「さあ、偉大なる魔の神よ! 我が力を用いておいてくださいませ!」
彼の腕から流れる赤黒い血が魔法陣に沿ってしみ込んで行き、次第に不気味な光と赤黒い闇がせり上がっていきました。其れは徐々に人のような形をかたどっていきます。
薄暗い洞窟の中でもハッキリ判別できる黒い人型。ですが、それが人のはずがありません。頭はヤギで、腕は四本、蝙蝠のような翼が生えたシルエットが人間のはずがないのです。
「…………」
ダルグさんが槍をゆっくりと構えました。
モンスター達を圧倒した彼から緊張した気配があったように感じます。
「おぉ……なんと素晴らしい」
狂った恍惚の顔で黒い人型を出迎えるギガル神官には、私とは違うものが見えていたのでしょう。じゃなきゃすぐに逃げ出しているはずです。
「我ヲ呼ブ――オマエ?」
「そのとおりでございます! この度は召喚に応えていただき、感謝のしようがございません!!」
ギガル神官が片言のナニカと話している間に、私の肩をダルグさんがポンポンと叩いて『壁際まで避難しろ』とジェスチャーで伝えてきました。言われたとおりに動いている間も、会話はまだ続いています。
「ナニ、望ム?」
「あそこにいる愚か者共の殲滅です! 生まれてきたことを後悔させるほどの絶望と苦痛を与えてくださいませ!!」
「……ヨシ」
ぞくりと背筋に冷たいモノがはしりました。
一瞬だけ目が合ったきがするナニカから感じ取れたのは、玩具を見つけた子供のような愉悦に近かったと思います。そんな感情が私に向けられていることが、何より異質で、恐ろしかったです。
「ハッハッハッハ! これで貴様らもおしまいだ、せいぜい泣いて縋って見せるがいい!!」
「…………デハ、契約ノ代償、貰ウ」
がしりと、黒い腕のようなものがギガル神官の頭を掴みました。
「……は?」
「マズハ、オ前ノ血ト肉ヲ、苦痛ト恐怖、魂ヲ」
「な、なにを! がっ!? い、いだ、イダイ! が、あ、ガアアアアアアアア?!!!」
骨が、砕ける音がしました。
耳を塞いでも聞こえてしまうほどの、気持ち悪い音でした。
悲鳴に遅れて聞こえてきたのは、何かをすするような音です。ジュルジュルと、ドロドロしたものを頬張った時のような異音。ベキベキバキバキとさらに細かく砕くような響きや、ベコベコと何かがへこむようなものも反響しています。
逆に、ギガル神官の声は全く聞こえなくなりました。
恐ろしい音も、何かがべちゃりと床に叩きつけられたので最後。そこに何があるのか、とてもじゃないが私には見れませんでした。
「不味い……足リナイ……腹、減った」
遠くの雑音みたいだった声が、鮮明になっていました。
その姿もハッキリと形作られています。人と動物が混ざったような体、一部は骨が剥き出している、自然には生まれない――異形の悪魔。
「ノルーネ!」
「ッ!?」
「アレと目を合わせるなよ!! まったくこんなチンケな仕掛けで魔神なんて呼べるはずないのに、余計な置き土産だけ残しやがって……ッ」
「ゲッゲッゲッゲッ、久々の地上、嬉しい。獲物、いっぱいいるんだろうなぁ。……まずはそこの小さいの、から」
壁際に避難した私の方へ、悪魔が跳んできました。
私は逃げようと必死でしたが、ガクガクと震える足は縫い止められてしまったかのように動かせません。
パクパクと動くだけの口からは声もでません。
すぐそこに、死が迫ってきていました。
「やらせるわけないだろ」
「!」
ドゴォォォ!! と強く叩きつける音と共に悪魔が壁まで吹っ飛んでいきます。ダルグさんが助けてくれたのです。
「や、やった。すごいダルグさん、あいつをやっつけ――」
思わず悪魔が倒れている方向へ視線を向けました。
それが大失敗だと、気づけずに。
「ゲッゲッゲッ、全然痛クナイ。それに……目、合った」
「んぐっ!?」
悪魔の持つ横長の瞳孔がカッと見開いたのを見た瞬間。
全身が何かに押さえつけられたかのように動かせなくなりました。
息が、上手く吸えません。
苦しくて苦しくて、うずくまってしまいます。何が何だかわかりませんでした。
「くそっ! ノルーネ気を強くもて!! 恐怖に負けるな、心が喰われるぞ!!」
「ゲッゲッゲッゲッ、何分持つかな。なるべく長ク苦しんで、美味しくなって欲シイ」
「このっっっ、下級悪魔がああ!!」
「ゲッゲッゲッゲ♪」
そこから、ダルグさんと悪魔の戦いが本格的に始まりました。
辛かったのは苦しみながら転がっていたのもありますが、何より私が完全なお荷物だったことです。
悪魔は戦っている間に、何度も私を狙いました。その度にダルグさんは私を庇って傷を負っていきます。
きっとあの人が一人だったのなら、もっと簡単に終わっていたのではないでしょうか。あそこまで傷つかずに済んだのではないでしょうか。
悪魔の身体はとても硬いようで、ダルグさんの槍と素手で打ち合っていました。その爪は岩を切り裂く威力で、つまり人間の身体なんて紙切れと変わらないということです。
何度目かの打ち合いのあと、グラッドさんの呻き声が上がりました。
私を守るように動いていた際に、悪魔の鋭利な尻尾に背中を貫かれたのです。
「グハッ!」
「ッ……ッッ!! ッッッ!!!」
どれだけ叫ぼうとしても、かすれた息が漏れるだけの私にはあの人の名前すら呼ぶことが許されません。無様に涙と鼻水、涎をこぼすだけ。
獰猛な笑みを浮かべた悪魔が貫いたままのダルグさんを自分の口元へ引き寄せていきました。
「お前、どんな味、する?」
びっしりと敷き詰まった歯を見せびらかすように、悪魔が大口をあけてダルグさんの肩へかぶりつきました。
守ってくれていた人が目の前でヤラれる光景は、絶望を生み、私の齢意識が消えそうになる。
その直後。
「あれ…………?」
急に、さっきまであった苦しさが和らぎました。
「どうして……」
戸惑う私に、悲痛な叫びが届きます。
「ゲゲぐああァァァーーーーー!!?」
叫んでいたのは、悪魔でした。
その口元が黒く燃えて、しゅわしゅわと煙を放ちながらドロドロに溶けていたのです。
「ぎ、ぎざまっ、何を、ナニをじだぁ……」
「――したのはオレじゃなくて、お前だよ」
槍の一振りで悪魔の尻尾が分割されました。
ダルグさんが無造作に突き刺さっていた尻尾を引き抜いて、苦しむ悪魔を見下ろします。
「ノルーネに、無関係な子に呪いをかけやがって……オレにだけ向かってくればよかったものを」
「ゲッ、ゲゲゲッ……え、エサのくせに、生意気ッグガアアアアア?!!」
悪魔の四肢がちぎれとび、その胸に槍が突き立てられました。
私には何が起きたのか分かりません。ダルグさんが動いたのだと思いますが、何も見えなかったのです。
「やっぱり悪魔の中でも三流だったな。本能のままに動く時点で上位の悪魔とは比べるべくもない」
「お、おでをバカに、する、か」
大きな溜息が吐かれると、胸に突き刺さった槍がズブズブと深くくいこんでいきました。
私の苦しみはすっかり無くなっていきましたが、さっきまでと似てるけど違う気持ちがこみあげてきます。ダルグさんの行ないから目が離せません。とても恐ろしいものを目の当たりにしていると、分かっているのに。
「もっと注意深く見てみろ。お前が何にケンカを売ったのか、分かりやすくしてやる」
「…………!!?」
悪魔の顔が、恐怖に歪みました。
まるで恐れ多くも天上の神に歯向かってしまった罪人のように。
「そ、ソンナ事ガ!? いや、騙されない。あの逸話はデタラメ……」
「デタラメねぇ。ならこれもデタラメか」
冷たい口調で淡々と話すダルグさんの身体から、何かこの世のものではない闇が立ち昇っていました。
「下級の悪魔が格が違う上位悪魔に逆らうことは基本的に出来ない。力で叶わないだけじゃなく、ルールに反した罰として核に致命的なダメージを受けるからだ」
「!」
「元々霊体に近いお前らは普通の攻撃じゃダメージを受けにくい。だからオレはてっとり早い手段を取らせてもらった」
ダルグさんの腹部にあった大きな傷から闇色の炎のようなものが吹きだしました。それが収まると、傷はすっかり無くなっています。まるで元から何もなかったかのように元通り。
驚いてるのは私だけではなく、異形の悪魔もでした。
「さ、再生!? イヤ、まさか?! ソレはあの御方の力――」
「お前は格上の存在として定められた者に害を与えた。だから罰を受けて、実体化させられたどころか核そのものに深いダメージを負ったんだ」
「お、オォォ……オォォォ……オォォォオオ!」
「もうひとつ。上位存在に逆らった者は、問答無用でその命令を遂行しなければならない。たとえどれだけ自分の意に反していたとしても、その強制力には抗えない」
「お、お許しを……お許しを……ッッ」
悪魔は泣いていました。
さっきまであんなに恐ろしいかった悪魔が、今は理不尽な怒りに対して許してもらおうとする子供のように縋っていました。
「……なあ、お前さ。そんな風に泣いてきた人達に対して、なんて応えてきた?」
不意に悪魔が召喚された祭壇が崩れました。
その中から転がってきたのは、たくさんの人の骨です。一体何人分あるのか見当もつきません。
「し、知ラナカッタ、ノデス。ドウカ、どうかご慈悲ヲ……――」
「……その槍を自らを貫いて消えろ――そして闇の中で、いつまでも苦しみながら死に続けるんだな、永遠に」
「ゆ、許シ、テ――――あ、アァァ、ギィヤアアアアアアアアァァァァ!!!!」
異様でした。
悪魔は首を伸ばしてからその口で刺さっていた槍を咥えて、さらに深く深く穂先を胸に沈めて行ったのです。
「ゲ、ガ! ギ、グガ、い、イヤ、ダ……消エタクナ……イ。お許シヲ、おゆるしをぉおおおおおお偉大な神、魔神エフォルトスさ――」
「あんなのと一緒にするんじゃねえ!」
悪魔が自分で槍を突き刺していき、何かを砕くような音がして、最後は黒いドロドロの塊から灰のように崩れ去っていくまで、ずっと見下ろしているだけでした。
「オレは……人間だ。人間なんだよ」