筋。鋭く噛まれた跡がある。赤黒く浮き出た、噛み跡。

「変容――口噛の術か。メルン、あまり離れるなよ」

 ガンファの声に、男は答えを返した。素早く降り抜いたその手から液体がしぶいた。空気から突然、水が噴き出したかのようにも見える。同時に、異臭が鼻をついた。覚えのある刺激臭――強酸の一種だ。

「『どのような物事も、果てでは自然へ収束する』」

 ガンファは何もせず、その詠唱を、まるで考え事をぼやくかのように吐いた。

 飛び散った液体は、焼石に散らされたかのように消え去る。

「あんたの術、えぐ。何やったわけ?」

「不自然なものを自然に戻す、ただそれだけの代物だ。医猟の術とでも言っておこう」

「強そうじゃん。じゃあ戦闘は? 飢える狼の術なんだからいけるっしょ?」

 そう聞いてみると、見事に睨みつけられた。

「何を期待している。俺は医者だぞ」

「わかるよ。私も昔、医者だったからね」

ガンファは舌打ちをしながら、しかし、不敵な笑みを浮かべた。表情には幾分か余裕が感じられる。しかめっ面じゃないのがいい。感情が緊張を伴って現れる場合が、一番どうしようもない時なのだ。

「だが、アレが相手であれば――やれないことはない」

「いいね。作戦はどうする?」

 答えはすぐに返ってきた。

「単純だ。周りからここを遮断しろ。そして隙を作れ。俺が『治療』を叩きこむ」

「『治療』ってそんなメイスみたいなものじゃないでしょ。『聖なる儀式の場に、凡夫は不要。多くの者に視認されるいわれはない』」

 ガンファは右手を何度か開閉させて、血の巡りを促しているようだった。一歩一歩、急ぐことなくゆっくりと近づく様、その冷静さから放たれる威圧感は、ただの医者と言うには無理がありすぎる。

「さすがは『医猟団』って感じだ――っと、私も仕事しなきゃね」

 ガンファの接近に対して、司祭は再び空気をしぶかせた。

「『先と同様』」

 めちゃくちゃな詠唱だが、液体はそれだけで再び空気へと還る。ガンファはこれを『医療』の術などと言っていたが、ローデスのような個人の術に等しい。派閥の術と違い、他に使う人間が少ないため、小回りが効きやすく、その詠唱も柔軟性に富む。しかし、大きな力を持つことはない――はずだが。

 司祭が地面を指差すと、石畳が蠢き、石壁へと変化する。

「『先と同様』」

 しかし、その一言で、石壁は床へと沈み、元へと戻る。

司祭はそれを予想していたのか、空気をすでに液体に変えていた。

「『先と同様、以降に起きず』」

 だとして、ガンファもそれを当然の如く予期している。

また一歩と足を進めて、ガンファは司祭の顔を見据えた。

「お前、詠唱がないな。それとも、詠唱も秘匿されているのか――」

 ガンファが拳を握り込む。

「まあ、今に正されることだ。『我ら、自然にあり。一時の逸脱はあれども、永遠の変容はあらず』」

 司祭の降る手は、ただ空を掴むのみ。自然の通り。だが司祭は大きく動こうとしない。

「『炎は導――隠匿せしものを照らし焼く。煙は本質――』」

 瞬間、司祭の姿が立ち消えた。先ほどの術とは毛色が違う。

「メルン」

「『治安とは、罪人を隠すためのものにあらず』」

ランタンを揺らすと、火の粉がキラキラと宙を舞う。

「『さすれば、ロガーレフが貴様を見逃す道理はない』」

 火の粉がバチバチと音を立て、宙を燃やした。

 司祭は何かしら仕掛けようとしていたのだろう。

ガンファの首に、右手が届く寸前。

 しかし、姿が見えた相手に、ガンファが遅れを取るはずもない。

ガンファの拳が、司祭の腹を強く抉った。

「『今が回帰の時』」

 詠唱を終え、拳を撃ち抜く。

 彼は医者だ。筋力に優れているわけではない。

 しかし、人体の理解には優れている。自然というものを口癖に吐く医者。その身体と知識が放たれる拳は、軌道は見えず、前兆が悟れない。自然とは、意思の不在を指す。意思なくして、有意識の『治療』を行える――これが神授医、ガンファだ。

 司祭は、よろよろと後ずさり、腹を押さえる。ダメージは確実にあるのだろう。

しかし、ガンファは、舌打ちをした。

「メルン、厄介なことになった。奴には変容も隠匿もない。だが未だに顔は見えず、その手は影に覆われていて、大きさの把握すら難しい」

 司祭はゆらりと態勢を整え、再び、何かを詠唱する素振りを見せる。

「つまり、奴にとっては、あれが自然、ということになるな」

 言う間に、司祭は立ち消えた。

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