ネージュのとろけるような微笑みに、ユウタは救いの光を見てほっと顔を緩ませる。
次の瞬間だった。
「良い夢は見られたかよ?」
唇が触れてしまいそうな距離で囁かれた言葉に、ユウタは目を見開く。
「へ……」
「おねんねもここまでだぜ、勇者様」
いつもの柔らかな、甘いハスキーボイスではなかった。作り物の『ネージュ』の声をかなぐり捨てた、ざらついた『セルジュ』の声。聞いたことのない声色が見慣れた唇から飛び出したことに、ユウタは目を白黒させている。
「ね、ねー……じゅ?」
はくはくと震える唇、恐ろしくなって、瞳からは勝手に涙がこぼれる。ユウタの無様な姿を見た『ネージュ』は満足そうに笑うと、やっとユウタから顔を離した。
にこ、と笑ったネージュを見て、魔王は興味深そうに問う。
「……そなた……その姿は偽りか?」
「ご名答。さすが魔王様です」
真っ白なベールを脱ぎ去り、それを胸の前で抱えて歩み出ると、セルジュは魔王に跪いた。
「おや、おやおや、我に頭を下げるなど、どういった風の吹き回しか」
セルジュはミルクティーグレージュの髪を軽く指先で整えて顔を上げる。
エメラルドの双眸が、何か獲物を狙うようにぎらりと光った。
「わかっておいででしょうに、悪いお方だ」
「わかっていたのはそなたが本来の姿を隠しているという事だけ。その理由までは知らんさ」
「わたくし、いいえ、オレは『セルジュ』、仮の姿を演じていたのは……」
肩越しに、親指で背後にいるユウタを指す。
「アレを金づるにするためにございます」
すがすがしいまでの笑顔に、魔王はきょとんとしてしまう。それから、赤い瞳を好奇心に光らせてセルジュを見つめた。そのやり取りを見ていた勇は、驚いて立ち尽くしている。
「ほう、それには何か理由がありそうだ」
「へ……? かね、づ……? 共に、平和な世界を築きましょうって……」
いつの間にかあの大きな手から解放されたユウタは、かすれた声で呟いて地にへたり込んだまま震えている。
「平和な世界を築きたいってのは嘘じゃないさ。オレだって初めは勇者様がどんな信念をお持ちでどんな指針で行動されるのか、知らなかった」
こつ、こつ、と真っ白なヒールブーツを鳴らしてセルジュはユウタの前に立つ。
「お前が『まともな』勇者様であれば、オレだって真の意味でお前に仕えただろうよ」
腕を組むと、セルジュはため息を一つ。
「ふたを開けてみたら、アロガンツィアの勇者様は皆からちやほや褒めそやされるのが好きなだけのとんだ甘ちゃんと来たもんだ。戦闘だって自分からは動きやしない。格好のつくとどめだけ担っていたが、危険には決して自分から挑まない。いつだって前線で体張ってたのはフレイアやアイザックのような物理攻撃型の仲間だった」
「なに、を!」
立ち上がって反論しようとするユウタの鼻先をちょい、と突いて、セルジュは笑う。
「おまけに重度の女好き。オレを仲間にしてくれたのも、この見てくれが好きだったからだろ? ざまあねえな」
大好きだったあの顔、あの瞳、艶やかな桜色の唇から紡がれるのは罵倒。ユウタさん、と甘く囁く彼女はもういない。ユウタは最愛の女性の喪失による悲しみと、騙されていたことへの悔しさがないまぜになって、もうぐちゃぐちゃだった。
ネージュをパーティに入れたのは、ヒーラーが欲しかったからなのは間違いない。けれど、数多く集まった候補の中で最終候補に残った者たちのうち、一番『好み』だったのがネージュだったのもまた事実なので、セルジュのその言葉への反論は出なかった。
悔し気に言葉を詰まらせるユウタを嘲笑い、セルジュは終止符を突き付ける。
「これでお前とも終わりだな」
「くそ、……くそっ、僕を騙したな!」
「どれの話?」
「せ、性別もだが、魔王が弱っていたなど」
セルジュはユウタが言い終わる前に、その右頬に左フックを決めた。ばき、と恐らく奥歯が折れた音が響く。
「がはっ、な、なにっ、ぶっ」
口の中が切れて、ユウタの唇から鮮血がぼたぼたと滴り落ちる。
思わず駆け寄ろうとしたのは、勇だった。それを、アドラが止める。セルジュの回復魔法のおかげで止血に成功したアドラは、マルタンたちに合流して場を静観していた。癒し手を引き継いだのは、メリアだ。
あいつは手加減してるよ、あれでも、と勇の耳にささやくと、勇は信じられないものを見るような目でアドラを見た。アドラは黙ってうなずく。ひやひやしながら、マルタンとメリアは一連の様子を見守るしかなかった。
「今、魔王が弱っていたって……?」
「恐らくネージュ……セルジュがユウタを扇動したんだろ。魔王に敵うようなパーティではないってわかっていて、この展開になるように仕向けたんだ」
毎回マルタンを追ってこれたのも、セルジュが持つ『捜索のコンパス』の力のおかげだったことを明かすと、マルタンは「いつの間に」とエニレヨで負った傷の場所に視線を遣った。その部分はもうすっかり癒えているし、毛だって冬毛で、もふもふしている。
「……あの時、ネージュさんが言った「オミゴト」ってこういう事だったの……」
「多分な、あたしらが初めて会ったときには、もうユウタの事を切るつもりで動いていたんだろ」
「……ちょっとかわいそう」
「情けかけてる場合か? あんなクズだぜ」
いい気味だ、とアドラは本音を隠そうともしない。
ユウタがゲホゲホと口の中の血を吐き出すのを見ながら、セルジュは、ふんと鼻を鳴らす。
「仲間と思っていた人間に殴られてもわからねえもんなあ、お前みたいなバカは」
「それ以上、僕を……侮辱するな……」
セルジュを見上げるように睨み、ユウタは精一杯強がる。
「プライドだけは高くていらっしゃる。まあ、姿を変えていたのを見抜けなかったのは仕方ないさ、このオレ様が、美しすぎたのが悪い。ごめんなあ?」
セルジュは、口の端をぎゅっと吊り上げて意地悪く笑い、心にもない謝罪をした。そして、わなわなと震えるユウタに追い打ちをかける。
「だが、魔王が弱っているだなんだってのは、お前が情報をきちんと処理して判断できなかっただけ。オレを妄信してくれてあ・り・が・と」
言葉尻に合わせ、ちゅっと音を立てて投げキッスをする。
その色気に打たれたやら、怒りやら悔しさやら、様々なものが混ざってユウタは頬を紅潮させた。
「恨むなら恨めよ。その前に自分のおつむの方を恨んだ方がいいと思うけどな」
セルジュはわざとらしく右手の人差し指で自分のこめかみのあたりをトントンとやって侮辱を重ねる。さすがにそれはやりすぎじゃないか、と魔王さえ思うほどだった。
いよいよユウタが掴みかかるか、と言うところでだ。
「ッハ、ここまで言ってもまだ元気か?」
ユウタの左拳が迫る。その手首をぱっと掴んで、セルジュはユウタを魔王の前へ突き出した。
「魔王様。先ほどのお話を聞いて、わたくしはあなたのお考えをもっと知りたいと思いました。魔族は自分から他者を傷つけるような真似はしない。それが事実であるならば、あなた様と人間が戦う理由はないはずです」
やっと自分に話を振ってくれた、とばかりに魔王は嬉しそうな顔をする。
「おや、人の子、そなたは我の話をきちんと聞いていてくれたのか」
「……やはり悪いお方だ。わかっているくせに」
魔王は、くふ、と笑ってセルジュに話の続きを促す。それで、その勇者を我の前に突き出して、どうしろと言う? と。
「まだ、あなたにとってわたくしは信用に値する人間ではないと思います。今までこいつと行動を共にして犯した愚行のすべての償いはさせていただきたい。それこそ、命を持ってでも」
「ほう」
セルジュは、魔王が人の命を奪うことはしないとわかっていてそう言っているのだろう。つまりは、死で贖うのではなく提示されたことを何でもする、という話と魔王はとらえた。
「ですが」
セルジュの続けた言葉に、魔王は視線で次を促す。
「――こいつの終焉は、見届けたく」
告げると同時に、ユウタの手首を捻り上げるようにしてずい、と魔王の方へさらに差し出す。よろめきながら怯えた目で強大な力の前に躍り出る羽目になったユウタを見て、魔王は憐憫の目を向けた。
「……終焉、ね」