あっという間に見えなくなってしまった執事の後を追おう、と立ち上がった時だった。
「あ……」
ずっと泣き出しそうだった空がついにこらえきれず、雨を降らせたらしい。
降り出した雨は、地面を染めている血を少しずつ洗い流していく。
「私も手くらい洗わないと……」
一瞬、降り出した雨で流そうとしたけれどそれくらいでどうにかなる状態じゃない。
家に戻る?いや、そんなことをしている時間もない。
だから私は近くのお店へ駆け込んだ。
まだ陽がある時間にも関わらず、不自然に"休業中"の看板がかかっているけれど誰かが居てくれさえすればいい。
それに確かここは学院時代に一緒だったリーネの家族が経営している道具屋だったはず。
「すみません!」
私は大きな声でお店の人を呼んだ。
もし誰もいないのなら鍵くらいはかけているはずだもの。
「はーい?」
のんびりとした声で返事をし、奥から出てきたのはリーネのお母さんだ。
何度か見たことがあるし、話したこともある。
「あら、もしかしてローゼリアさん?」
「はい、リーネのお母様……ですよね?」
「ええ、そうよ……ってどうしたの? その手」
「知人が怪我をしてしまって……」
「あら、それは大変!」
リーネのお母さんは驚き、そして心配そうな顔をする。
「その……不躾なお願いで申し訳ないのですが、お水を使わせていただけませんか?」
「あら、そんなこと! もちろん構わないわ。ちょっと待っていてね」
そういうとお店の後ろに引っ込んでいく。
しばらくして桶いっぱいの水を持ってきてくれた。
「ほら、この中でざぶっと洗っちゃいなさいな」
「ありがとうございます」
リーネのお母さんが親切で助かった。
私はいわれたとおり、無作法にもそのまま桶に手を入れて洗わせてもらう。
「……お友達の怪我、酷いのかい?」
桶に広がった赤い色を見て容態を心配したのであろう、リーネのお母さんが尋ねてくる。
「できる限りのことはしたので大丈夫だと思……いえ、大丈夫です!」
私はあえて言い切った。
そうしないと、不安に押しつぶされそうだったから。
リーネのお母さんは「うんうん」と優しく頷いてくれる。
「あら、もしかして外は雨が降っているのかい?」
ふと店の外に目をやったのだろう、そんなことを聞いてくる。
そして続けていった。
「だから客足が途絶えていたんだねぇ」
「あの……外の看板はCLOSEになっていましたけれど」
「あら? そりゃおかしいねぇ……あたしもボケてきたのかしら? あっそうそう、ボケてるといえばウチの旦那のお兄さんもねぇ帽子と間違えてパンツを被ったことがあってねぇ。足を通す穴からハゲ頭が覗いてるってんだからあたしゃもうおかしくておかしくて……」
話が長くなりそうだったので、やんわりとこれから知人の見舞いをしなければならないと伝えた。
今度ゆっくりその話の続きを聞きに来たい気もするけれど、今はその時ではない。
「あら、そうなの。引き止めちゃってごめんなさいね」
「いえ、面白いお話でした。それからお水、ありがとうございます」
ぺこりとお辞儀をして立ち去ろうドアを開けると、店の外は雨が激しくなっていた。
どうしようかと考えていて、ふと店の一角に置かれている傘が目に入った。
「すみません、これください」
私は無意識に薄紫色の傘を選んで掴み取った。
それはメリンダの瞳の色だったからかもしれない。
「あら、傘持っていなかったのかい。気前よくあげたいところだけれどこっちも商売だからねぇ」
「いえ、とんでもありません。お水代も合わせてお支払いさせて頂きます」
「あら、何言ってんだい! それじゃあ傘と水……合わせて銅貨1枚だよ」
銅貨1枚では今時パンひとつ買えやしない。
それがリーネのお母さんの好意であることは明らかだった。
お客である以上、店の商品は
だから私はカウンターに銀貨5枚を並べた。
「こちら、頂いていきますね」
「あら、逆に気を使わせちまったかい」
お店の外に出ると、リーネさんのお母さんは一緒についてきて「きっと大丈夫だよ」と背中をポンと叩いてくれた。
今はそれがとても心強く感じる。
首を傾げながらお店の看板を"営業中"へと戻しているのを横目に私は走り出した。
「急がなきゃ……」
酷い雨が視界を悪くしているが、そんなこと気にはしていられない。
近道をするため、シュバルトさんがメリンダを抱えて走り去った路地に足を踏み入れた。
するとそこにはおよそ貴族街には似つかわしくないガラの悪い男が3人ほど横たわっている。
何故ここで倒れているのかは分からないけれど、息はありそうなので「ごめんなさい」とだけ呟いてその体の上を飛び越した。
1つ目の路地を抜け、2つ目の路地を抜け、辺境伯家のお屋敷まであと少しというところまで来た。
そこでカランという小さな音と共に私から何かが転がり落ちた。
慌てて拾おうとしゃがんで手を伸ばすとそれはキール様から貰った指輪だった。
「え……どこかにぶつけてしまったのかしら?」
なんと指輪は割れて、真っ二つになっていたのだ。
はじめて男性に貰ったプレゼントをこんなにも早く壊してしまうとは。
「なんて酷い日なの……」
やっぱりメリンダが朝からいっていたとおり、今日もいつものように刺繍をして過ごすべきだったのだ。
そんな後悔をしてももう遅い、今はただメリンダの元へ。
私は溢れかけた涙を拭って立ち上がった。
「お待ちしておりました」
息せき切らしてようやくたどり着いたお屋敷では、既に着替えを済ませているシュバルトさんが待っていた。
「メ、メリンダは……メリンダは大丈夫ですかっ?」
「まずは落ち着いてください」
そういって私にふわふわのタオルを掛けてくれた。
せっかく傘を買ったのに走り回った結果、私はずぶ濡れになっていたから。
こうして私が濡れ鼠になって駆け込んでくることを想定し、用意してくれていたのだろう。
「落ち着きましたか?」
「はい、ありがとうございます」
「メリンダ女史にはすでに適切な
「た、助かるんですよね?」
「ええ。彼女はきっとまた貴女に笑いかけてくれるはずですよ」
つまりメリンダは助かった、ということだろう。
「よかっ……」
安心して気が抜けたのと同時に涙が溢れてきた。
それは止めどなく流れ出て。
それをふわふわな白いタオルが全部受け止めてくれたから。
だから私は思う存分泣くことができたのだ。