洞窟からは生き物の気配が感じられなかった。
どころか、異様なほどに静か。
普通、この手の海沿いの洞窟には水棲系のモンスターが棲んでいておかしくない。
なのにそんな気配が微塵もしない。
代わりに鼻を抜ける、どこか甘ったるい匂い――。
「なんだこの妙に鼻につく匂いは?」
「腐敗臭とも違うし、海辺の花の匂いとも違う……これは、私も嗅いだことがないですね。ヴィクトリアは、なにかご存じではありませんか?」
「……いえ、嗅いだことはありません。ただ、成分は分析できます」
「「成分???」」
「ええと、匂いがなにから構成されているのか……と、説明すればいいでしょうか?」
なるほど。
たしかに、料理などもいろいろな要素で味や匂いが変わる。
洞窟に蔓延している匂いもまた、なにかしらの理由があってこうなったのだろう。
俺とセリンが見守る前で、ヴィクトリアが洞窟の天井を見上げる。
まさしく、ヴィクトリアが洞窟内に蔓延する匂いの成分を解析しようとしたとき――彼女の頭部を「でろり」とした何かが包み込んだ。
ぶよぶよとして透明なそれは、文献で読んだことがある。
「ヴィクトリア! スライムだ! すぐに離れろ!」
「えぇい、面妖な魔物め! ヴィクトリアから離れなさい!」
ヴィクトリアの顔に落下してきたのはスライム。
不定形の魔物で、その生態や構造など、多くが謎のモンスターだ。
洞窟や湿地に棲息し、迷い込んだ生命体を包み込み、溶解して食べてしまう。
今もまた、ヴィクトリアの仙宝でできた身体を、溶解しようとして――。
「ヴィクトリア! レーザー・アイ!」
「「なんか眩しいの出た!!!!」」
彼女の瞳から発せられた赤い熱光線によって、あえなく返り討ちになった。
電撃を放とうと身構えたセリンも、石兵玄武盤を発動させようとした俺も、とんだ肩透かしである。
というか、よく考えたら人間ではないヴィクトリアを溶解できるはずないか。
スライムもそれほど強い魔物ではないからなぁ。
「ぴきゅきゅぅ~~~~♪」
「ふっ! この程度の攻撃で音をあげるとは他愛もない!」
「…………ん? スライムが鳴いた?」
「え、スライムって鳴かないものなんですか?」
隣に立っていたセリンが聞き返してくる。
まぁ、俺もスライムに遭遇するのはこれがはじめてだ。完全にイメージだが……文献に出てくるスライムはヘドロのような見た目をしている。
それでいて、洞窟などの天井にへばりつき、人が通ると落ちてくる。
まったくもって動物的ではない、無機質なスライムが鳴くというのは考えにくい。
もしかして、スライムではないのか?
ヴィクトリアが弾き飛ばした、謎の魔物が転がって行った方を見ると――。
「ぴきゅう♪ ぴきゅぴきゅっ♪ ぴきゅきゅぅ♪」
青色をした人の頭ほどの水饅頭が、ぽよぽよとその場で跳ねていた。
なんだかやけに楽しげに。
「あら、あらあら~♪ これがスライムですか、旦那さま~♪ 随分と愛らしい生命体なんですねぇ~♪」
苛烈なようでいて、普通に乙女なセリンが、ころりとスライムの愛らしさにやられる。
かくいう俺も、文献とは似ても似つかない姿に肝を抜かれた。
これは、文献が間違っているのか?
それとも東洋のスライムは、こんな風に愛らしく育つのか?
悩む俺の横に、ヴィクトリアが戻ってくる。彼女は赤い怪光線を発した瞳をしばたたかせると「ふむ」と、なにやらごちるように頷くのだった。
「なるほど、無機生物――アメーバが肥大化したのがスライムということのようですね」
「アメーバ? なんだそれは?」
「おっと、これは秘匿事項。人類にはまだはやすぎる情報でしたか。しかし、それにしては明らかな知性を感じる。これはもしかしなくても、突然変異種かもしれません」
「突然変異種?」
「おっとこれもまた、人類にははやい情報でした! マスター! 私の発言を今すぐ忘れてください! ほら、セリンさんも、こちらを見て! 記憶抹消フラッシュ!」
ビガビガとヴィクトリアがその瞳を光らせる。
いつも思うんだが、彼女の身体はどういう仕組みなのだろう。
そして、忘れるもなにも、なにを言っているかさっぱりわからない。
赤い光を訳も分からないまま浴びせられる俺たち。
すると、水色をした水風船のようなスライムが、ぽよんぽよんと洞窟の奥の方へと跳ねていってしまった。
あぁ、まんまと逃げられてしまった。
などと思った傍から――。
「ぽよん♪ ぽよよん♪ ぽよん♪」
「ぽよぽよ♪ ぽよん♪ ぽよぽよよん♪」
「ぽよん♪ ぽよん♪ ぽよん♪」
なんだか、去ったスライムの数と合致しない、無数の足音ならぬ跳ねる音が聞こえてきた。ヴィクトリアが、自慢のヴィクトリア・アイで洞窟の中を照らせば――。
「「「「ぽよん! ぽよん! ぽよよん!」」」」
「「「うっ、うわぁああああああ!!!!」」」
そこには色とりどりの水風船が、群れを成して集まっていた。