「?……!?」
頬を強く張られたユウタは、何が起きたのかわかっていないような顔をして、打たれた場所を抑える。じんじんと痛むが、歯が抜けたり折れたりはしていなかった。
手加減されている。
「これだけ己の軸を持たないものであれば、王もさぞ扱いやすかったであろうな。もうよい、貴様には何を言っても無駄とわかった」
魔王はひゅっと右手を上げる。
地にへたり込んだままのユウタは、悲鳴を上げた。さすがの彼でも、命の危機を理解したのだろう。
「魔王様!」
しかし、飛び込んできた声はロベリアでも、ネージュでも、ジェイクでもなかった。
ユウタからすれば、忌々しき魔族のマルタンだったのだ。
マルタンが何を言おうとしているのか即座に理解した魔王は、マルタンの方へ視線をやり、そして優しく頷いた。
「アロガンツィアの勇者よ。貴様は敵と思い込んでいる者に命を救われたぞ」
「なっ……」
わなわなと震えているユウタに、魔王は笑いをこらえるように続けた。
「そして、貴様が仲間だと思い込んでいた者たちは先ほどの状況にあって、お前の名を呼ぶことも、我への妨害もしなかった。……これが、どういうことかわかるな?」
「そん、な、みんな……どうして……」
どうしてもこうしてもないだろう。本当の意味でユウタを仲間だと思っていた者など、一人もいなかった、ということだ。無理もない。勇者という肩書を振りかざして好き放題してきた男に、誰が本気で仕えるだろうか。
目を逸らしたロベリアを見て、魔王はなるほど、と思った。
次の瞬間、ユウタの首根っこを巨大な手がひょい、とつまみ上げる。
「う、わ、何をする!!」
「ひとりひとり聞いてみようではないか、なあ? 理由が知りたいのだろう?」
魔法で生成したユウタの顔よりも大きな手。それが、ユウタを子猫を運ぶ母猫よろしく運んでロベリアの眼前に突きつける。
ロベリアは何かを諦めたような顔で、ユウタではなく魔王の方を見た。
「ロ、ロベリア……?」
ロベリアに、骨折していない左手の方を差し出すと、ロベリアはそれを拘束されていない左手で弾いた。パシン、と乾いた悲しい音が響く。ユウタはまさか彼女が自分の手を払うなんて思っていなかったのだろう、泣きそうな顔でロベリアを見つめる。
「触らないで」
「どうして……」
「私は、あなたに惹かれて仲間に入ったんじゃないわ。すべては家のため。弟のためよ! 腕に覚えのある者は志願せよというお触れに、父が食いついたのよ!!」
まくし立てるように言うと、ロベリアはふいとそっぽを向いて続ける。
「……私に魅了のスキルが効くと思ってたのなら残念でした! 呪術師よ? 見くびってもらっちゃ困るわ。あなたの言うことを聞いているふりをしていた方が都合が良かったからそうしていただけ」
愕然としているユウタを更に追い詰めるように吐き捨てたロベリアを見て、魔王は苦笑いを浮かべる。
「何もそこまで……」
「魔王さんもどっちの味方なのよ、あなたの首を取ろうとした人間なんて、私も含めてさっさと殺せば?」
もはや自暴自棄に陥っているロベリアをなだめるように魔王は言う。
「いいや、我は元から殺すつもりなんぞない。して、ロベリア嬢、そなたはこれからどうしたい?」
は? とロベリアは聞き返す。
「どうしたいか、と」
「……帰りたい」
「ほう」
「でも、野心家の父が私の帰りを許すと思う? だったらここで死んだほうがマシだわ」
うーん、と腕を組んで魔王は唸り、そしてにや、と笑った。
「……ならば尚更死んでもらうわけにはいかんな、そなたには生き恥を晒してもらわねば割に合わん」
ロベリアは苦笑いしかできなかった。
「……あなた、趣味が悪いのね」
「煽っても無駄だぞ、殺さんといったら殺さん」
ちっ、と舌を打つロベリアを見て、魔王は声を立てて笑った。
「そうかそうか、それがそなたの本性か」
「そうよ、私は男爵令嬢っていっても、成り上がりの田舎娘よ」
「うむ、わかった」
二人のやり取りをどこか遠くに聞いているユウタは、信じられないというような顔でロベリアをもう一度見る。
「こっち見ないでよ、気持ち悪い」
その視線に、ロベリアはきつい眼差しを返した。マゼンタの瞳の奥は、すっかり凍てついている。
「ははは、振られてしまったな、勇者よ」
「……」
威勢の良かったユウタがしゅんとしているのをみて、マルタンはちょっとだけ可哀想な気持ちになった。その横で、アドラは「ざまーみろ」と思っていた。
「さて、そこで震えている猟師にも聞いてみるか」
魔王はまたユウタをひょいとつまんで今度はジェイクの目の前に落とす。
「うあっ」
どしゃ、と地面に滑り込むようにしてユウタはジェイクと目を合わせた。
「……」
「ジェイク、お、お前は僕の事」
ジェイクは黙って首をぷるぷる横に振っている。
「……え?」
「もう、もうやめましょう帰りましょう敵う相手じゃねえですこんな……」
「ジェイク!? 何を言って……僕たちは選ばれしアロガンツィアの……」
「何が選ばれしですかい! さっきから全然歯が立たねえじゃねえですか、それに、誰なんです、もうここへ攻め込んでも良いという判断をしたのは!!」
黒龍の足に拘束されながら、恐怖に震える声でジェイクは叫ぶ。魔王は彼にはもはや戦意は残っていないと判断し、ライルハルトへ命じた。
「……ライルハルト、放してやれ」
「はい」
重く美しいその足を、爪を、ライルハルトはゆるりと持ち上げる。すると、そこから這い出たジェイクは魔王とライルハルトとを交互に見た。魔王は優しく語り掛ける。
「戦うつもりはないのであろう? その剣も、護身用にもっていて良い。……自我を失っている同胞が残っていて、暴れていないとも言い切れんからな」
そういった魔物の弔いはだいぶ済ませてきたはずなんだがな、といった魔王に、ユウタは何のことだと言わんばかりの視線を向ける。
「……貴様が世界を汚したせいで、自我を失う魔物や野生動物が急増した時期があってな、それをすべて、我とその配下で始末して歩いていたのよ。さらなる被害を生まないためにな」
「は……?」
「あとは王国の手の者が罪のない魔族を殺し、その亡骸を放置して歩いていたようでなあ。そうすると、亡骸は自我のないバケモノに墜ちる。それが暴れているのを、貴様らアロガンツィアの者たちは『魔物の襲撃』と称していたのさ」
自我を保っている者たちは魔王たる我の命に従い、むやみに他者を傷つけるようなことはしないからな、といって、魔王はジェイクの顔をのぞき込む。
「さあ、どうする? 我に牙を剥くか、どこへなりと去るか」
ジェイクの答えは一つだった。
「逃がしてくれるのか」
「ああ、我に二言はない」
もし逃げ延びたならその暁には『魔王は嘘をつかない』と、生き証人になっておくれ、などといって魔王は笑う。ジェイクはその声を背中に聞きながら、走り去ってしまった。その背を、ユウタは呆然と見送る。
「あっはは、行ってしまったなあ」
朗らかに笑っている魔王を見て、メリアはちょっと『悪い』なあ、なんて思ってしまった。どんどんユウタはしおしおになっていく。
ユウタはすがるような目で、一縷の望みであるネージュへ視線を移す。
ネージュは聖女のような柔らかな微笑みさえ浮かべて、そこにいた。
「次はその者にも聞いてみようか」
魔王は同じくユウタの襟首をつまむと、ネージュの目の前に突き出す。
「ああ、ネージュ、……君だけは」
ユウタの青い瞳が潤んでいる。金の髪は汗で額に張りつき、その姿に勇敢なる青年の影はもうない。それでもなお、美青年の体はなんとか保っていた。
脂汗が浮かんでいようとも美しいその顔、その陶器の肌に、ネージュの白魚のような手の指先が触れる。
「ユウタさん」
ユウタを宥めるとき、褒めるとき、――堕とすとき、ネージュは甘露の声でこう呼ぶ。敢えて「勇者様」や「ユウタ様」ではなく、少し砕けた言い方で、溶かすように。
それを、魔王は黙って見ていた。
「君だけは……」
眼前にあるユウタの顔、その両の頬にネージュは己の手を添わせ、視線を合わせ、そして場違いなほどに甘く微笑んだ。