海の底には陸の上と違う世界が広がっていた。
精海竜王の神威に荒れ狂った空からは考えられない、穏やかで澄んだ海の世界。
色とりどりの魚たちが戯れるように泳ぎ、宝玉のような珊瑚が輝く。漂う海藻すらも美しい。そこは、陸にいる時には気がつかなかった桃源郷であった――。
こんな世界がモロルドのすぐ傍にあったとは。
しかし、なぜいまさら精海竜王は、俺をここへ誘ったのか?
「ケビンよ。これなるはワシの結界術。お主が見ているのは、幻の龍龍海峡だ」
「……精海竜王⁉」
海底へと沈む俺に合わせるように、姿を現す岳父。
最近よく見る童子の姿をとった彼は、悲しそうに眉根を寄せて俺を睨んだ。
どうしてそんな顔をするのか。
なぜ、彼は自らの結界術を発動し、こんな光景を俺に見せるのか。
岳父の意図が分からず困惑する俺の前に――。
「セリン!!!!」
俺を助けようと駆け寄った、糟糠の妻が姿を現した。
彼女も実の父と同じように悲しげにその表情を翳らせて。
なにが起こるのか、なにを言われるのか。
彼女の表情で俺は察した。
「ケビンよ。ワシはお主のことを買いかぶっておったようだ」
「……待ってください、精海竜王! 俺は、ただ、大切な人たちを守りたくて!」
「そうだ。それは王に最も大切な資質。民を想い、民に尽くす。仁徳によって政をなす。ワシはそなたの中に、確かに王道の気を感じ取り、我が娘のセリンを嫁がせた……」
しかし、と、精解竜王は苦しそうに呟いた。
彼の苦々しい台詞とともに、海中に築かれた楽土がその姿を変えていく。
隆起した岩に粉砕された珊瑚礁。
巻き上がる濁った潮流から逃げ惑う魚たち。
中には石に潰されて息絶える者もあった。
さきほど空に見た嵐のような――いや、それよりも凄惨な地獄が広がっていた。
そして、それは俺が操った『石兵玄武盤』によるものなのは明らかだった。
精解竜王が溜め息を吐く。
「我はこの地の海竜たちの王にして、この海に棲まう生き物たちの王である。そして、大地に蔓延る人間たちを相手に、覇をもって対する精海の覇王なり――」
精海竜王の結界術の中を、紫の稲光が駆け巡る。
たちまちに、俺が見ていた光景は消えて、世界は暗闇と閃光に包まれた。
その中で――恐ろしき竜の面影を称えた童子が、その鉄仮面を向ける。
冷たく輝くのは赤い瞳。
これまで受けた温情の欠片も感じられないそこに、彼の決意は表れていた。
「ならば、この精海を荒らす者とは相容れぬ。ワシは、精海の覇王という責務に従い、お主と戦わねばならぬ……! モロルド領主、ケビンよ!」
「……そんな! 我らは手を取り合って、やっていけると! そう信じて、同盟を結んだのではなかったのですか!」
「あぁ。だが、ケビンよ……お前は手にした力に溺れ、我が領域を侵した。民を苦しめ、平穏を乱し、災禍を振りまいた汝を許すことはできない」
「では! セリンは! 我が妻のセリンはどうなるのですか……!」
精海竜王の背中に侍っていた妻が、びくりとその肩をわななかせる。
どうか聞いてくれるなと俺に訴えかけるように。
我が妻はその藍染めの着物の袖で口と顔を隠す。
それでも俺の耳に彼女の嗚咽が届いた。
「セリンとは離縁してもらう」
「そんな……!」
「ケビン……いや、モロルド領主よ! やはり、人と竜はわかり合うことなどできぬ! 我ら竜と人、この地に栄えるのどちからのみ! ここに雌雄を決しようぞ!」
せめてもの情け、心を整理する時間をやろう。
そう精海竜王が呟いて背を向ける。
黒と紫の世界の中に消えて行く岳父。
そして、俺の妻――セリン。
「セリン! 行くな! 行かないでくれ! 君に見捨てられたら、俺は……!」
「旦那さま……すみません! 私ではどうすることもできないのです! 私は精海竜王の娘! そして、この龍鳴海峡の覇者の娘なのです! 最初から、貴方とともにはいられない……そういう宿命だったのです!」
「宿命だなどと! だったらなぜ、俺たちは出会ったのだ……!」
「…………あぁ、ケビンさま!」
俺の名を呼べど、その姿は霞と消えゆく。
かくして俺は妻とともに、精海竜王の加護を失った。
再び俺はモロルド家祖からの宿敵である、精海竜王と事を構えることとなった。
これは宿命か、それとも運命の悪戯か。
なんにしても、ララに続けてセリンを失った俺の心は『石兵玄武盤』によって地獄と化した、この海のように荒み果てていた。
いったい、俺はどこで間違ってしまったのか……。