ララの身は後宮の最奥にある庵に安置されていた。
精海竜王が作った妻たちの住居は北端が山に面しており、その山裾には森が広がっている。潰してしまうこともできたが――。
「まぁ、多少は自然があった方が目の保養になるであろう」
という、岳父の一声により残された。
庵はそこに元からそこにあったものだ。
過去に誰かが暮らしていた形跡はあるが、今は誰も住んでいない。
家主をなくした、寂しい住居。
今にして思うと精海竜王は、この庵を壊すのを躊躇したのかもしれない。
王としての心情を吐露された今となっては、彼がその力を振るうのを躊躇した――その心根をなんとなく察することができた。
ふと、庵の手前で、ヴィクトリアが足を止める。
その視線の先には――。
「…………ケビン……さま」
「ホオズキ」
黒装束を脱ぎ去り、野良着姿になった、黒猫の獣人がいた。
彼女は庵の周辺に生えた草を摘んでいる。
おそらく、薬草なのだろう。
「ホオズキさまは、ララさまがをずっと看病をされていらっしゃいます」
「……そうか、すまないホオズキ。お前には苦労ばかりかけるな」
「礼などおよびません。それより、ララ姉さまを見舞ってあげてください。ケビンさまがお見舞いに来られたとなれば。もしかすると目を覚ますかもしれません」
そう口にしながら、薬草を握りしめる手に力が籠もっているのがわかった。
うつむき悔しそうに唇を噛みしめる彼女に、ララの容態が察せられる。
かろうじて一命は取り留めたが――。
「マスター。病み上がりなのですから、外にいては身体を冷やします。庵の中へ」
「……そうだな」
俺を気遣うように、ヴィクトリアが言う。
素直に仙宝娘のすすめに従い庵の中に入った。
ホオズキが片付けてくれたのだろう。
山中に捨てられていたとは思えぬほど庵の中は綺麗だった。
茶色い土間の向こうには板張りの床がある。そこに筵を敷き、さらに布団を敷き、ララの身体は安置されていた。
その胸が呼吸に合わせ微かに上下する。
それだけで嬉しくて、俺は駆け出しそうになった。
「ララ!」
「いけません、マスター。まだ、ララさまは意識を取り戻しておりません」
「けど、そこにララが……!」
仙宝娘の咎めるような視線にすぐ冷静になる。
落ち着きを取り戻した俺に、そっとヴィクトリアはその手を伸ばした。
冷たい――まるで金属にでも触れているような手を握りしめ、俺はララが横臥する布団の隣へと移動した。
見た限り身体の治療は完了しているようだった。
あれだけ大きな怪我をしたはずなのに、彼女の身体にそれらしい損傷は見られない。
暗い船倉の中だ、見間違えたのか?
いや、あの血の臭いとララの息づかいは、けして見間違えなどではない。
ならばいったい……。
「マスターは疑問に思っておられますね。なぜ、ララさまが命を取り留めたのかを?」
「あぁ。たしかにララは死んだと思った。だからこそ、俺もあれほど激昂したんだ」
「ひとつは、ホオズキの献身によるものです」
あの後、俺たちに遅れて船倉に突入したホオズキは、すぐにララの治療に当たった。
俺がカインを嬲っている後ろで、彼女はララにまだ息があることに気づき、その命を繋ぐ術に全力を費やしたのだ。
怒りにまかせて前後不覚となった俺とは大違いだ。
自己嫌悪に陥る俺の横で、ヴィクトリアがさらに淡々と続ける。
「もうひとつは、精海竜王さまのおかげです」
「精海竜王が?」
「はい。旦那さまを止めにかかる前に、精海竜王さまはララさまに気がつかれ、すぐにその生気を分けてくださいました。もっとも……強大な竜の気は人の身に余ります。今、彼女が意識を失っているのは、精海竜王さまに注がれた気のせいです」
俺だけではなく、ララまで救ったのか、精海竜王は。
ますますと、偉大なる王の背中に胸が痛む。
そしてきっと、これが彼なりの俺への手向けなのだろう。縁を切り、敵として相対するかつての娘婿に、最後の義理を果たしてくれたのだ。
「精海竜王……!」
偉大なる男の名を呟いたまさにその時、ララの唇が動き、うめき声が漏れた。
それからほどなくして――。
「ケ、ケビン……?」
「…………ララ!」
彼女は目を瞑りながら、俺の名前を呼んだ。
ララは、俺の訪問と時を同じくして、その意識を取り戻した。