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第十三章 凍える剣先

第85話 旧都、血に染まる

 モロルド旧都。


 セイレーンたちの手によっていまや東洋に名の轟く歓楽街となったそこには、今日も多くの男性旅行客が訪れる。


 彼らの目当ては見目麗しき有翼の乙女たち。

 そんじょそこいらの港町では、けして抱けない極上の女たち。


 歴代のモロルド伯により、長い年月をかけ洗練されたセイレーンは、話してよし、眺めてよし、抱いてよしの華であった。


 もっとも、セイレーンたちはもう奴隷ではない。

 彼女たちは自分たちの自由意志で、どこまで男たちの欲望につき合うかを決めていた。


 燕鴎四姉妹がよい例だ。


 長女アフロディーテは、旧都の女王――最上級の高級娼婦として、男たちの相手をしながら、時に彼らを自分から抱く。


 次女マーキュリーは、色事が苦手なセイレーンたちをまとめあげ、旧都から新都までの運び屋という仕事に携わっている。

 道中、男性たちを話術で楽しませるのが、彼女の新たな仕事だ。


 最後に、三女ダイアナは、男女の別なく旧都の観光案内を行っている。

 これはもう完全に風俗とは関係ない。


 セイレーンたちは古くからのしがらみから解放され、自分たちの意思で生き方を決めた。そんな彼女たちのおかげでモロルド旧都は大きく栄え、再び東洋の歓楽の街としてその存在感を取り戻した。


 そんな色街に――。


「ぎ、ぎゃあああああああああッ!!!!」


 ここ数日、夜闇に紛れて男の断末魔が響くようになった。


◇ ◇ ◇ ◇


 その男は植民地よりゴム素材を運ぶ水夫だった。


 歳は三十の前半。

 本国で、ささいな口論から女房を殴り殺し、身を隠すために東洋行きの船に乗った。

 水夫としての経験は浅く、自分より年下の先輩水夫に、顎で使われる日々を送ってきた彼は、たまたま寄港したモロルドで鬱憤のはけ口を探していた。


 しかし――。


「くそっ! どいつもこいつも、入店お断りだと! お高くとまりやがって!」


 男の凶暴さを見抜いたセイレーンたちは彼の入店を拒否した。

 娼館も、キャバレーも、ただの酒場も、彼を客としては扱わない。

 匂い立つ危険を男は隠しきれていなかった。


 この男の相手をすれば、無茶苦茶な目に遭う。


 アフロディーテから店を任されたセイレーンたちは、そんな第六感に従って力尽くで男を店から排除した。酒場などは、奥から料理人――気の良い、料理自慢のオーク――が飛び出してきたほどだ。


 これだけ手ひどいあしらいを受ければ普通は諦めるが、男の性根は腐っていた。


 なんとしても女を抱く。

 そんな妄念に取り憑かれ、彼はモロルド旧都の裏路地へと入り込んだ……。


 アフロディーテが仕切る歓楽の街。

 とはいえ、広大な街の隅々まで彼女の目が行き届いている訳ではない。

 そして、闇の住人たちを追い出すことが、けっして幸せな結末を招くものではないことも、優秀な女代官は理解していた。


 路地裏には表通りで働けない夜鷹がたむろしている。

 目抜き通りを歩く男たち。その欲望が店で収まらぬとみるや、彼女たちはそっと彼らに近づき、満たせぬ欲求を吐き出さないかと耳元で囁くのだ。


 とはいえ、夜鷹も人を選ぶ。

 いや、夜鷹だからこそ男を見る。


 なにせ、彼女たちはもう崖っぷちなのだ。

 自分の身体という唯一の商売道具を失っては生きていけない。それだけに、万に一つも乱暴を働きそうな男に声をかけるものなどいない。

 あえて危険な男に声をかけてくるのは――。


「お兄さん、クスリ。クスリをめぐんでおくれよぉ」


「酒ぇ、お酒ぇ……なんでもうないのぉ!」


「あひっ、あひひっ! ねえ、抱いてよぉ! 私、寂しくて死んじゃいそう!」


 それなりの事情を持った者たちだ。


 いくら女に飢えていると言っても、普通の神経をしている男なら性欲を催すことはない。憲兵に突き出すなり、教会に保護を頼むだろう。

 あるいは、そこにいていないものとして扱う。


 しかし、この男のように――抜き差しならない欲望と、不満を抱えた男にとってはどうでもいい。女を抱ければそれでいいという考えに取り憑かれ、前後不覚に陥った男には、どれが使い勝手が良さそうかという、ただそれだけが重要だった。


 ボロ雑巾のように路傍に捨て置いて問題ないか。

 姿を消しても誰も気に留めないか。

 あるいは、冷たくなって道に横たわっていても、不自然でないか。


 それでいて、抱き心地の良さや見目の良さまで求めるのだ。


 救いがたい話である――。


「もし、そこなお兄さん。よかったら、わっちを買ってくりんす」


 どこか崩れた東洋の言葉に、男が足を止める。

 港湾に続く細い路地。酒場と酒場の狭間にある隘路で、その女は白無垢のような着物を身にまとって、口に絹の布を咥えていた。


 目深く被った頭巾から、その容貌はうかがい知れないが――。


「ほう、こんな場所にもいるものだな、極上の女が」


 白く澄んだ頬に、青い口紅を引いた口元だけでも、美形と言って差し支えなかった。


「ここはハーピーが差配する街でありんす。わっちのような流れ者には、店で客も取らしてもらはりません。どうか、哀れな女にお恵みを……」


 その言葉が、白々しい嘘だと男は知っていた。

 ハーピーが支配人を務める娼館では、普通に獣人や人型の妖魔が客を取っている。


 彼女が店で働けないのには理由がある。


 だが、するりとその着物袖から出た、細く白い腕に魅了されて――男は生唾と共に、理性と知性を胃の奥にのみ込んでしまった。

 気圧される男に妖しく微笑み、女はしゅるりと彼に抱きつく。


 そして、多くの夜鷹がそうするように――。


「さあ、はよ温めておくんなまし。わっちのことを慰めておくれやす」


 男の劣情に火を付ける言葉を耳朶に吹きかけた。


 かくして、男は女と闇の中へと消えた。

 そしてしばらく――。


「ぎゃああああああああああッ!!!!」


 歓楽に溺れる声音とはほど遠い、きたならしい断末魔がモロルド旧都の夜空に昇った。

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