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第91話 雪女、異邦より来たる

 雪女の名は「氷雨」と言った。

 ただの妖魔になぜ名があるのかといえば、愛した男が彼女に残したものだからだ。


 東洋の島国にある大きな色街。

 モロルドと違い政府の黙認によって構築されたそこには、国のあちこちから器量のよい娘たちが売られてきては、芸と遊戯と話と春を売っていた。


 氷雨もまたそんな娘の一人であった。

 ただし、彼女は生来の雪女である。山を降りたところを、人買いにより掠われた幼い彼女は、わけもわからぬまま色街の娘となり、禿として街一番の太夫に躾けられた。


 太夫には得意の旦那がいた。


 色街に反物を卸す大店の若主人で、少し頼りないが温厚な男だった。

 彼女とは禿の頃からの付き合いで、水揚げはもちろんお披露目の世話まであくせくとした。ゆくゆくは太夫を身請けすることを、大店の旦那も遊郭の主人も承知していた。


 雪女はその若旦那に抱かれた。

 そして、たった一度、褥を共にしただけで、彼の心を太夫から奪った。


 太夫は、愛想が悪く覚えも悪い、それでいてどこか不気味な禿の初物を、信頼できる男に託したはずだった。しかし、気がつけば彼女は見捨てられ、彼女が手にするはずだった全てを、なんとも思っていなかった新造に奪われてしまった。


 一年後、雪女は店の太夫の座に納まった。

 彼女の前に太夫だった遊女は、お披露目の際に若旦那からもらった帯を、遊郭の梁にくくりつけ、首を吊って死んだ。


 寒い夜のことだった。

 色街ではよくある話であった。


 さて、雪女はお披露目と共に、若旦那に「氷雨」の名をもらった。

 雪のように白い肌と、どこか憂いを帯びたその立ち居振る舞いを「まるで春に降る雪のようだ」と、若旦那はたとえて褒めそやした。


 おいそれと感情を見せぬ雪女は、この名をもらった時だけはその白い頬を赤く染め、目の端を軽く垂らして頷いてみせた。


 若旦那が死んだのは、氷雨が太夫になって五年目のことだった。


 凍死だった。

 真夏の夜、彼は遊郭の布団で冷たくなって死んでいた。


 隣で寝ていた氷雨は、肌を重ねて眠る愛しい男が、冷たくなっていくのに気がつかなかった。いや、むしろ――それに心地よささえ感じていた。

 朝、目覚めと共に、愛した人の苦悶の死に顔を目にした彼女は、こう思った。


「あぁ、これでこの人は、私のもの」


 若旦那の変死を大店の者たちはいぶかしんだ。

 しかし、証拠がなかった。


 島国の医者は、彼が雪女と同衾したなどと思うはずもなく、疲労による突然死だと結論づけた。遊郭も店の華である太夫を無碍にもできず、また、若旦那の代わりに、すぐにお得意が見つかったこともあり、雪女のことを庇った。


 そして、二度目の悲劇が起こった。


 若旦那の代わりに雪女の得意となった男――色街に近い港を差配している、貿易商の老爺もまた、彼女と眠った翌日に心臓発作を起こしてこの世を去った。


 三人目の被害者が出るのははやかった。

 色街で置き引きをしていた悪ガキを、荒縄で縛って雪女と一緒の布団に寝かせたのだ。少年は、一度も寝たこともない厚く温かで柔らかい布団の上で、吹雪の中で凍え死んだようにような苦悶の表情で絶命した。


 色街の人間が雪女の正体に気がついた朝であった。


 すぐさま、彼らは雪女を捕まえようとした。

 しかし、己の性と本質を自覚した妖魔を、捕らえられる者は島国にはいない。


 雪女は、遊郭の主人を口づけにより凍てつかせて殺し、自分についていた新造たちの臓腑を氷の刃でかき回した。最後の仕上げに、客の取れなくなったやり手ばばあたちを氷の彫像に変え、つむじ風のように遊郭から姿を消した。


 島国で「氷雨」の姿を見た者はそれ以来いない。


「どこにいはるんかしらん。わっちの愛しい愛しい、あなたさまは……」


 雪女の性――愛した男を殺さずにはいられない――に従って、彼女は世界を彷徨った。

 島国を出て大陸に渡り、さらに船を乗り継いで、南へ南へと。


 そして現地の色街で、男たちを愛でては、その胸の中で冷たくしていった。

 朝起きると必ず冷たくなっている、男たちの姿がさらに彼女の本能を強化していった。こうすることが自分にとっての幸せで、男にとっての幸せであると。


 かくして、男殺し――雪女「氷雨」は完成した。


◇ ◇ ◇ ◇


 旧都の路地裏。

 ケビンたちの手を逃れた雪女は、街を流れる暗渠の入り口に身を隠すと、ほうとため息をついた。その吐息が、前を流れる川を凍らせたのを確認すると、彼女は怪しくほくそ笑んで下駄を鳴らして凍った水面を対岸へと渡った。


「あぁ、あのお兄さん。わっちがこれまで愛した人の、どれとも違う目をしてありんす。一人の女に溺れない。多くの女を同時に愛することができる。アレは、そういう男の目どす。あぁ、面白いなぁ、こんな僻地でそんな人と出会えるなんて」


 川を渡りきった氷雨が、カンと下駄の底を鳴らす。

 凍った水面はたちまち砕け、氷は川の流れに任せて消えていった。


 暗渠の対岸――路地裏よりも暗く、光の届かないそこで雪女が唇をなぞる。

 まるでその冷たさをたしかめるように。


「ここで出会うたんは運命やろか。うん、きっとそうに違いありまへん。あぁ、はよわっちのものにしてしまいたい。その移り気な瞳を、私だけに向けさせたい……♥」


 肩を抱いて身を震わせる雪女。

 最後に小さく、領主の名前――「ケビン」と呟くと、彼女は下駄を鳴らしてモロルドの暗渠をさらに奥へと進もうとした。


「待て、今、ケビンと言ったか?」


「おや、こんな所にも男の匂いが……?」


 しかし、かつりかつりと氷を割るような足音を、よく通る男の声が上書きした。


「その男、俺の獲物だ。勝手な手出しはやめてもらおう……!」


「はて、アンタさんはいったい?」


 かび臭い暗渠の中、ひと目と光を避けるように出て来たのは、輝かしい黄金の髪をした美丈夫。そして、雪女の恋い焦がれる男と面影こそ似ているが、決定的な何かが致命的に違っている――そんな感じの男だった。


 はたして彼は、まとったボロをはらりと脱ぐと、雪女の前で胸を張った。



「我こそは、このモロルドの真なる支配者! 領主、カイン・モロルドだ!」

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