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第八十五話

ナナが振り向くよりも、早く到達してしまう――そのすんでのところで、黒い軌道がまるで半月を描くかのように横切った。ガンファの蹴りに司祭の軌道が逸らされたのだ。

「どうして――どうして気づけなかった?」

私があの石だけを警戒したのは、赤の司祭が纏っている特有の気配ゆえだ。背筋に走るあの危機感を頼りに、赤の司祭の出現は確認できると思っていた。

だが、今の今まで、あのおぞましい気配がなかった。いや、今感じている悪寒は、あの存在を認識したことによる忌避感から来るものだ。昨日ほど鮮烈ではなく、今もそれは曖昧だ。それなのに――赤の司祭はそこにいる。

「存在の秘匿か――!」

 ともすれば、あいつはナナを最初から狙って現れた――そういうことになる。

「メルン! ナナを守れ! 俺がこいつを足止めする!」

「わかった! ナナ、こっち!」

「はい!」

 状況を把握したナナは一目散にこちらへと走った。

しかし、ナナの身体が前に進まない。恐怖で竦んだ足が――なんてものじゃない。

ナナは走っているのに、その実、一歩もそこから動けないのだ。

「なに、これ――なんで――」

「『どのような物事も、果てでは自然へ収束する』」

 ナナの身体が、弾き飛ばされたかのように前へと進み、足がバタバタと地面を蹴り飛ばす。バランスを崩した彼女を受け止めて、生体反応に問題がないことを確認する。

「ナナ、大丈夫? 私の目を見て」

 ナナは言われた通り、焦燥から乾いた眼を私に向けた。

「少し、ぼーっとしてる? 動きすぎて――じゃないな。もっと根本的なものだ――」

 私は腰の鞄から、気付け薬を取り出すと、ナナに飲ませた。

「っぷあ! はーっ、はーっ――」

 ナナは、意識がはっきりしたようで、一等大きく肩を揺らすと、水中に潜っていたかのように大きく、何度も息を吸った。

「よし、大丈夫そうだね――ガンファ、今の何があったか分かる?」

「空気を『変容』させたんだ。何もないところから酸を生み出したように、空気の性質を変えて、ナナを閉じ込めたのだろう。出来るだけ離れろ、『変容』は、熱を伝えるように繋がっているものを辿って適用される。距離が離れるだけ、避けるのが容易になるはずだ」

 そう言いながらも、ガンファは赤の司祭に迫っていく。赤の司祭は近づけば近づくほどその力を強めるが、ガンファはそもそも自らの体術を叩きこまなければ、ダメージを与えることすら敵わない。剣を携えた相手に、素手で挑むよりも分が悪い。唯一勝っている点と言えば、ガンファの術が変容を打ち消せることのみ。

「『先と同様』――くっ」

 赤の司祭は、明らかに力を強めていた。ガンファの詠唱が間に合わないほど、その変容の手数が多い。空気や水などの姿なき妨害を詠唱で打ち消しながら、石畳などの物理的な攻撃は体術で避けることを余儀なくされている。

「『炎は導、煙は本質――あなたの願いを叶えんことを』」

 獣の眼――捕食されるまで追い回された哀れな願いを、自らとナナに付与する。ガンファには、私の願いの相性は最悪だ。ガンファの自然の術は、私の願いの力をたやすく打ち消してしまう。外から叶えられる願いは、私の叶えた願いは、往々にして不自然、というわけだ。だからと言って、私は素の状態で、あの司祭に太刀打ちできるわけでもないし、下手な加勢をすれば、またナナを狙われかねない。

 それより、私が行うべきは別にある。暴くべきことがある。

「『炎は導――秘匿されし出自を照らし示す。煙は本質――其が導く果てなり』」

 私は先ほどの石を燃やし、その煙を吐いた。煙管はただ願いを叶えるものではない。どのように燃やすかにもよって、その性質を変える。灰まで燃やし尽くしてしまうか、それともその香りを嗅ぐのか、やり方はいくらでもある。

 煙は、浮力を持たず、蛇のように地を這う。三叉に分かれて、川のように流れ、いずれ一つの場所へ停滞し、渦を巻き始める。

 そこには女性が倒れていた。複数の口を持った顔、虚ろな眼、首筋の赤黒い噛跡――。

「ガンファ! 煙の先だ! あれが根っこだ!」

「『飢える狼、死せる狼。餓狼の足は弛まず回る。餓狼の牙は絶えず切り裂く』」

 ガンファはすぐに詠唱を始めた。『医猟団』の『医猟』の術。個人の術に近くも、積み重ねた経験と歴史、その執念がその効果を強めている。彼が、素早く詠唱に移ったのは決してそれが唯一の活路だと思ったからではない。ガンファにとって――『医猟団』の者にとって、致命的な被害は、最も先に屠るべき獲物なのである。

「『前例に倣え。先と同様――以降に起きず』」

 自然の詠唱を挟みつつ、ガンファは『医猟』を完遂させる。

「『その病、その異常、見逃せるはずもなく――』」

 ああ、『医猟団』が飢える狼というのは比喩ではない。

 そのもう一つの姿は、確かに餓狼であるのだ。

 ガンファの姿は、刹那に狼の姿へと変わり、赤の司祭を通り抜け、即座に患者の前へと辿り着く。狼はその手を取り、詠唱の代わりに遠吠えを行った。

 ――回帰せよ、回帰せよ。

 こだまする込められた願い、自然の術の詠唱の根源。

 患者は元の姿を取り戻し、呼応するように赤の司祭の姿は立ち消えた。気配も存在も元からなかったかのように、綺麗さっぱりと。

「どうにか――なったか――」

 人間の姿を取り戻したガンファは、地面へと座り込み、そのまま項垂れた。

「前回が手抜きだと思えるほど――強かったな。次も敵うか分からん」

 私は気を失った患者に、楽な姿勢をさせた。

「時間が経つほど、強力になってるのかもしれない。でも、一個わかったことがある。赤の司祭は、赤黒い噛み跡を持つ者に由来を持っている。つまり、彼女は依り代だと推測ができるね」

「ああ、そうだな。だが、わからんことも増えた。ナナをあれだけ狙ったことと、ナナを殺そうとはしなかったこと。これが引っかかる」

 ナナはガンファの隣にしゃがみ込んで、こちらを見上げた。

「この石のせいだとは思うんですけど――それだけじゃ説明つかないですかね?」

 ナナが指差す放射状に棘の分かれた石。それを再び見つめてみても、願いの声は届いてこない。私はおそるおそる石に触れてみたが、変化はなかった。

「そもそもこの石――なにかわかる? ガンファ」

「推測だが、昨日の戦いの間に、赤の司祭が残した物だろう。その証拠に――『どのような物事も、果てでは自然へ収束する』」 

 彼の詠唱は即座に石を、意味のない砂へと変えてしまった。砂は微かに吹いていたそよ風に吹き飛ばされ、街の果てへと消えていく。

「何かの力の媒体を埋め込んだのかもしれない」

「そうなると厄介だね。私の術で見つけたとしても、赤の司祭がまた顕現するし――」

「俺の力にも限度はある。自然に戻す、とは言っても、まずは変容を認識しなければ元には戻せない。さっきの戦いで司祭がまた、エポの街に力をばら撒いたとなれば――骨が折れるな、あまり考えたくない事態だ」

「ナナも、何か気づいたことある?」

 彼女はしばらく石畳の隙間をなぞりながら、んー、と声を上げた。

「もしかしたら、ですけど。アレがもし、新月病だとしたら――私に惹かれるのは当然のことかもしれません。もしかしたらハルキュイネ様も――アンテレス様みたいに、暴走しているのかもしれません」

 言いながら、ナナはガンファの顔色を伺っていた。それに当然気づくガンファは、ややふんわりと笑ってみせたが、頬の強張りは取れていない様子だった。

「気を遣わなくてもいいぞ、ナナ。君の意見は最もだ。むしろ自然な考えだろう。メルンはさっき、いち早くあの石を危険だと判断したな」

「うん。あそこから声がしたからね――そう言えば、器がどう、とか言ってたな」

 そうか、と頷くガンファの面持ちは、より暗くなっていく。

「一部神が現実との繋がりを持つための器――その依り代として、ナナが狙われていると考えていいかもしれない。ナナを守る方法を考えないとな」

 ガンファは首筋を抑えながら、しばらく空を見上げていた。

「俺に考えがある。ナナを守りながら、赤の司祭の全てを暴く。だから――メルン、俺の目は見ないでくれ」

 ガンファは依然として空を見上げている。私から意図的に視線を逸らして。

「了解。臓物の血は絞り切れ、とも言う。その慎重さに乗るよ」

「感謝する、メルン。絶対に、成功させる」

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