「そんなララさん……!」
『カイン・モロルド! 貴方はなんということを!』
美しい白い髪が血に染まっていた。
どんなに泥にまみれ、煤にまみれても、美しく輝いていたララの自慢の髪が。
その白い肌も血に濡れていた。
俺が声をかけるとすぐに上気し、温かく色づく彼女の頬が。
草の民に戻り、獣人本来の肉体美を備えた色白な身体も――。
すべて、無惨に壊されていた。
「この女を取り戻しに来たんだよなぁ、ケビン! 獣人の嫁と聞いてピンときた! こいつも、お前の女なんだろう! 流石は淫魔との合いの子だ! 節操がない!」
「…………カイン、お前は!」
「お前が私から、領土を奪ったというのなら! 私はお前から、愛する者を奪おう! ケビンよ、どうだ……愛した者を失う気持ちは! 絶望は!」
狂ったようなカインの哄笑はしかし、俺の心になにももたらさなかった。
ただ、ララを失った悲しみだけが、胸の中に渦巻いていた。
いや、何かがぽっかりと、俺の胸から抜け落ちてしまった。
いつも、俺に優しかった、ララ。
困っていると、すぐに察して手を差し伸べてくれる。
けっして自分だって強いわけではない。
ただの女の子なのに。
心優しく、真面目で、ひたむきな――そんな彼女が、どうしてこんな凶行に遭わねばならないのだろう。
俺には分からない。
この世に神がいるならば、なぜこのような辛い役目をララに与えたのか。
いや……。
「もう、いい」
「…………旦那さま?」
神が俺たちに味方しないなら。
運命が邪魔をするのなら。
俺たちのようなはぐれ者たちに、安息の地がないというなら。
ならば、全てを破壊してやる!
「マスター! ここで仙宝を使うのはお控えください! 中にはまだ多くの人が!」
「石兵玄武盤よ! この地のすべてを蹂躙せよ! カインの隠れ家も! 奴隷商売の拠点も! 港も! 船も! すべてすべて……悉く粉砕してみせろッ!!!!」
懐から抜いたのは黒天元帥から賜った仙宝。
地脈をたぐり、地形を変形させ、陸はおろか海さえも自在に操る、摩訶不思議な宝器。
俺の叫びに応じ、盤はただちに手の中で回転し、その力を行使した。
第六艦隊旗艦フェイルノートの船底が揺れる。
床を突き破って隆起したのは六角形の岩。
足場から突き上げられたカインは、天井を次々に突き破って外へと放り出される。
そんな無様な弟を追って、俺は破れた船倉から飛び出そうとする。
そんな俺の手を、強くセリンの手が引き留めた。
「いかないでください! 旦那さま! 貴方がなさろうとしていることは、修羅の所業です! お願いですから、どうかお心をお鎮めください!」
「すまないセリン! 愚かなことをしているということは分かっている! だが、大切なものを傷つけられて、怒れぬような男でいたくないのだ!」
俺の手の中から、こ大事なものをこれ以上奪わせてなるものか。
セリンを、ステラを、ルーシーを、ヴィクトリアを――ララのような目に遭わせてなるものか。これ以上、こんな理不尽に俺の大切な人を巻き込ませたりしない。
そのためならば、俺は人知を超える仙宝の力も借りよう。
神とも魔とも恐れられよう。
四海に悪名を轟かし、覇によってモロルドの平和を勝ち取ってみせる。
武によってこの地を災いから遠ざけよう。
愛する人々を守るために、俺は今――修羅になる覚悟を決めた。
セリンの手と瞳を振り切り、俺は船の外へと飛び出す。
「道を作れ石兵玄武盤! カイン――あの男は、百回殺してもまだたりぬ!」
歩みに合わせ海の底から現れる石柱。
それを駆け上って、暗い空に打ち上げられたカインに肉薄する。
すでに全身を強く殴打し気を失っている元領主を、さらに玄武盤が生み出した礫によってうちのめす。
海の中から射出された岩により、カインの身体がへしゃげる。
脇腹を撃たれ、腕を折り、顔の皮を裂かれる。
だが、俺の怒りは収まらない!
ララが受けた恐怖は、痛みは、悲しみは、こんなものではないのだ!
「カイン! もはや兄とは思わぬと、お前は俺に言ったな! 俺もだ! お前のような鬼畜を、一時でも弟と思ったのが間違いだった! 我が玄武盤によって死ぬがいい! 安心しろ、楽には逝かせん! 最後に兄として……人の痛みを刻み込んでやる!」
空を飛んだ石礫を集めて巨大な岩とする。
天空に現れた巨大な石柱に、一瞬だけ意識を取り戻したカインが、つんざくような悲鳴を上げた。だが、それがなんだというのか。
まるで剣の先のように、鋭く尖った石柱を――俺は、玄武盤に命じてカインへと振り下ろす。真上から飛来した大岩により、愚かな元モロルド領主は海底へと沈んだ。
だが、だが、だが、だが……ッ!!!!
「こんなものでは足りない! もっと! もっともっとだ! 俺のララを! 大切な友を! 奪った罪はこんなものでは償えない!」
再び岩を隆起させ、俺はカインを海から引き上げる。
まだ微かに息があるそれを、今度は針山のような岩礁に放り出す。
繰り出される石柱に合わせ、カインは血を吐いてその上で踊った。
「旦那さま! いけません! 玄武盤の力にのみ込まれています!」
「マスター! これ以上はいけません! マスターの弟君の命にも! マスターの精神にも影響があります!」
「コケーッ! コケッ、ココココ、コケーッ!」
『落ち着きなさいモロルド王! 玄武盤の生み出す力にのみ込まれてはいけません! 力は正しき者に御されてこそ、真の力たり得るのです! そのように、ただ周囲を傷つけるだけの暴力を振るうのは、人の上に立つべき人間がもっとも避けること!』
セリンが、ヴィクトリアが、トリストラム提督が、エムリスさまが、俺を諫める。
だが、そんな言葉になんの意味があるというのだろう。
もしも話し合いで平和が勝ち取れるなら、ララは――!!!!
「ララは! 死なずに済んだんだ! 誰も不幸にならずに済んだんだ! なら、俺はこの力を使う! 俺の力で、モロルドを守ってみせる! たとえ――覇王と呼ばれても!」
『ほう、我を差しおいて覇王を名乗るか――うぬぼれるのも大概にせよ、小僧!!!!』
その時、精海に嵐が巻き起こり暗雲が空に立ちこめた。
星の瞬きの代わりに、激しい稲光が天を覆ったかと思えば、暗い闇の中かから大きな影が鎌首をもたげる。
カインを口に咥えた海竜が、俺を赤い瞳で睨み据えていた。
それなるは、遥か東の海の果てを統べる海竜の王。
モロルドの歴代領主を苦しめた精海の覇王。
精海竜王。
「なぜここに岳父どのが! 止めてくださるな! これは我が兄弟の諍い!」
『黙れたわけが!!!!』
海どころか世界を震わせる咆哮が響く。
襲いかかる音の波に、石柱の上から俺は吹き飛ばされた。
「旦那さま!!!!」
後ろに控えていたセリンがすかさず俺に駆け寄る。
しかし、それを待っていたとばかりに、精海竜王は再び大きな咆哮を上げた。
セリンの手が俺を掴むことはなかった。
俺は為す術もなく、精海竜王のテリトリーである海底へと沈んでいった。