「……な……」
ユウタの剣を受け止めたのは、『女』だった。
真っ白な頬に一文字の傷がついて、つ、と赤が滲む。滑らかな肌を伝う雫をそのままに、刃を受けた女はにっこりと笑う。
突如として目の前に現れた女は、背筋が凍るほどの美しさだった。ユウタは言葉を失い、そして動けなくなる。
「待たせたな」
女は一言、そう言った。
己の左側から来た剣の切っ先を右の手のひらで止めて、握りこむ。柔肌に、刃が食い込んでいた。とめどなく溢れてくる血を拭うでもなく、その女はユウタを冷めきった瞳でまっすぐに見つめて、艶やかな唇を微笑みの形にしたまま剣を押し戻した。
(なんだ、この女、誰だ……)
ユウタはあれだけの力で斬りかかったのにいとも簡単に片手でその剣を受け止められ、あまつさえ涼しい顔で押し戻されたことに驚いて声も出せない。それよりなにより、この女が『美しい』ことも問題だった。セルジュはアドラの回復をしながらユウタと女の様子を横目で見遣り、鼻で笑う。
(……こんな時でも美女にはかかっていけない、か)
雑魚が。
吐き捨てるように小声で言うと、それを聞き逃さなかったアドラも弱弱しく笑った。
セルジュは声を潜め、問う。
「あんたに笑う余裕があるってことは、あいつは……」
「そう、あたしらの味方だよ」
――あれは、『魔王様』その方だ。
アドラの答えに、セルジュは驚くでもなく「ふうん」と頷いた。
ユウタはと言うと、見惚れるほど美しい輝きを放つルビーの瞳に捕らわれたように、動きを止めている。
「どうした? もう、よいのか?」
女は手のひらから流れる血を払うと、その手を頬にかざす。すると、見る間に頬の傷も裂けた手のひらも元通りになっていた。
「あなた、は……」
ユウタには、魔王の角が目に入らないのだろうか。ただ、暴力的なまでの美しさに呆けているだけ。それを見て魔王は低く笑った。
「……全く、宿敵を前にそれでいいのか? 『アロガンツィアの勇者』よ」
「え……」
勇者は、魔王の顔を知らない。――否、人間たちは、魔王の顔を知らない。
当然、目の前にいるこの女が魔王であるということも知る由がないのである。
女の冷たい指先が、ユウタの顎をすくいあげた。
「噂通りの色狂い、我儘三昧だったわけだな、愚者よ」
「な、何を……」
「旅の仲間は女でかため、好き勝手にアロガンツィアの金を使って各地で豪遊。魔物が村を襲った? よくもまあ、でっちあげたものだ」
それでも目を白黒させたままのユウタを憐れむように笑うと、魔王は言った。
「冥途の土産に我の名を教えてやろう。我が名はフィニス。魔族を統べる王である」
ごう、と一際強く風が吹いた。波打つ美しい黒髪が、魔王の表情を一瞬隠す。突風に目を閉じたユウタが再び目を開いたとき、そこに立っていたのは男だった。
先刻の女の姿をとっていたフィニスと同じ深紅の瞳。すっと通った鼻筋も同じ。豊かな胸元は男性のがっしりとしたそれに、纏うドレスは黒に金の刺繍を施したフロックコートに変わっていた。左肩にかけた毛皮のマントはしっとりと重々しかったが、彼が纏うオーラはそれ以上に重厚なものであった。
「我を滅ぼしにきたのであろう? 勇者よ」
男は、魔王フィニスは優しく微笑む。その声は柔らかく、そして冷たかった。圧倒的な強者であることくらいは伝わったようで、ユウタは震えを抑えて答えた。
「き、貴様がこの世界を混乱に陥れた魔王か!」
「そうだ、と言っておろう。貴様の耳は飾りか?」
混乱に陥れた、というのは違うと思うがな、と笑い、鼻先が触れてしまうのではないかというほどに顔を近づけると、フィニスは小首を傾げ、ユウタの耳を指先でピン、と弾いた。
「真っ赤にして。寒さ故ではなさそうだな」
くす、と笑ったフィニスの長い黒髪がさらりと頬に落ちる。女の姿を取っていた時と打って変わってまっすぐに降りる髪は、まるで夜の色をうつしたカーテンの様だった。
侮られたことに腹を立てたユウタが、フィニスの手を振り払う。
そして、後ろへ一つステップを踏むと剣の切っ先を彼へと向けた。
「魔王とあらば、討ち取るまで、覚悟!」
ユウタの後方では足をツタに絡めとられてその場から動けずにいるロベリアがまだ自由の利く左手を掲げ、詠唱を始める。ジェイクは、というと、ライルハルトの右足で地面に臥せる形で拘束され、呻いていた。
「ライル、潰してはなりませんよ」
こんな時でも、ヒルデガルトは人間の命を奪わないように、と弟に願う。
「承知しております、姉上。それが魔王様の教えにございますから」
「へ……?」
てっきり自分は踏みつぶされるか食い殺されるとおもっていたジェイクは、首をそろりと捻って自分を捩じ伏せているライルハルトを見上げる。
「どういう……」
「私たち魔族は基本的に殺生は好まん。そういうことだ」
簡潔に答えると、ライルハルトはジェイクの顔をじっと見つめ、小さくため息をついた。
「……やはり、魔族について人々は誤解しているのだな」
「誤解? 何言ってんだ、あんた……」
アロガンツィア領の田舎町で生まれ育ったジェイクは、生まれた時から魔族は悪と刷り込まれて生きてきた。平気な顔で人間を殺し、喰らい、村を、街を破壊し蹂躙する。けだものとは魔族のこと、と聞かされてきた。それが、殺生は好まないなどと、魔族の代表格ともいえるようなドラゴンが口にしたのだ。
(嘘だ……俺たちを油断させ、騙すための……)
「殺生を好まないだと? 俺がガキの頃トゥーヴ村は、魔族に火をつけられて、村人が……!」
半分以上殺されたんだ、と言いかけたところで、ライルハルトの鋭い視線にびくりと口を噤んだ。
「では問う。……見たのか?」
「え」
「お前は『魔族』が、『火をつけるところ』を、実際に見たのか?」
――あの夜は、村が真っ赤になった。ジェイクは子供の頃を思い出す。小さな川を挟んで向こうの民家はすべて灰になった。逃げ惑い、消火活動に追われ、全てが終わったときに王国側からの報告で『魔族による襲撃』と知った。それだけ。
誰が犯人だったか、その目で見たわけではなかったのだ。
「……」
人は、己の価値観をひっくり返されるようなことを言われると防衛機能としてそれを『嘘』や『陰謀』として流そうとする。それも知っていて、ライルハルトはジェイクの反応にまたため息を零した。
「良い、信じられないのであれば、己が生きていることをその証明として故郷へ帰るがいい」
まるで、この後すぐに解放してくれるかのような口ぶり。
ジェイクは死を覚悟していただけに、ライルハルトの言葉にぽかんと呆けてしまった。
「イサミさん……」
やっと抱きしめる腕を解いた勇の胸元で、マルタンはぴょこりと顔を上げた。
「あっ、ごめん苦しかった?」
「……少し」
苦笑いをして、マルタンは自分から勇に抱き着く。
「ありがとう、でも、自分を盾にするなんてダメだよ」
「勝手に体が動いちゃって」
勇から離れると、マルタンはユウタと魔王のやり取りの方へ視線を向ける。
「……あのお方が、魔王様なんだね」
「うん。魔王様は様々な姿をとられるけど、魔族にはそのオーラで『魔王様』ってはっきりわかる」
間違いなくあのお方は魔王様だよ、と続けたマルタンに、勇は頷いた。
「加勢しなくていいのかな」
「……お命じになるまではマルたちは何もしちゃいけないのがルール。魔王様はご自分がお強いとわかっているから、敵と対峙するときは一対一が礼儀って仰るんだ」
勇はロベリアの方へ視線を移した。
「……既に一対二になってるけど……」
「それでも、魔王様が行けと言わなければ同じ空間にいる魔族は敵に攻撃を仕掛けてはならない。そう、教えられてきたの」
バリアや回復魔法ならば許可されているが、先手を打っての攻撃や援護射撃は許されていない、という。
(本当に魔王様は、自分から仕掛ける気はないんだ……)