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第八十二話

「気配が消えた――」

「なに――完全に消えたというのか」

 術の類の消え方じゃない。ぼんやりと掻き消えるのではなく、一瞬で――。

「これ、とてつもないな。本当にどこにもいないよ。術の気配もない。ガンファ、あんた流に言うんだったら、それが自然だった、とでも言わんばかりだ」

 ガンファは、手の甲をじっと見つめていた。木彫りの彫刻に、ささくれがないかを探すかのように、その表面をなぞっている。赤の司祭の痕跡がないかを探っているようにも見えるが、結局、ため息を吐いて、腕をだらんと下ろした。

「確かに、俺から感じ取れるものもない。そうとなれば、その子の救護だ。メルン、念のために周りを見張っていてくれ。この子の治療は俺にしかできん」

「病人はお医者様に任せるよ。ハウゼの神授医様にさ」

「言ってろ――『我ら、自然にあり。一時の逸脱はあれども、永遠の変容はあらず。今が回帰の時』」

 先ほどにも聞いた詠唱だ。そりゃあ『医療』の術だから当然ではあるけど。

「これで問題なし、だ。俺の術が弱まったわけじゃなさそうだ」

「その術、さっきみたいに抉り込んだの? 腹」

「わかってて言ってるだろ、お前」

 子供は意識を失っているようだが、その他に異常はなさそうだ。となると、あの司祭が使っている術は変容、口噛の術で間違いはないのだろうが、私が気になるのはそこじゃなかった。

「それにしても、あの消え方。なんか覚えない? ガンファ」

「ロコ、か」

 一つの痕跡も残さず、そして現在までその痕跡の見当たらないロコ。タイミングを考えれば、この相関を疑わない方が難しい。

「あの赤い司祭を追えば、ロコへの手がかりも得られるかもしれないな」

「それに、私達はもうこの件に関与しちゃった。それに隠匿に『信仰』の術を使ったけれども、エポは凡夫、じゃないからね。さっきの出来事は――全部とは言わないけど、少なくともガンファと私が戦って、追い払ったってことは把握されちゃってると思うよ」

 ガンファのため息が、重く地に落ちていく。

「今さら降りる、などと聞き入れてはくれないか」

「そういうこと。ま、ガンファも巫女の懐に入りやすいし、いいんじゃない?」

「本当はもう少し静かにしたかったんだが――状況が状況だったからな。そう思うことにしておこう」

 ガンファは子供を楽な態勢に寝かせると、ふう、と息を吐いた。

「さて、お目通りと行こうか。儀式で何が起きたのか、アレに覚えがあるのか――エポの一大事を救った協力者として、な」


 ある程度、場の収拾がついたころ、カルシャイチャの方から声がかかった。

 私達はカルシャイチャに、自分の家だという場所に連れられてきた。カルシャイチャの家もまた、他の民家と同様に狭く、調理窯の傍では、野菜袋が窮屈そうに座っている。

「まずは、事態を収めてくださったことに、エポの民を代表して感謝を。被害に遭った子ですが、その後、容態に変化はなく、意識も戻ったようです。保護者の方も、あなた方に感謝しておりました。いつか、ちゃんとしたお礼を、と」

「いいよ、そんなの。私達がやったのは自衛。治療はその延長線でしかないよ。あと、ガンファは目立つの嫌いだからね。気持ちだけ受け取っておくよ。それで――世間話で終わらせるつもりはないよね?」

 いつも柔和な笑みを浮かべているカルシャイチャの表情が曇った。

「ええ。本来であれば、街の代表であるエポ様からご説明をするのが道理。しかし、エポ様は、今回の事件を受けて、今一度、祭儀の内容を見直しておられます。そのため、この件に関しては、私、カルシャイチャが受け持ち、可能であれば、事態の解決を図りたいと考えております」

 街の被害者は出てるもののその原因は不明。となれば、街の責任者でもあり当事者でもあるエポが表に出てくる余裕はないだろう。

「まあ、仕方ないね。それじゃあ、始めよっか。まず口噛の儀の仕組みについて、話せる分だけ話してもらえると助かるな」

「もちろん。秘匿とは、信頼のおけないものに対して行う代物。街の一大事を救ってくれたお三方に、秘匿を行う所以はございません。では、口噛の儀が何を行ったか、そこから始めましょう」

 カルシャイチャは背もたれにゆっくり寄りかかると、煙をゆったり吐き出すように、言葉を繋げ始めた。

「初めに説明した通り、口噛の儀は噛跡を、新しく生まれた命に施す儀式です。五歳を迎えた際の、通過儀礼といった具合でしょうか。噛跡は、一部神ハルキュイネから授けられる祝福。なれば、ハルキュイネに『噛まれる』必要があります。皆様も姿を見たと思いますが、炎が纏う陽炎から出でた姿――あれがハルキュイネの化身の一つ、ハルキュイネそのものではございません」

「ハルキュイネの噛みつきが起きた途端、赤い司祭が現れた――そっちもその認識?」

「ええ、間違いありません。歯牙のぶつかり合う音が聞こえたのです。それに先ほど確認しましたが、ハルキュイネの噛跡は、件の子供に残っていました」

「それは――首筋の?」

 カルシャイチャは怪訝な顔をしてから、首を横に振った。

「いえ――噛跡とは呼んでいますが、目に見えるものではございません。あれはあくまで祝福でしかない。物理的な傷跡はないのです」

「なるほど。じゃあ私からも一つ。あの子の首には、確かに噛まれた跡があった。ガンファ、あんたが彼を治療したあと、噛み跡はまだ残ってた?」

 腕を組み、背もたれに寄り掛かっていたガンファは、腰の力で身体を起こした。

「いや、治療と共に消えた。噛み跡もまた、彼にとっては自然ではないもの、ということになるな。それが何を指すのかは、全くわからぬ話だが」

「あれが傷跡だったらガンファのあの術で治るわけがない。というか『医療』の術って傷口を塞ぐとか、そんな直接的なものじゃないからね。」

「え、あ、そうなんですか?」

 ナナがきょとんとした顔を見せる。

「ナーナー? 前に教えたよねー?」

「うわあ、ごめんなさい! ごめんなさい!」

「まったく――いい? あれは、あくまでも検査や治療をしやすくするためのもの。だからこそ治療じゃなくて、『医療』の術。次は忘れないでね?」

「はいぃ――」

 しおしおと身体を縮こませるナナを横目に、私は話を続ける。

「とにかく、あの赤い司祭はなんらかの術か、それともなければ、超常的な何かか、そういったものを扱っているんだ。それこそ『神秘』の専門だと思うんだけど――」

「心当たりは、ないですね。あのような存在が現れたこと自体初めてですし、目に見える形での噛跡の付与というのも、前例のないことです」

「そうか――赤の司祭――仮にそう呼ぶけど、アレの目的に思い当たる節はある?」

「それも特には――。お二方の報告では、口が大量に出来ていたとは聞きましたが」

「うん、結構ヤバい見た目してたよ。意識も朦朧としていたし、変容とは言っても、元の人間の生命を尊重しているようには思えなかったね」

「そうですか。――口を増やす、などといった行為、誰が得をするのでしょう」

 それはそうだ。赤の司祭が人を襲ったのは事実だ。だが、結果的に言えば、彼は口を増やしただけで、それ以上のことは何もしていないし、できていない。私達があの場に辿り着くまでに、周りの民を脅かすこともできたはずなのに。

「推測すら立たないな、こりゃ。とにかくまた出会ったら殴り飛ばす。それぐらいのことしかできないな」

 カルシャイチャは頷いた。

「旅人のお二方は、今夜のことで、目をつけられてしまったかもしれません。私達も調査を急ぎますが、くれぐれもお気をつけてください。特にナナ様が狙われる可能性もありますから」

「そうだね、気をつけるよ。ご忠告どうもね、カルシャイチャ」

 窓の外を見ると、月は雲に隠れ、街は黒一色に染まり切っている。私は席を立ち、ナナに帰りの準備をするように促した。

「さて、今日は帰ろうかな。何か分かったことがあったら知らせるよ」

「感謝いたします」

 靴を整え、改めてカルシャイチャの方へと向き直る。

 私は、首を傾げた。

「そういえば、カルシャイチャ。結構、料理はする方なの?」

「え、どうしたんですか? 突然」

「いや、少し偏見的な物言いになるんだけど、カルシャイチャはすごく面倒見が良さそうだからさ。今日話してるときだって、私達より、ナナの方を気に掛けてたでしょ?」

 この指摘に、カルシャイチャは赤面した。

「え、あ、そんなに分かりやすかったですか。お恥ずかしいです。私、その、子供を見るとどうしても、いろいろ気になってしまいまして――」

「別にいいんだよ。ナナもまだ甘え盛りだからね。ああ、そう、だからね。そういう人って料理も上手いってイメージがあるから」

 ちらりとガンファの方を見る。

「――――――」

 無言で睨まれたので、私は話へと逃げた。

「だから、気になっちゃってね。機会があれば、エポの郷土料理を口にしたいと思ってるんだ。どうかな?」

「料理は――毎日しますよ。そもそもエポの街に食堂などもありませんからね。ただ、料理ができない人はできる人に委託したりはしますよ。小さな街なので、その辺りは助け合いですね。ちなみに、私は料理の腕に自信はないんですけど――それでも?」

「正直なところ、カルシャイチャ以外の人にはちょっと頼みづらいからさ」

「あら、嬉しいことを言ってくれますね、メルン様。――そうですね。この騒ぎが解決したら、その時は、感謝の意も含めて、ご馳走しますよ」

「ありがとう、楽しみにしてるよ」

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